第21話 夕虹
「待っ……!」
ユリウスは男を追わない、少年が宙に投げ出されている。
ヴィルフリートは、一瞬躊躇った。“間に合わない”と思った。それでも思考よりも早く足が走り始めていたのは、ユリウスが迷わずに動いていたからである。
川に向かって跳び、ユリウスは宙で少年を掴まえた。上流からは濁流が迫ってきている。
(堰が外された!)
ヴィルフリートは走りながらユリウスの剣を拾った。それから必死に腕を伸ばして、川に落ちたユリウスの手を掴んだ。剣を地面に差し、体を支える。
「少年! 僕の手を伝って!」
言われた通り少年は、力を振り絞ってヴィルフリートの体を伝い、なんとか川から這い上がった。
男たちがユリウスの馬を盗んで逃げていくのが見えた。これ以上この場にいれば危険だと判断したのだろうが、後輩と見た男はもう一人が駆る馬になんとか片手を引っ掛けているだけであった。
しかしともかく、ヴィルフリートの馬は残っている。それはまだ幸いとも言えた。
「その馬を使って、街から助けを呼んできて下さい!」
少年には馬術の心得はないのだろうが、ヴィルフリートの馬はよく訓練されている。少年が馬によじ登り、形だけでも手綱を握るとすぐに走り始めた。
街まで、馬で急げば十分はかからない。だが雨脚は予想以上に強く、川の増水が止まらない。
「ヴィルフリートさん……! 限界です、貴方だけならまだ助かります……!」
ユリウスの体は完全に川の中にあり、顔を出しているのがやっとの状態だった。手を離せば、すぐに流されていくだろう。
「ユリウス、耐えて下さい!」
支えにしている剣も水圧に晒され、いつ抜けてもおかしくない。
「私なら、いいですから……! このままだと二人とも死んでしまいます!」
――そうかもしれない。
ヴィルフリートにだって分かっている。最悪の可能性もある。だけど、それは理由にはならない。
「私の手を離して下さい!」
「離すものか!」
もしかしたら、助けは間に合わないのかもしれない。しかし“間に合うかもしれない”。
手を離せば自分は確実に助かる。手を離さなければ、二人とも死ぬかもしれない。
それでもヴィルフリートは、ユリウスの手を離さない。“手を離す”という選択肢は、存在しない。
――ハインリヒが、教えてくれた事は。
何故あのとき、父の死に様を語ってくれたのか。
それはきっと、ヴィルフリートが同じ矜持を持っていると信じていたからなのだろう。
ハインリヒは一度だけ、自分の“妹”の事をヴィルフリートに語った事があった。
両親を早くに亡くしたから、唯一の家族である事。だから、なにがあっても守ってやりたいと思っている事。話に聞いただけでもヴィルフリートは、ハインリヒがその妹を愛しているだろう事は感じ取れた。
「一度、お会いしたいですね」
ヴィルフリートが言うと、
「彼女が、もう少し大人になったらね」
ハインリヒは穏やかに笑った。
尊敬するハインリヒの唯一の家族ならば、自分だって何があっても守り通したいと思う。
もしいつかその“妹”に会えたなら。
そのときは、それができる騎士になっていたい。
「ユリウス…………!」
この手を離したら、いつかそのハインリヒの妹に出会えても、きっと守りきれないだろう。
――そんな気がした。
それから、どれくらい支えていたのか。
しかし、予想より少年は速かった。雨の中、腕を負傷した男が二人走っていたのを見て、巡回の一般兵たちが異常を感じ取ったらしい。捕らえて事情を聞くと同時に少年も到着し、すぐに救助に向かえたという。
ロープを肩に巻きつけた兵がヴィルフリートを掴み、岸の兵たちが引き上げた。
安全な場所まで退避して、ユリウスとヴィルフリートは兵たちに感謝の意を表した。少年は孤児を預かる教会に送り届けるように頼み、兵に預け、二人はようやく一息つけた。
兵と少年を見送り、その場に座り込んだ。城に報告が行けばリーンハルトが馬車でも寄越すだろう。
雨が、上がった。
「ユリウス、正直に言います」
不意にヴィルフリートが言った。
「僕は君を疑っていました。でもそれは今、間違いだったと確信しました。君は命を賭して、少年の命を救っています。あの状況でなかなかできる事ではありません」
「そんな……私はただ必死で」
「必死になれるのなら、きっとそれが君の本当の想いなんです」
ヴィルフリートは笑っていた。びしょ濡れで泥だらけで、そして邪気のないその笑顔をユリウスに向けた。
「そんな君が、僕らを騙す筈がありません」
「あ……」
急に、ユリウスは胸が傷み俯いた。ヴィルフリートの眼を視れない。どうして自分はこの人を斬るつもりでいたのだろうかと思った。
例えばヴィルフリートが兄の仇だっとして、それは本心からの行動だったのか。
(お兄ちゃん……)
どうすればいいのか、答えが出ない。
「ユリウス」
呼ばれて、ゆっくりと顔を上げた。ヴィルフリートは東の空を見ている。
「虹が出ていますよ」
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