第70話『私の夢だから』
公立校より少し長めの夏休みも終わり、白付はこの日始業式を迎えていた。
「なぁ葵、頼むって……!」
珍しく千宏が腰を低くして拝むと、
「ダメったらダメ! あの数学、物凄く難しかったんだから。それに宿題やってないなんて、自業自得でしょ?」
澄ました顔で三葉は学校の廊下を進む。
「忘れてたんだよー。いいじゃねぇか写させてくれるぐらい、ケチ」
ブツクサと文句を言う声が聞こえ、「絶対に見せてやるもんか」と般若の如き人相で固く誓う。すると、
「森ちゃん、私ので良ければ貸そうかー?」
三葉の横から、のほほんと救いの手を差し伸べるのは加菜だ。
「えっ、寺本オマエ、ちゃんと宿題やったの?」
意外そうな反応を見せる千宏に、
「失礼だなぁ、これでも七月中には全教科終わらせてたんだから」
「うそッ……」
あの量を? と思わず絶句している。
失礼極まりないが、加菜が勉強できるタイプだとは思ってもなかったのである。
「森ちゃんこないだの試合で大活躍だったし、これもマネージャーとしての務めですから」
「加菜、そういう務めなんてないから」
すかさず三葉がツッコむ。
「寺本……」
千宏はジーンと感動し、加菜に後光が差して見えてくる。
思えば初のメンバー入りを一緒に喜んでくれたり、この女俺に気があるのでは? なんて自意識過剰な考えが頭を過るなか、ふと気付く。
あれ? こいつ眼鏡取れば案外可愛くね? むしろタイプかも……。
そして例によって衝動のままハグしようとするところを、すかさず持っていたバッグで、三葉が容赦なく撃退した。「おー、ナイバッチ」と加菜が拍手を送る。……どこをバッチしたのかは想像に任せたい。
「変態も大概にしないと、キャプテンにチクるわよ?」
美しい睨みとはこの事だろうか。尚、現主将は加菜の兄である為、チクられると非常に良くない事が起こる。「ぐぐっ……」と痛み苦しむ千宏に、「大丈夫?」と加菜が一応声を掛けた。
「なんの、これしき……。へへっ。寺本、あとで、宿題取りに、行くから、よろしく……」
と言うなり、ヨタヨタとその場を離れて行った。
「うんうん、大分ツライようだねぇ」
眼鏡をクイッと上げ、冷静に実況する。
「まったく、油断も隙もない」
ふぅっと息を吐く三葉を、加菜はチラリと見上げて、
「葵ちゃんって……キレイな顔して結構大胆な事するんだね」
「えっ」
まさかの発言に衝撃が走る。しばし何も返せず呆然となるが、
「野郎達にまみれて生きてきたのが原因かしら……?」
と、思い当たる。
「そういえば葵ちゃん、中学も野球部のマネージャーしてたんだっけ」
「まぁ、そうだけど」
「よっぽど好きなんだ、野球が♡」
何気ない加菜の一言に三葉はクスッと笑うと、
「私が好きなのは、野球だけじゃないけどね」
「おやー? 意味深ですな?」
と、興味津々にニンマリと尋ねる。三葉は、目に止まった青空を窓から眺めて、言った。
「甲子園が……私の夢だから」
美人の微笑みってどうしてこうも破壊力抜群なのだろうか。そんな事を考えながら加菜は見惚れる。
「──って、どこかのアイドルのような返し方されてもッ」
「別に好感度狙ったわけでも、はぐらかしたわけでもないわよ」
眉を寄せて三葉は言い返した。
「ウソだろ……」
つい先日受けた実力テストの解答用紙が戻ってきて、翔斗は狼狽した。これで全教科が揃ったわけだが、全てに於いて期末テストよりも点数が
マズイ、親父との約束が……退部させられるッ。いやでも、実力テストだし成績には入んないからギリセーフ?
希望的観測を抱きつつ、相手の出方が予測できず冷や汗をダラダラと流す。すると斜め後ろの席に座る桜が、(二学期に入り席替えしたのだ)
「わっ、翔斗くん凄いね! よく数学でそれだけ点数取れたねぇ」
と、声を掛けてきた。翔斗は半目で振り返り、
「覗くなよ」
「あ、ゴメン! 見えちゃって……」
じゃあお詫びに私のも見せたげる、と言って向けられた点数は、翔斗のものより十点以上の差で低かった。
「てか、そんなん見せられても」
「ふふっ、私ので元気出た?」
ニッコニコの桜にドキリとしてしまう。
「……人の点数見て喜ぶ趣味はねぇ」
照れ隠しのように、ぶっきらぼうに答えると、
「なぁ佐久間、ここと席替わろうか?」
翔斗の真後ろ、つまりは桜の隣の席のクラスメイトが真顔で聞いてきた。
「なんでだよ、替わんなくて良いし」
「いや、その方がラブコメしやすいかと思って」
「するわけねーだろ!」
と、内心焦りながら食い気味に返す。
分かってはいるけど……ハッキリ言われるのもツライ、と桜が涙をそっと飲んだ事を、翔斗は知らない。
「よーし、解答用紙全員に行き渡ったなー。静かにしろー、答え合わせしていくぞー」
妙に間延びした口調が特徴的な数学教師(実は野球部の顧問だったりする)の一声で、私語に包まれていた教室は静けさを取り戻した。
「あーその前に、このクラスの点数は、まー至って平均的だったかなー。うん、本当普通、良かったなー。えー、ちなみに学年最高点は隣のクラスの武下だー」
野球部なのに凄いなー、と少し態とらしく、得意気に言った。
何度も言うが実力テストだ。一学期に学んだ事の総ざらいだ。勘の鋭さだけでは最高点は叩き出せない。
あいつ、地頭が良いのは知ってたけど、本物のバケモンだった……。
翔斗は再び狼狽した。
──そして、学年総合ワースト一位に輝いたのが小柳万理であった事と、「人の価値は成績や頭の良さでは決まらないから私、気にしてません」と本人に豪語され、「あいつをどうにかしてくれ、仲良いんだろ」と武下に縋り付く教師陣の姿があった事は、ここだけの話にしておこう……。
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