第88話『オマエには負けたくない』

 周防を二塁に置いて同点ノーアウトでゲームが再開すると、初っ端から六番打者がレフト前ヒットを放ち、一塁へ出塁する。

 とは言え、代わったばかりの武下が良い守備位置にいたのが幸いし、周防の進塁を防いだのは完全にバッテリーを救った。

 その証拠に、走者を一二塁に溜めた後の北条のエースは、実に冷静だった。続く打者を次々に打ち取り、瞬く間にアウトを二つに増やす。(成長の面影を見た岩鞍が、感動のあまり携帯電話で写真を撮りまくっていたらしい)

 あと一つ乗り切れば、北条のスーパー反撃タイムだ。そんな空気が漂うなか、バッターボックスに登場したのは、千宏であった。

 ……うっわー、こいつ絶対塁に出したくないわぁ。

 北条ナインの心の声が、満場一致で漏れ出た。


 正直、予想外だった、と後に千宏は述べている。

 前の打席でショートフライに打ち取られていた千宏は、舌舐めずりをして、三投目に来たボールを躊躇いなくカットする。

 あ、やべっ! まーた打ち上げちまった!

 一瞬ヒヤリとした。

 だがその打球は自陣のベンチの方へ弧を描く。野手達が追い掛けているが、あのファウルボールはベンチの中へ入っていくだろう。捕球は難しい。

 千宏はホッと息を吐いた。

 束の間──微塵も諦めていなかった一人の野手が、三塁側のベンチ目掛けて決死のダイビングをする。

 おいおい、嘘だろ……と千宏は目を剥いた。


 打球がこちら側へ飛んでくるのを察知し、前列に座っていた白付メンバー達は、プレーの妨げにならないように身を引く。その中には三葉もいた。

 そして三葉は、フェアゾーンから翔斗が執念深く白球を捕りに来る様子を瞳に映し、鼓動が早くなるのを感じた。

 いや、胸キュンしてる場合じゃない。ファウルボールが、何か恨みでもあるのか三葉目掛けて迫り来ている。避けなきゃ……! と、さらに身を退しりぞかせる。

 その直後、翔斗は果敢にグローブを突き出し、勢いあまってフェンスを越えベンチの中へ飛び込んだ。こんな時に、幼少の頃習っていた合気道の受身が役立つとは思いもしなかったが。

 派手に押し入ってきた乱入者に固唾を呑む白付メンバーを気に留める事もなく、翔斗はグローブを掲げた。掴んだボールは決して離さなかった。


「アウトッ!」

 塁審のコールが響くと、ワァッと歓声が上がり、心底ホッとした表情で翔斗は立ち上がる。

「大丈夫?」

 と、声を掛けてきたのは三葉だ。

「あぁ、なんとか。敵陣荒らしてスマン」

 と、詫びを入れながらベンチから出ると、

「肘、ケガしてるじゃない!」

 ちょっと待ちなさい、と三葉に呼び止められ、秒で出てきた絆創膏がササッと貼られる。

 相変わらず鮮やかな手捌きに、しばし絆創膏を見つめるも、

「サンキュ! さすが三葉」

 ニッと笑って翔斗はその場を後にした。

 あいつ、爽やかだな……とベンチにいた誰もが頬を染めてそう思った。

 すると今度は、ベンチに戻る途中の千宏とスレ違う。

「良い気になんなよ、ショート」

 ガンを付けられ、翔斗は一瞬だけ目をやる。

「別に。オマエには負けたくないだけだ」

 涼しい顔で言ってのけて、颯爽と一塁側へ走って行く。その様子に、

「ハハ、むっかつくわー」

 と、千宏は青筋を立てるのだった。


「おまっ、カッコ良すぎだろ!」

「あの体勢でよく溢さなかったなー」

「ありがとう佐久間! キミは僕の救世主だっ」

 自陣に戻ると一斉に英雄扱いされ、翔斗は照れ臭そうにはにかむ。

「その絆創膏、どうしたの?」

 敵陣ダイビングを散々心配した後で、桜が翔斗の肘を見て尋ねた。

「あぁ、ちょっと……少し擦りむいたっぽくて、向こうの奴がくれた」

「ふーん……そうなんだぁ」

 なんとなく、女の勘が働き、桜はそれ以上言葉を紡ぐのを止めておいた。

 さて七回表──北条のスーパー反撃タイムは田城から始まった。

 ……チームを引っ張る側として、俺に何ができるのかいつも考えてるけど、結局は皆に助けられてばっかだよな。

 この試合で出塁したのは初回のフォアボールだけである。加えて同点という状況下、簡単に終わりたくはなかった。

 だからせめて、こういう時ぐらいチームに貢献して、恩返しさせてくれ……!

 田城は何球か見た後、予想ドンピシャの球筋にタイミングを合わせて、バットを振り抜く。

「キ……キター!! タッシー渾身の一撃!」

「見たか、俺らの愛するキャプテン!」

「まさに仏の顔した鬼っ!」

 最後の野次は明らかに悪口だが(おそらく宮辺だろう)、二塁まで到達した田城をメンバー総立ちで盛り立てる。

 ……上手く三遊間抜けて良かった。けど今『鬼』って言った奴、あとで覚えてろよ。

 しっかりとブルペンに視線を向けた。


「キャプテン直々にやり返してこっちもノーアウト、ランナー二塁! エモいなタッシーっ」

 惣丞はスタンドからピシッとサムズアップで讃える。

「次が続けばもっと上出来──あっ……」

 嶋谷が言い終わらない内に、次打者がセカンドゴロに倒れてしまった。

「シマ、変なフラグ立てんなよ……」

 と、惣丞はジト目をするも、バッターボックスに現れた翔斗を見て、

「おっ! 良いねぇー。前の打席でセカンドライナーだったから、あいつめちゃくちゃ燃えてやがんの」

 ニッカリとして言った。

「いや、毅もそれ、フラグじゃね?」

 と、嶋谷は言い返す。

 だがそんなフラグを物ともせず、翔斗は初球を叩き、飛び付いた千宏セカンドは阻止する事ができない。思わず翔斗は拳をグッと握り締め、カバーに入った外野手が捕球したところで一塁に留まる。田城も三塁まで進塁していた。

「おーし! 魂の反撃! 翔斗、サイコーっ!」

 惣丞が嬉しそうに叫び、拳を突き上げた。それに気付いた翔斗は、呼応して左腕を上げた。

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