第7話 『non player character』
消える、消えてしまう。
古び腐った床板が軋む。アイツの異様なる殺気に、システムが反応したが、結果は同じだった。咄嗟に半歩後ろに退いた身体は、淡い発光を帯びて死滅する。脳の思考回路が加速し、異常事態を告げる早鐘がばくばくと胸を押し上げる。
身体のなかがひび割れるとでもいうのだろうか、死を表すその感覚が背筋を伝い、限界まで振り絞った首が、後ろに隠れていた少女の存在に気付く。
おそらく何が起ってるかわからないであろう『あの子』は、切羽詰まった表情でこちらを見詰めている。幼気なヘイゼルの見開いた瞳は、三白眼のように大きく、こんなときでも笑みが浮かぶ。
――り、か……?
もう何度目かの囁きが愛らしい。呼ばれた名が、幾度となく記憶を起こす。おかしい、そんな思考はないはずなのに。
懸命に歯を食いしばって、その姿を焼き付けている。
細まった瞳から、大粒の光が漏れる。私という存在をかたどっていた肉体がポリゴン粒子のように、パリンッと乾いた音とともに砕け散る。
肉体から思考が分離するその一刹那の間、私は遠い彼方を眺めみた。
○
九月一日午後四時九分。
世界は唐突に生を成した。人によって創られた電脳世界とでもいえばいいのか。前触れもなく目覚めた私たちは、だが全て等しく同一の目的を持っていた。
『あの子』を幸福にする、という。
私たちにはそれぞれ既存の記憶が与えられていた。それが彼女と円滑に過ごすためのものであり、私たちはそれに従った。
日に日に腐っていく彼女が送る、細やかな幸福を守る。そのために私たち■■は存在する。彼女の求める言葉を掛け、求めるものを与え、そうしてこの世界に繋ぎ止める。
だがそれでも彼女は満足しなかった。どんなに私たちが与えても、彼女はそれを拒み続けたのだ。それは私、松風梨花も同じであった。
私の前をいくあの少女は、周りに愛されていることも知らずに、自身の孤独に身を悶え嘆き続ける。それを私は胸で受け止め、そっと愛でてきたのだ。それが松風梨花という人間に与えられた役職であった。
そのはずなのに、あの子は私を選ばなかった。あろうことかアイツを選んだ。
悪魔、無垢な少年という皮を被った死体は、新鮮な少女の血肉を喰らい、愛撫して自分だけのものにしようとしている。
私たちはそれが許せなかった。誰よりも彼女を愛しているのに、想っているはずなのに。彼女は部外者であるはずのアイツに強く固執した。
ドス黒く粘着質なこの感情をいますぐ彼女に吐き出したい。何度そう思ったかわからない。私だけのものにして、一日中彼女の匂いを嗅いだり、愛でていたい。
だがそれは叶わぬことだ。少女はそれをよく知っている。
誓約書。彼女の記憶によって創り出された我々は、それに抗うことはできない。忌々しい10の誓約は『彼女』を幸福に留めるための最終措置なのだ。
偽りの楽園でいつまでも彼女は暮らしていく。私たちはそれを唯一の目的として、この演目を永遠に続けるのだ。
たとえそこに偽りの記憶が課せられるとしても、あの子が幸せならそれだけでよかったのだ。
――だというのに。
目の前の少年は部外者の分際で、それに終止符を打とうとしている。彼女をまたあそこへと還そうとしているのだ。
「どういうことよ」
呼び出された旧校舎の狭い教室に、努音が響いた。衣服を掴む力が一層こもり、唇をきつく結ぶ。焦りの混じった表情に、少年は身じろぎもしない。
「……あなたに答える義理はない」
「なんで? ここにいればあの子はずっと幸せでいられるのよ? なのにどうして
思考が回らない。現実へ還す。それはつまり、ここで過ごしている全ての■■を、ひいては世界そのものを否定するということだ。
意味がわからない。なぜそのようなことをする必要がある。確かに、アイツの権限を有すればそれは可能だ。
たらりと汗が落ちる。心臓の早鐘が野性的な結論を上げる。
荒くなった息が冷静さを欠き、まともな考えを見いだせない。何度も少年の身体を揺さぶって、怒号を散らせる。
どうして。どうしてそんなことができるの。アンタだってあの世界で、散々思い知ったでしょ?
なのにどうして――。
――るさいんだよ。
ぴくりっと、アイツの目つきが変わった。それは憎しみにさえ見捨てられたものの反抗心。
「たぶんあなた方には、一生わからないんでしょうね」
冷ややかな目線が交錯する。途端、掴んでいた腕が引き剥がされ、背後に倒れ伏した。感覚の渦が早送りされ、男が言葉を吐く。
「お前はこの世界にはいらない――」
男の手が黒ずむ。腐敗した腕を再現するかのように、それは形を崩していき、空間と融合した。
細い指が梨花の腹を抉る。無機質的な感触が全身を満たし、なにかを埋め込まれる。
「――っ!?」
アイツの表情は見えない。心がしんと冷めていくように、体の熱が真ん中に集まって――。
ああ、死ぬ。直感的に感じた。だが、少女に悲しみはなかった。そもそもそんな
全身の感覚がなくなる。みちみちと指先が膨れる。皮膚が風船のように膨張する。やがて限界を感じた肉体は、膨らませすぎた空気を吐き出すように、体が割れる。それは何の比喩でもなく。実際に破裂するのだ。
私という存在をかたどっていた肉体がポリゴン粒子のように、パリンッと乾いた音を立てて、砕ける。
――り、か……?
途端、嫌だと思った。消えてしまっては、あの子を幸せにできない。
いままで無感情だった胸は、空っぽで。けれども、温かく熱を灯し、
「……あ――ず……っ――」
そうして少女は存在から消滅した。後には何も残らない。過ごしてきた日々も、彼女が持つ記憶も。跡形もなく消えていった。
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