第74話『マリーゴールドのように(後編)』

 万理は思った。このやり方はとんでもなく非効率だ、と。

 おかしい、何かがおかしいわ……だいたい、こんなだだっ広い花壇をじょうろ一つで水やりだなんて、どんな罰ゲームなの? 校庭裏の水場と何往復しなきゃなんないのよ?!

 前回当番が回ってきた際は、クラスのもう一人の美化委員が引き受けてくれたので今回初めて万理は受け持つ。

 やーん、緒方くんに手順聞いとけば良かったー。でも水やりに手順とか普通いる?!

 ホースの存在を知るには聞いておいた方が良かったが、つまるところ結果論に過ぎない。

 そもそも何故こんな事になっているのか、それはいつも水場に置いてある巻き取り式の園芸用ホースがタイミング悪く持ち出されていたのだ。

 文明の利器など知る筈もない村人は、何の疑いもなく、いにしえより伝わりし道具で任務を遂行するしかなかった。

「もー! 一体いつ終わるワケ!?」

 万理はついにキレた。

 そして、目の前に映ったのは、野球部御用達の洗い場であった──。


 うん。やっぱあの子にホースの事教えよう。あんなやり方じゃ、いつまで経っても終わんないし。

 ユニフォームに着替えると武下は決心した。

 冷たくされるのが嫌で知らんぷりとか、どう考えてもダサイもんな。

 あわよくばこれがキッカケで仲良くなれるかもなんて下心は断じてない、断じて。部室を出ると花壇の方へ足を運び──ちょうど洗い場でじょうろに水を汲んでいるところを発見して、驚愕した。

 そこ、野球部うちのテリトリーですやんっ!!

 何も縄張り意識で言っているわけではない。

 この洗い場の使用権限に関して、去年野球部と美化委員会は揉めに揉めたのだ。──この件について詳しく説明するには、北条の生徒会発足時に起きた内部紛争まで辿らなくてはいけなくなるのでザックリ言うが、部活動よりも委員会に重きが置かれる絶対的力関係に於いて、野球部所有となっていた洗い場の使用権限を、たかだか花壇の水撒きの利便性を計る為に美化委員会へ明け渡すよう去年通達があったのだ。これに不当な扱いを感じた野球部主将が生徒会を巻き込んでの権力争いのすえ見事勝ち取ったのだが、確執が拡がる決定打となった訳である。北条の闇は深い。(以上、武下談)

 そういう訳で、部としては美化委員会を快く思っておらず、洗い場を使おうものなら主将がバットを持って飛んでくる、らしい。

 まぁその前に、部外者が練習場に無断で立ち入る事自体、ヨシとされてないけど……。

 厳しいかもしれないが、情報を盗まれない為の対策でもある。

「キャプテンに見つかる前に、早いとこ教えないと……」

 しかし武下の目には、憤然としてバット片手に駆け付ける主将の姿があった……。


「なーんだ、コッチ使えば最短距離じゃない♪」

 私ってばアッタマいいー! と自画自賛し、ジャーっと水が溜まっていく様子を眺める。すると、

「そこの女子! オマエ、美化委員だな!?」

 突然の怒号に万理は驚きながらも振り返る。ユニフォームを着た風格バリバリな野球部員がこっちを睨んでいる。睨まれる覚えもなければ怒鳴られる覚えもない。

 万理は思いっ切り不機嫌そうに、

「そうですが、何か?」

「ここの洗い場は野球部専用だ、委員会から『使うな』と教えられなかったのか?」

 迫力が凄い上にバットを手にしているものだから、普通の生徒であれば退散して行っただろう。

 だがそこは小柳万理だった。じょうろに水が溜まりキュッと蛇口を閉めると、

「洗い場に名前でも書いてあるんですか? だいたい、学校の備品を一つの部が独占するなんておかしくありません?」

「本来それは学校の備品ではない。そもそもここは野球部の領域だ、とっとと出て行け」

 上から目線な物言いに、万理の眉がピクリと動いた。

「そんなに偉いんですか、野球部って。花の水やりをさせる心の余裕もないのに、よくそれで強豪なんて言えますね」

「なにぃ?」

 万理のこの発言はまずかった。本人にそのつもりがなくても、間違いなく地雷を踏んだ。

「貴様……クラスと名前を言え」

「はい? なんで先生でもない人に、個人情報教えなくちゃいけないの」

 それともナンパ? と嘲笑すると、

「ナメた口聞きやがって、タダで済むと思うなよ」

 それじゃ極悪人である。こんな時に限って、調停人の副将エースは投球練習場に籠もり異変に気付かなかった。グラウンドからも、意識でもしない限り気付かない。

 極悪人はバットを持ち替えて万理に近付く。(持ち替えただけで攻撃の意図はない)

 何よ……で殴ろうっての? と勘違いしてしまった万理は、水が満タンに入ったじょうろを反射的に掴んだ。

「私はそういう──」

 両手で持ち、

「時代錯誤な考え方が大っ嫌いなのよ!!」

 勢いよく給水口を傾けた。

 ぶち撒けられた大量の水を一身に受けたのが、予想だにしない人物で、万理は目を見開いた。


「た、武下……大丈夫か?」

 止めに入ろうとして身代わりになってくれた後輩を、気遣った様子で大貫は言った。

「ハハッ、平気っす」

 とは言えすっかりビショ濡れだ。本当は早く着替えてしまいたいところだが、

「あの、この子の事なんですけど、すみません。ここを使って良いと、自分が許可しました」

 この嘘に万理は目を瞬かせる。

「どういう事だ?」

「水撒き用のホースがなくて困ってたようなんで、校庭裏の水場までは遠いですし、この子も早く帰る予定があるらしく洗い場を使うように言いました」

 自分でも、よくこんなにスラスラと嘘の説明ができるなと感心した。

「それならそうと何故言わなかった」

 と、万理に目を向ける大貫に、

「それはたぶん、自分を庇って言わなかったんだと思います」

 武下が先回りしてアシストする。

 そうなのか? と念押ししてくるので、万理はよく分からないが従った方が良い気がして、黙って頷いた。

「勝手な真似して、すみませんでした」と、頭を下げる武下を見て、万理は只々圧倒される。

「……もういい、俺も度が過ぎた。オマエの誠意に免じて、今回は不問にしといてやる」

 早く着替えろ、と言うと大貫は踵を返した。武下がホッとしたのも束の間、「あの!」と呼び止める万理に、何を言い出すつもりかとギョッとする。

「水を掛けようとして、ごめんなさい」

 大貫はまじまじと万理の顔を見た。

 ……詫びるのは主張の方ではなくなのか。

 笑いが漏れそうになってグッと堪えると、

「謝罪は、そこでビショ濡れになってる奴に言え」

 それからさっさと水を撒いてここから立ち去れ、と言い残しその場を後にした。

「……私を脅した事に対して何の謝罪もないなんて、やっぱり体育会系って怖いわね」

 ゴクリと万理は息を呑む。

「怖いのは、キミの向こう見ずな性格の方だよ」

 武下が苦笑いして言うと、「あっ」と万理は罰が悪そうに、

「その、ごめん。まさかアナタに掛かるとは思ってなくて……」

「いやぁ俺で良かった。あの人に水掛けてたら今頃キミ、生き地獄だよ?」

 と、想像しただけでも震える。

「さっきも、よく分からないけど、あれって助けてくれたんでしょ?」

「ああ言わないと後々面倒だから。少し特殊なんだよ、ウチ。ビックリさせちゃったね」

「……どうもありがと」

 ポソッと呟く万理を見つめて、「どういたしまして」と微笑む。

 うーん、近くで見ると益々可愛い……などとデレているわけでは決してない、決して。

 しばし沈黙が続き、

「あっ、じゃあそろそろ練習が──」

 と言うのを遮って、

「あの時は、悪かったわね」

「え?」

「前に、『アナタには微塵も興味がない』なんて言った事……」

「あぁ……」

 軽くトラウマになっているので笑みが引き攣ってしまう。

「アナタがどういう人なのかも知らずに、失礼な事を言って、ごめんなさい」

 武下はポカンとすると、

「良かった、生理的にムリとかじゃなくて」

 心の底からホッと胸を撫で下ろす。

「野球には興味ないけど、アナタには……興味なくもないかも」

 と、万理がソッポを向きながらも耳を色付かせた。

 え……何この可愛い生き物?? 武下は完全に訳が分からない。予測外の言動すぎて思考がフリーズしてしまっている。こういう時、いつもであれば調子の良い反応ができるのに、それが何故だかできなかった。

 でも、そっか……別に冷たい子ってわけじゃないんだ。むしろ──。

「名前」

 と、武下が徐に口を開く。

「えっ?」

「俺の名前、武下陸って言うんだ。キミは?」

 そういえばまだちゃんと聞いてなかった、と思い至ったのだ。

 すると万理はニコッと口角を上げて、

「マリ……小柳万理!」

 花が綻ぶ様子とはこの事だろうか。

 あぁ、この子にピッタリだ……そう思うと武下は、笑顔を返した。

 ──小さく可憐でいて凛々しい、きっとそういう子なんじゃないかなって気がするんだ。それはあの花壇に咲いた、マリーゴールドのように。


「オマエ、なんでちょっと濡れてんだ?」

 練習時間ギリギリにやって来た武下を、翔斗は訝し気に見た。

 結局着替える時間がなくなり、暑さですぐ乾くだろうとそのままだ。

「フッ、水も滴る良い男ってやつ?」

 ドヤ顔で格好つけてくるので、翔斗は殴ってやりたくなった。

「あれ? なんだベッキー? そのオデコの冷却シート」

 武下がそれに気付いて尋ねると、

「うるっせーよ! 何でもねーし!」

 長谷部がプリプリと怒りながら行ってしまう。

「なんだあいつ?」

「クラスの女子にやられてタンコブできたんだとよ」

 代わりに翔斗が教えると、

「っへー、そんな凶暴な子もいるんだな!」

 どんな子だろ? と興味津々に、武下は言うのだった。

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