第9話 『Silver a fallen Angel』

 視界が紅い。ずきずきと疼く痛みに耐えかねる。頭を強く打った衝撃で、瞼の血管が切れてしまった。だらりと血液が片目を覆う。

 状況が理解できない。なにが起ったのかわからなかった。誰かに呼ばれた気がして、そうして自分はここにいる。

 火傷のするほどの腹部の熱さを、少年は始めそれが痛覚だと気が付かなかった。

 太陽に熱せられたアスファルトに額を押しつけ、横殴りの視界を二秒ほど眺めて、自身が倒れていることにようやく気付く。

 ――痛い。

 信号機の青が点滅する。訝しむような視線が、針のように身体を劈く。痩せ細った四肢は、端から見れば死体のそれと変わらない。

 人がいる。人がいっぱい。

 制服姿のカップル。営業で汗を掻くサラリーマン。どれも日常の景色。誰もが幸福とは謂わないまでも、細やかな暮らしを過ごしている。

 ――そして、彼等は誰も。僕を助けない。

 ぎらりっ、鈍色の刃が煌光る。その先端は生々しい朱で塗りたくられ、周りの大人は逃げ惑う。


「あと少し……で――」


 息が切れる。上手く空気を吸い込めない。すでにボロボロの体を舐めるように。ナイフ男の目つきが不気味に歪む。

 どうして。

 痛みより疑問の方が大きかった。

 どうして自分でなくてはならないのか。いったい自分がなにをしたのか。ただいきたい。それだけが全ての望みだった。そのはずなのに――

 激痛が走る。意識があるほうがおかしいくらいだった。

 男の咆吼が上がり、踊り狂ったように肉薄する。

 あと少しなんだ、あと少しであの人いる家に。あの人のいた家に帰れる。

 伸ばしかけていた腕は、杭を打たれた板のように途切れた。ただし木屑の代わりに、おびただしい鮮血を散らしながら。


「――う……あ」


 もはや声すらでなかった。まるで自分のものではないかのように、ゆっくりと指先が冷たくなっていく。

 六日間なにも食べていない体を何度も何度も執拗に傷付け、慈しみ、愛でて、男はナイフを突き刺した。

 嫌だ、死にたくない。こんなところで。

 それは恐怖ではなく、果たせなかった約束の後悔。もう動かす事も出来ない身体を懸命に震わせ、感覚の失われた右手を伸ばす。

 どうして、どうして■だけこんな目に――

 どれだけ苦労しても、どれだけの仕打ちを受けても。神様は助けてくれない。いや、そもそもこの世に神などいないのだ。

 そう至ってやっと、■は憎しみを憶えた。すでに事切れた身体を引き千切って、世界を恨む。

 嫌いだ。嫌いだ、嫌いだ嫌いだ嫌いだ嫌いだ。

 こんな世界は――




「いらない」




 そこでようやく、御手洗小豆は意識を覚醒させた。


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