第80話『沼ってる場合じゃない』

「う、嘘でしょ……」

 万理は目覚まし時計を見て青ざめた。その時刻は、試合が始まる十分前を指している。

「な、な、なんでアラーム鳴らなかったのよ?!」

 責め立てたところで目覚まし時計はウンともスンとも言わない。

「やーん、夜更かしなんてするから! 緒方くんが教えてくれた作品に沼ってる場合じゃないじゃん!」

 私のバカー! と万理は物凄い勢いでパジャマを脱ぎ始めた。

 よりにもよって、今日は近所の球場ではなく、車でも一時間以上は掛かる所だ。

 お願い、武っちまだ出て来ないでー! という万理の切実な願望は、果たして監督の心に届くのだろうか。


 ……今日は武下をどこかで出すか。

 しかし早乙女はもう既に決めていた。

 それは本業の、海での一仕事を終えた明け方、漁から帰港し残りの作業を若い衆に任せ自らはそのまま北条の野球グラウンドへ向かおうとした時の事。まだ薄暗い港の一角で、バットが空を切る音を耳にした。その方向へ足を運んでみると、毎日顔を突き合わせている野球部員の姿があった。

 武下か……確かこの辺りのタワーマンションに住んでるとか桜が言ってたな。

 そう思いながら、いつもとは違った顔付きで一心不乱に素振りに励む様子を、早乙女は声も掛けずただ黙って眺め続けた──。

 そんな現場をまさか実の監督に目撃されていたとは露にも思うわけがない。武下は、順調にノーヒットに抑えていくマウンドへ向けて、ベンチから声を飛ばす。

「いいよ、いいよ!! 最高のピッチングだよ、宮辺!」

 ふふ、今日の武下くんいつにも増して凄く声が出てるなぁ、と桜はニッコリ微笑む。

 試合が開始してまだ一時間も経っていないが、既に五回表に入っていた。相手チームに一点も許さない一方で北条は五点を獲得──このままいくと万理が球場に辿り着く前にコールドゲームとなってしまう可能性もなくもないのだが……! とにかくテンポが良い上に絶好調だった。それもそのはず。

「今日の宮辺、めちゃくちゃ良い感じじゃん」

「コントロールだけじゃなく緩急エグいなー。あいつ、ついに覚醒した?」

「てかタッシーの配球も神掛かってるわ」

「教室でいつもスコアブック見て研究してるもんな。たまに経典開いてっけど。夏から根気強く宮辺マイウェイ王子を調教してたし、先々週なんてほぼ寝てなかったんじゃね?」

「うぅっ、本当に努力家……幸せになって欲しい」

「誰かうちの神キャプテンを癒してやってくれ、グスン」

 と、ベンチ組の二年生が涙ながらに褒め称えていると、宮辺の投じたボールを打者が上空高く打ち上げ、田城が難なくキャッチし瞬く間にスリーアウトにするのだった。


「おっし、めぐ! また一発頼むよー!」

 その裏の攻撃は打順四番の恵から始まった。初回に奇跡のランニングホームランで一挙三点をあげたのもあり、打順が回る毎に味方からの期待が高まる。

「任せとけって!」

 声を掛けてきた切り込み隊長の椎名しいなへ、恵は笑顔を返す。

 覚醒したのは宮辺だけではない。

 新チームに入るまで、恵は埋もれていた。実力を伴って入部したにも関わらず思うように芽が出ず、気が付けば田城やこの椎名に先を越されて一年半近くスタンドで燻ってきた。だが、それが自分の現在地だと事実を粛々と受け入れ、真摯にバットを振り続けた。その甲斐あって今がある事は、この上なく有難い。毎打席、そう思うのだ。

 ……まぁ正直なところ、惜しみなく力が出せるのはすんごく楽しいんだよなっ。

 恵はバッターボックスに立つと、喜びを隠しきれないとばかりにマウンド見据えて口角を上げる。そしてピッチャーの投球を何球か見た後、次に来たボールをすくい上げた。

 それは活きの良い魚のように、秋晴れのうろこ雲に向かって、大きく泳いで行った。


「え、渋滞?!」

 球場までもう少しだというのに、万理は思わずタクシーの後部座席から身を乗り出す。

「休日だからねー。お嬢ちゃん、走ってった方が早いよ」

 運転手は本気なのか冗談なのかよく分からない調子で言った。

「えぇー、抜け道とか知らないんですか?」

「おじちゃんこの辺は詳しくないんだよー」

 これは本当の事である。すると、

「分かりました、走ります」

 万理は素早く運賃を渡し、「遠い距離ありがとうございました」とお礼を忘れず、タクシーから飛び降りスタートダッシュを切った。

 弓矢のような、決断と行動の速い気質に呆気に取られるも、

「あんなに急いじゃって、好きな子でも試合に出るのかねー。いやぁ、青春を思い出すねー」

 などと、運転手(昨年脱サラして個人タクシーを始めたゲンさん)は呑気に思うのだった。


「はいキタ六点差!」

「さすがめぐ! 頼れる四番!」

「もう無双すぎだろっ!」

 うぇーい、とスタンドでは大盛り上がりを見せるなか、

「てか万理ちゃん遅いなー」

「今日来るって言ってたもんな?」

「早く来て欲しい! 早く推しに会いたい!」

 まさか寝坊したなんて事は誰も知る筈がない。いや、一人だけ薄々勘付いていた。

 小柳あいつ、また沼にでも浸かって寝坊しやがったな。いっそ、この隙に武下出てくんねぇかなー。

 頬杖をつきながら長谷部は意地の悪い笑みを浮かべた。

 さてさて、球場までは残り三キロ、帰宅部女子には少々辛い距離だ──。

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