0ー4

 想えば、アイツとの想い出はいつも雨が降っていた気がする。

 小学三年の夏。その日は気象庁が最高気温40度を上回ったといって、テレビが騒ぎ立てていた。

 加えて雨による湿気のせいで夏休みの貴重な1日を失ったオレは、自宅のエアコンをフル稼働させ、漫画を読みふけっていた。


「……」


 もう幾度となく同じ日常を繰り返し、つまらない毎日を送る。台詞の細部に至るまで読み憶えてしまった本を途中で放り投げ、あ~っと表情ない息を口に出す。

 変わらない天井を見上げては、停滞した心が乾いていく。宿題などやる気にならなくて、ただ呆然と「日常」を垂れ流す日々。なんてつまらない。

 子どもながらに冷め切った思考だったオレは、時間という圧倒的な退屈に埋め尽くされていた。

 そんななか、あいつは現れた。

 引っ越してきた隣人の挨拶で、母親の影もじもじと隠れていたことをよく憶えている。

 チャイムが鳴り、気怠げな脳が起き上がる。ぐうたらに階段を降りて、返事をする。両親は共働きのため、日中はオレ一人なのだ。

 玄関に放ってあったスリッパに脚を滑らせ、扉を開ける。

 長話だと億劫だな、あくびをひとつしながら思案したのち――



 目の前に人形がいた。



 豊潤な花の香りがむさ苦しい玄関に入り込む。桜に似たそよ風に運ばれた天使の瞳が、まっすぐに向けられる。


「ほら、すみれ。挨拶しなさい」


 母親が催促する。彼女は新しく隣に越してきたそうで、内容はあまり耳に入らなかった。

 オレの目には、あいつしか映らない。


「……うぅっ、やだ」


 すみれと呼ばれたその女の子は、母親の脚元を盾に覗き見るようにして、いやいやと首を振る。

 ハーフだろうか。色白というものを生まれて初めて見た。

 日本人離れした菫白の長髪は、母親のものとは違う。子どもながらの想像でいう、氷のお姫様。

 色素のない瞳は、職人が丹精込めた芸術品のように美しく、オレは少しのあいだ、呼吸するのも忘れてしまっていた。

 三白眼が大きく見開かれ、何年ぶりかの彩りを帯びる。無意識に口が開き、感嘆のため息が漏れ出していた。

 彼女は小動物のように、いやいやと首を振り、けれども最後には涙ながらにおずおずといった調子で、オレの前へと近づいてくる。

 心拍数がとくんっと跳ね上がり、額が熱い。なんだか妙に緊張していた。背筋から、変な汗が垂れ流れる。

 少女の唇に意識が持っていかれる。


「――穂波すみれ、です……よ、よろしく……っ!」


 顔を耳まで赤く染めながら、精いっぱいの自己紹介に数秒遅れて、


「―――ああ、おお……」


 つい、曖昧な返事をしてしまった。内心、たじろいでいた。

 それが彼女にどう受け取られたのかわからないが、おそるおそる指先を伸ばしてくる表情は、なんだか言葉にできない。

 握手を求められているのだろう。大理石で創られたヴィーナスの虚指に手をとる。

 表情を見れなかった。だけど、握られた手の感触が柔らかくて。

 妙にこそばゆかった。

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