第42話 白雨

 ――馬の腹を蹴る力すら、失われ始めていた。

 それでも中流へと急ぐリーンハルト。流れる川の水すらも追い越した。


 やがて、兵達の声が聞こえた。

 渡河を決行するバーデ軍、水際で防衛するファルイシア軍。だが見る限り、圧されている。戦力差は倍以上あるだろう。敵軍の渡河が完了すれば、恐らく城下は守られない。

 雨は降り始めていたが、川の水はまだ少なかった。水量が戻るまでの防衛戦、容易くは成らない。

 それでも。

「私が、行かなければ……」

 シュバルベンシュバン卿は、撤退戦で一人残り味方を逃した。

 大切な息子の、誕生日に――


「退くなッ!!!」

 突然の怒声に、両軍の動きが一瞬止まった。

 見れば上流側の小高い丘の上、馬に乗った騎士が一人。

 それは血塗れで傷だらけで、戦場に似つかわしくない程に繊細で、美しい銀髪の男。

 しかしそれを見て、ファルイシア国軍兵は狂喜の声を上げた。

「リーンハルト様だ! 騎士リーンハルト様だ!!」

 誰かが叫ぶと同時にリーンハルトは丘を駆け下った。

「堰は開いた! これ以上無謀な侵略を続けるのならば、私が斬る!」


 ――きっとこの雨は。


 決して強いとは言えない。だが確実に、どこか優しく落ちるほろ時雨。


 ――ハインリヒが、降らしてくれた。


 ぬかるみ始めた地面の上を、馬で駆ける。

 また一粒、血が滴り落ちた。

 リーンハルトは、敵軍の中へ斬り込んでいった。






 ユリウスは自分の剣を床に突き立てるようにして、ルーペルトの剣を受け止めた。

(勝てなくてもいい……この男を止められれば……!)

 それは敵を倒すためでも、自分が生き残るためでもなく、ただ時間を稼ぐためだけの戦術。反撃に移れる体勢にはない。

 待ってくれている家族がもういないのだから悲しむ人間もいないという誤解に基づく決死の覚悟に於いて、矛盾を孕んだ願いを抱いた。

 ルーペルトは、また剣を振り上げていた。

 ユリウスは剣を床から引き抜こうとしたが、思いのほか深く刺さっている。

 ルーペルトの振り下ろした剣を床を転げるように躱したが、自分の剣からは遠ざかってしまった。

「……逃げてもいいよ」

 ルーペルトはそう言った。

 背後には、確かに敵はいない。背を向けて全力で走るのなら、きっと逃げ切れるのだろう。

 セヴェーロとヴィルフリートを見た。二人は、囲まれる事を嫌い翼廊で壁を背にしている。重傷はないが、細かい傷を負っている。

「逃げるものか!」

 大聖堂の中で強欲に、何も失いたくないと思っていた。

 願いもせず、祈りもせず。

 ユリウスは鞘を手に持った。


 やがて、迷いを失った。

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