第87話『後ろは頼んだぞ』

「何故、オマエがここにいるんだ……

 席を立ち、スタンドの通路を歩いていた大貫は因縁の女子生徒とバッタリ遭遇して眉を顰める。

「そ、その節は……どうも」

 と、万理はおっかなびっくり顔を引き攣らせた。

 以前、じょうろの水をぶっ掛けようとした人物(尚、その事件は他に犠牲者を出して未遂に終わった)を目の前にして、「それではご機嫌よう」と猛ダッシュで逃げ出したい衝動に駆られたが、それは違う気がして丹田に力を込め、踏み留まる。

「おいじょうろ女、野球部が嫌いなんじゃなかったのか?」

 フンッ、と鼻で笑いながら見下ろされ、万理はムッとするも、

「私が嫌いなのは、縦社会だとか融通の効かない時代錯誤な考えだけですよ」

「可笑しな事を言う奴だな。だったらそれに縛られた人間の試合を観ても面白くないだろ」

 と、肩を竦める大貫の言葉に、万理は首を傾げた。

「そんな事もないですよ? 私は別にはなから全否定してませんし、自分の知らない世界を観るのは案外面白いものです」

 活躍を願う人がいるなら尚更……とひっそり思い、同学年男子のほとんどを虜にさせたという伝説の微笑を(無意識に)浮かべる。

「……」

 まんまと大貫は、心がトゥンクするところだった。いや、彼女持ちでなければ確実にしていただろう。

「……ファウルボールには気を付けて観戦しろ。それから、部の事で何か困った時は、俺に言え」

 無骨にそう言い残すと、大貫は立ち去った。

「はぁ、どうも……」

 ファウルボールの危険性は昨日身を持って体感済みだが、急に豹変した態度に、万理はキョトンとしながらその後ろ姿を眺める。

 これにてとなった出来事がグラウンド整備中にあったなんて事はさておき、六回裏ノーアウト現在、白付の主将である寺本を一塁に置き、続く打者の周防が粘りを見せていた。

 ……せっかく寺もっちゃんがチャンスメイクしてくれたんだから、俺が簡単にヤラレてたまるかっ。

 バントの指示が出ていない辺り、監督からの信頼もあるのだろう。その期待に応えるかのように、周防は十投目に来た甘い変化球を見逃さなかった。


 コースが甘い……!

 打ち取るつもりで要求した厳しめのコースとは裏腹な投球に、田城は嫌な予感がした。振り抜いた打者のバットがそれを弾き飛ばす瞬間を目にすると、「レフトッ!」と声をあげていた。

 速い打球はとうに内野を抜け、外野へ運ばれる。それを追う今日のスタメンレフトは足の速さには定評があるが、そう簡単に追い付けるほど易しい打球ではなかった。

 際どいトコに飛ばしやがって! 調子乗んなよオラァ!

 威勢良く食らい付くレフトに異変が起きたのはその時だ。

 翔斗は、突然膝から崩れ落ちるレフトの様子が目に入り、マズイと思った。思ったのと同時に、打球を追う足にさらにスピードを乗せる。

 一塁走者の寺本は、二塁ベースをとうに蹴っていた。狙うは三塁ベース、だけではない。

 打球に辿り着いた翔斗はボールを掴む。三塁側からは「まわれ、まわれ!!」という怒号が飛び交っている。

 ホームまで投げるには距離があり過ぎた。手を挙げるサードへ、息をする間もなく翔斗は速球を送る。

 だが手元キッチリに届いたボールを、サードがホームへ返球する事はできなかった。

「っしゃー!!」とフライングで歓喜する三塁側に応えて、寺本がホームベースに滑り込んだ。その横で、間に合わないと踏んだ田城が、「返球するな」という合図を両腕で作っていた。


「ツーベースなんて、なかなかやんじゃん周防さん。さっすが俺の相棒!」

「アンタ、なんで上から目線なのよ」

 三葉が呆れたように千宏を見る。

「しかも周防さんの打球が凄すぎて、あのショートですら手こずってやがった、良い気味でやんの」

 ケタケタ笑う千宏を横目に、

「……ねぇ、さっきから全然寺本先輩の事誉めないのは態となの?」

 と、冷静にツッコミを入れる。

「いいじゃん、どーせあの変態妹が今頃クソうぜぇ程誉めちぎってんだろ」

 口は悪いがその様子が手に取るように想像できて、三葉は何も言えない。千宏は片側だけ頬杖を付くと、

「それにしても向こうのレフト、治療にどんだけ時間掛かってんだよ。足つるとか、どんな軟弱な練習してんだっつーの」

「コラ! 対戦相手にそんな言い方するもんじゃないわよ」

 と、咎める三葉を余所に、

「おっ、よーやく出てきやがった」

 一塁側ベンチからグローブ片手に現れた選手を認めると、千宏は目を瞬かせた。

「あれ? あいつって……」


 北条のレフトは、フィールド内に入る直前でお辞儀をし、全速力でポジションへ向かう。こちらの都合で試合を中断していたのだ。一刻も早くゲームを再開させたい。

 途中、ショートの横を通ると、そのポジションの主と目が合い、

「後ろは頼んだぞ」

 と、グローブを付けたまま手の甲を差し出された。それを見やると、

「おぅ、任せとけ!」

 と、はグローブでタッチを返した。

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