第40話 雨意
空に雨雲が流れていた。
雨季が過ぎたこの時期としては、珍しかった。
堰の管理小屋は、死骸の山と血の海。
「あんた何なんだよ……たった一人で……そんな傷だらけで……!」
ただ一人生き残った反国王派の男の前に立つ、騎士リーンハルト。
剣を男に向けていた。
「……ずっと、セピア色の世界に生きていた……幾つもの花を育てても、全て、色褪せていた」
堰は、既に開かれている。
開いた後も、斬り続けた。
「今はこの流れる血が、鮮やかな赤色に見えている……」
男の、首を刎ねた。
――医者は、原因不明と匙を投げた。だがリーンハルトは気が付いている。
“命ったさリーンハルト……!”
ルーペルトのナイフには毒が塗られていたのだろう。傷の痛みが、あまりにも長引いている。出血が止まらない。
それは恐らくバーデ特有の毒であり、ファルイシアに解毒の技術がない。
それでも
(……まだ死ねない)
死ねない理由があった。
ある日の夜、ユリウスが療養室に来てくれた時の事。
微かに汗の匂いを感じ、稽古の後である事を知った。
同時に、その稽古に付き合えない事が口惜しかった。
「退屈してませんか?」
と訊かれ、
「楽でいい」
と返した。
剣を直接教えていた時は、ユリウスの乏しかった膂力と間合いが日を追う毎に成長し、それはリーンハルト自身にとっても楽しみになっていた。
今は見られないでいるが、
(……心配ないのだろう)
ユリウスは、きっと一人でも成長出来る。そう思った。
「珈琲をですね、淹れようと思いまして」
「そうか、それはありがた……」
言いかけて、止まった。
ユリウスはサイフォンとアルコールランプ、それに火打ち石と鋼板を取り出し、ベッドテーブルに置いた。
「……ここで?」
「はい!」
朗らかに返事をしたユリウスに、リーンハルトは頭を抱えた。
「頭痛ですか? 珈琲が効きますよ」
言いながらユリウスは、既に準備を終えている。珈琲の粉を取り出していた。
「……ユリウス、ここは燃えやすい物も多い。せめて窓際で……」
「平気ですよ、それ程危ないものではありません」
「いやしかし……」
リーンハルトは立ち上がろうとした。珈琲の香りは、不思議と傷の痛みを和らげる。痛みが和らぐと、動きたくなる。
ユリウスと話をしていると、絡まる糸のような頭の中の鬱屈な事柄も忘れられた。
ブランケットから出て、ベッドから足を下ろした。
と。
「あっ」
ベッドテーブルに、足をぶつけてしまった。
倒れたサイフォンを掴んだリーンハルト、しかしアルコールランプが床に落ちる……寸前に、ユリウスが受け止めた。
「やっぱり、窓際に行きましょうか」
「……そうだな」
気恥ずかしそうに、返事をした。
出窓を開いた。棚に、道具を置き夜空を見る。三日月の下端に細い雲がかかっていた。
暫く空を見上げていたユリウス、リーンハルトもやがてその隣に立った。
少しだけ、沈黙が流れて、
「ハインリヒは」
先に、口を開いた。
その言葉に、ユリウスはリーンハルトを見た。
リーンハルトは特段、伝えたい事柄があった訳でもない。ただそう言えば、彼女はこちらを向いてくれる事を知っている。
「夜の空を、よく見上げていた」
月ばかりに向けられているユリウスの目を、自分に戻したかっただけの事。
この場所にいられる時間も永遠ではないのだろうから、少しでも密度が濃くなれば良いと思っていた。
いずれ終わらせなければならないいくつかの鬱屈な事柄を、ただ、先送りにしているだけの瞬間に。
「珈琲、淹れますね」
――これだけ直向きな人間ならば、いつかは報われる日が来るのだろうか。
複雑な幻の中にいた。
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