第8話 『Cocoa of bear fruit day』

「でっきたぁーっ!!」


 エプロンを引っ剥がして飛び跳ねた華奢な四肢が、歓喜の悲鳴を上げる。

 その反動で巻き上げた粉砂糖を頭から被ったことなど気にした様子もなく、長髪の眼鏡女子こと小豆は、完成した超物をまじまじと見詰めた。

 生地の滑らかさや表面の光沢をくまなくチェックして、安堵のため息を漏らす。

 均一に塗られたチョコレートソース。魅惑的なカヴァーの膣はミルクたっぷりのカカオムースとふわっふわっの生地が重ねられた厭らしいまでの甘いブラックケーキ。

 思わずにんまりと目を細め、見事な出来映えに誇らしく感じながら、さて、と視線をキッチンに戻す。

 甘々とした粘りけのある香りが部屋中に充満している。換気を行わなかった所為か、毒々しいともとれるカカオの刺激臭を発する調理器具の残骸を見下ろして、


「……片付けるか」


 なぜか一面銀世界の眼鏡をかけ直すのであった。


   ○


 こびりついたチョコだったものに苦悶しながら、手洗いで調理器具をぴかぴかにする。筋肉痛になるほどの重労働な清掃を終えて、ようやく片付いた台所におさらばして、ひとりぼっちのソファに座る。

 しばらく使っていなかった家具が苛立たしげに軋みをあげる。


「……」


 長時間の作業に疲れたのか、ぐったりと体を預けた少女は、薄暗い天井を眺めたまま物思いにふけった。

 数ヶ月前の記憶を、古びた棚から引き出す。

 ここ最近、想い人は異常だった。

 今までに何度かそういったことはあったが、それでも二人のなかは変わらないと信じていた。

 だが、あの日。旧校舎での出来事以来、彼は私から一方的に距離を置くようになった。そのときのことは視界に靄が掛かったように曖昧で、なぜ茶柱がそんなことをするようになったのか、少女は検討もつかなかった。

 加えて、彼自身の不調も問題であった。

 気合いを入れたクリスマスは、茶柱が風邪をこじらせたために、やむなく小豆はかつての家で年越しを迎えた。ようやく回復した彼と訪れた、一日遅れの初詣で視た茶柱の姿は痩せ細り、生気のない眼差しがひどかったことは記憶に新しい。

 理由を聞いても、苦笑いを浮かべるだけで、無性に母性を駆られた。年上なのに、なにもできない悔しさが身を悶えさせる。

 一月の人混みのなか、か細い腕を握る。石畳の乾いた音が、もの寂しげに少年を見据える。

 自然と力が強まって、茶柱が痛そうに顔を顰める。たまらなくなった小豆は、人目も気にせず彼を抱き締めた。


「……せんぱい?」


「話したくないなら、話さなくていい。でも――」


 おぼろげな輪郭に触れて、キスする。茶柱は照れ気味に抵抗したが、お仕置きなので容赦はしない。栗色の髪から愛おしい匂いがする。男子高生らしくない薫りはなんだかとても落ち着いて、嘘のように可憐だ。


「……いつか」


 やがて絞り気味に聞こえた小さな声音が、身体を寄せる。雪桜が、名残惜しく散っていく。


「――いつか、話せるときが……くるといいですね」


 甘くて濃厚な接吻はまるで別れを告げるようにそっと、儚く離れていった。


   ○


 その光景を噛み締めるように思い出して、ソファから起き上がる。

 あれから一ヶ月が経つ。最近ではいつもの調子で振る舞う恋人は、やはり見えない壁を置いていた。

 なんとかその溝を埋めようと、幼気な乙女が考えあぐねた結果、いまに至るのである。

 二月十四日。言わずとも知れたバレンタイン。

 茶柱には、これ以上ないほどうってつけの日だ。そう思い立ったのが2週間前のこと。

 そこから試行錯誤を重ね、ようやくできた自信作が今日13日のさっきだ。

 ぎりぎりだったため、こうして渋々実家で作業していたのだ。当の本人には当日まで秘密である。久々に恋人らしいことを私がしたいからかもしれない。

 夕暮れに渡す愛の結晶。そんな妄想をしながら、シャワーへと歩く。今日は泊まるつもりだったので、夕飯はコンビニ弁当で済ませることにした。

 いつもと違って、茶柱が髪を乾かしてくれないのに、不満気味に頬を膨らませる。そのままベッドに飛び込んで、。ぐったりと横になり、身体を丸める。

「早く明日にならないかなぁ……」

 君のご飯が食べたい。そう強く思った。

 

 

 けれど、もうその日常は訪れなかった。



 その日は予報を裏切った雨が心を濡らした。なんども連絡した恋人の携帯は繋がらず、メールの返信もない。

 足取りが速くなり、終いには全速力で走り出す。靴が泥水を吸って、気持ち悪い。せっかく作ったチョコをずぶ濡らしにしながら、アパートを目指す。

 もう何度目になるか判らないほど通い慣れたはずの道は、そう遠くないのに、その日はやけに長く感じた。

 焦れったい衝動に駆られながら、なんとかアパートに続く一本道の坂を上がる。


 走るなか、ふいに通り過ぎた女性の姿がなぜか印象深く残った。

 白いワンピースに白い肌、死体を連想させるその容貌はどこか見覚えがあった。日本人離れの透き通ったせんぱくの瞳。作りもの染みた華奢な手足が灰色の世界を彩る。

 そうして冬風になびく長髪は、見慣れた誰かの面影を浮かばせる。


 一瞬、脚を留めたくなるほどの美貌だった。けれどどれとは対称的に、身体は彼女から遠ざかることを望んだ。

 早く茶柱に逢いたい。その思いだけで、脚を動かした。

 やっとのことで視界に入ったそこは、なんだか雰囲気が違っていた。嫌に人気が無い。隣近所さえ、誰ひとり人のいる気配がしなかった。雨のせいかもしれない。

 脚早に階段を上がる。鼓動が早まり、痛いほどの冷気が突き刺さる。吐き出された空気は急激に低下し、白い靄が生ぬるい。

 鍵は掛かってなかった。

 扉は動かない。錆びた鉄の感触が掌をなぞり、背筋を寒気立たせる。繰り返される焦燥に駆られながら、息を整えて握り手を強く廻す。

 がちゃっ。乾いた音が少女の意識を押し止める。

 ゆっくりと開いた扉は、ホラー映画にでも出て来そうな鈍い音を立てて、そして止まった。開けた視界に観えた景色は、小豆の想像とは遙かに違った。

 薄暗い室内に照明はない。いや、あるにはあるが古びて使えないのだ。部屋を間違えたのかと思ったが、番号は104。紛れもない彼の家である。

 携帯のライトを照らし、茶柱を呼ぶ。だが、当然のように返事はない。

 訝しげに眉を寄せながら脚を進めると、なかは騒然としていた。

 趣味の良いインテリア。アンティークに詳しくない小豆でも感嘆していた彩りある部屋の面影は一切なく。

 風化して崩れたテーブルの脚、使われなくなった電子レンジ。扉の壊れた冷蔵庫は、視るも無惨な状態で、カーテンには茶色い大きな染みが出来ていた。

 床を覆う埃は手にとってみると分厚く、そんなありさまなのに、キッチンは食器がぎっしりと詰まっている。見覚えのあるものだ。だがそれらは等しく、汚れ古び、まるで月日が止まっているかのようだ。

 その中で一つだけ見覚えのないものがあった。

 ローチェストの上にかざられた一枚の写真。埃を払いのけて眺めみる。暗がりでよく見えないが、そのなかにひとりの女性の影を見い出した。


「……?」


 ついこの間まで、こんなものはここになかった。いったいこの人は誰なのだろう。こちらを向いて頬を吊り上げるその人の目は、愛しみがこもっていて。なんだかとても、切なくなる。

 だが、ひびの入った写真立てはボロボロで、にわかに私はぞっとした。

 こんなところに人が住んでいるはずがない。

 ここはたしかにここは私たちの暮らした家だ。だが、あまりにも汚れ過ぎている。かつての光景は、もっと儚く可憐で、お伽話のように、綺麗……。

 そう思ったとき、ふいに部屋を包む異様な匂いが鼻を満たした。

 ――自殺でした。

 いつか聴いた想い人の言葉が胸に過ぎる。あれはいったい。どこ、、でしたのだろうか。


 急いで部屋から出る。勢い良く戸を閉めて、走り出す。階段を下り、逃げるように坂を下る。

 振り返ると、アパートの浴室が見えた。窓ガラスが割れたそのなかは、冥界に続く大穴のように暗く、闇が深い。窓から見えたなにかの面影は、このさき一生忘れることはない。 

 再び脚が動いて、怯えるように走り去る。そして、もう二度と振り返ることはなかった。

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