番外編『父と息子』

 これはまだ、翔斗が早乙女家にやってくる三ヶ月前の話──。


「だから! 駅までは歩いてでも行けるし、電車乗れば北条なんて一本なんだから充分通学できるだろ!」

 いつもの落ち着いた雰囲気からは想像もつかない様子で声を荒げるのは、中学三年生(絶賛反抗期)の佐久間翔斗だ。目の前の人物は「ハッ」と鼻で笑い、

「駅まで歩くだと? 毎朝毎晩、何時間かけて山道を通学するつもりだ。電車も頻繁に通るわけじゃあるまいし。そんな学校へ行くのはやめて地元の高校にしろ」

 ネクタイを緩めながら威厳たっぷりに話すこの人物こそ、翔斗の父・佐久間 将俊まさとしである。家に帰ってくるなり、地元高校のパンフレットを寄越してきたのがこの日の発端だった。翔斗はグッと唇を噛み締める。

「まったく、勝手に野球推薦の話を受けるとは……。北条に行ったところでどうなるか目に見えている」

 今度は翔斗が「ハッ」と鼻で笑い、

「いいのかよ? 北条の方が、アンタの拘る偏差値が高いんだぜ? 学校に行ってる息子なんて、世間的にも鼻が高いだろ?」

 将俊は、ふんっと嘲笑すると翔斗の頭を鷲掴み、

「二度とナメた口を聞くな。いいな」

 後に出会う、某野球部監督並みの凄みを見せる。二人の睨み合いはしばし続くが、やがて将俊はパッと手を離し、

「おい! 晩飯はまだなのか!」

 と、居間から出て行った。

「あんの、クソ親父……」

 ボソッと呟く声は誰の耳にも届く事はなかった。


「えぇ? またおじさんと揉めたの?」

 自転車を押しながら目を瞬かせるのは三葉。通学路でちょうど出くわし、昨晩の事を話したのだ。

「別に揉めたくて揉めたわけじゃねーよ」

 翔斗は顔を顰める。

「だって、こないだだって『北条に行くなら自分一人で通学しろ。俺は一切手助けしないし母さんにも頼るな』なんて言われたんでしょ?」

「元からそのつもりなのによ。そしたら今度は、北条は遠いから近くの高校へ行けって……マジ意味分かんね。そんなに俺から野球遠ざけたいのか?」

 その高校には野球部がないのだ。

「おじさん、昔から翔斗が野球やってるの快く思ってなかったものね……」

「ほんと偏屈だよ。学生の本業は勉強ってもう耳ダコ」

「良かったじゃない。おかけで野球部の中では常に成績トップ!」

「オマエには負けるけどな。……いや、そんな事はどうだって良いし」

「それにしても困ったわよね。このままだと本当に北条諦めなきゃいけなくなるんじゃ……」

 三葉の言葉に翔斗は足を止めた。

「諦めねぇよ。北条も、甲子園も」


 数日経ったある日、翔斗は野球部の顧問に呼ばれ職員室に入った。

「失礼しゃす」

「おぅ、来たか翔斗」

 小野寺──若鷹中学の教師の中では一番若いが、翔斗が一年生の時から野球部を見てくれている──は、キャスター付きのイスごと振り返った。

「小野ティー、何? 話って」

「オマエな、春から高校生になるんだから目上に対してもっと言葉遣いちゃんとしろ」

 小野寺は軽く溜息を吐くと、

「まぁ良い。実はな、昨日北条高校の監督さんから連絡があったんだが……」

 やけに間を開けた後、潑剌と言った。

「翔斗、監督さん家で世話にならないか?」

「……へ?」

 また何を言い出すのかと、翔斗はつい素っ頓狂な声を上げた。


 自分でもよく分からないけれど全力疾走がしたくなった。鞄を背負い、制服を着たままで山道を駆け上がるのはなかなかハードだが、走り出すと止まらない。

 ──いや、オマエが通学に不便する事をあちらの監督さんも懸念しててな。そしたら学校に近い家だからどうか? って。あちらのご家族も歓迎してるそうだ。

 小野寺の言葉を思い出し、頬を緩める。

 ──そっちの方が野球に専念できるんじゃないか? とにかく親御さんともよく話し合って、また報告に来い。いやー、鬼監督って噂高いけど意外と親切な人だな!

「よしっ……!」

 願ってもないお誂え向きな話だった。これできっと、あの父親も首を縦に振るしかないだろう。

「よしっ! よしっ!」

 知り合いに見られたら、アイツついに野球のし過ぎで頭おかしくなったと思われるぐらいに、翔斗ははしゃいだ。


「ダメだ」

 将俊の一言で翔斗は天国から地獄へと突き落とされた。

「な……んでだよ。おふくろは賛成してくれたぜ?」

「母さんがどう言おうとダメなものはダメだ」

 ピシャリと言い放たれて、翔斗はキッと睨み付けた。

「ふざけんなよ……。なんで、親父はいつもそうなんだ! 俺のやる事なす事にケチつけて! そんなに自分の思い通りにしたいか?! そんなんだから疎まれんだよ!」

 次の瞬間、翔斗は後ろに吹っ飛んだ。将俊が手加減なく殴り付けたのだ。

「オマエは誰に向かって物を言ってるんだ? 半人前のガキが一丁前な事抜かしやがって」

 冷徹な目で息子を見下ろす。

「いいか、野球は道楽だ。道楽にかまけて学業を疎かにするつもりの奴に、北条は行かせられん」

 相変わらず睨み合ったまま異様な空気が流れる。翔斗は口端に滲んでいる血をグイッと手の甲で拭うと、「道楽じゃねぇ……」とポツリ溢す。

「俺は、本気だぁー!!」

 父親目掛けて猛突進し、摑み掛かった。


 次の日、小野寺の元へ向かうと顔を見るなり、

「翔斗、どうしたんだその口の傷? まさか、ケンカか……?」

 唖然とした様子で言われた。──あの後、あやうく合格内定取消になる暴力沙汰へ発展するところだったが、合気道有段者である将俊から返り討ちにされ、事無き(?)を得たのだった。

 翔斗は一連のあらましを小野寺に説明した。

「そうか……。お父さんから反対されてるのか」

 小野寺は深刻そうな表情をする。

「でも俺は北条に行くって決めてるし、今更何と言われようと変わんないよ。親父も、ずっと俺ばっかりに構ってらんないからそのうち諦めるっしょ」

「翔斗のお父さん、立場のある人だからな。だがな、それで良いのか?」

「え?」

「今話を聞いてたら、オマエはお父さんの真意すら見えてないように感じる」

「真意?」

 キョトンとする翔斗に優しく笑いかけ、

「さっき説明してくれたなかで、自分でも言ってたじゃないか」

 少し考えてみるが、一向に答えに辿りつかない。見兼ねた小野寺はヒント、というよりほぼ答えを与える。

「お父さんは『学業を疎かにするつもりの奴に、北条は行かせられん』て言ったんだろ?」

「……あ!」


 将俊は帰宅すると、玄関に正座で待ち構えている息子を見て眉根を寄せた。

「一体何の真似だ?」

「親父、いや父さん。自分を、北条に行かせてください!」

 と言いながら、床に擦り付ける勢いで首を垂れる。

「フンッ、子供の浅知恵か。そんな事をしても──」

 無意味だ、と言い終わらないうちに翔斗が言葉を被せる。

「勉強は、ちゃんとする!」

 顔を上げて、父親の目を真っ直ぐ見据え、続ける。

「監督さんの家が学校から近い分、ここに帰ってくるより勉強する時間が多く取れる。学業に手を抜くつもりはない」

 だから……と繋げようとするとそれを遮り、

「一回でも成績を落としたら、許さん」

 低い声で一度だけ言うと、漸く靴を脱いで家に上がる。翔斗は驚きのあまりすぐに反応できなかったが、言葉の意味を確認する為に振り返る。

「それって、北条に行っても良いって事かよ?」

「……好きにしろ」

 将俊は振り返らずにそのまま廊下を歩き進んで行く。

 一人取り残された翔斗は、喜びを噛み締めるように強く強く拳を握った。


*****


 季節が移ろい、桜の木が満開に花を咲かせる。

「翔ちゃん、本当に歩いて駅まで行くの? やっぱりタクシー呼ぼうか?」

 玄関先で、母・雪乃が過保護そうに声を掛けた。

「大丈夫だよ。俺の足だったら一時間もありゃ着くだろ」

 ボストンバッグを持ち上げて、軽快に笑う。

「お父さんも、仕事で車乗って行くんだから送ってくれても良かったのにねぇ」

 と、頬に手を当て苦笑いを浮かべる。

「……自分の足で行きたかったから、どっちにしても良いよ。気まずいだけだし」

 あれから、父親とまともに話をしていない。やっぱりまだ快く思ってはいないんだろうな、と随所に感じる。(それでも、早乙女監督から挨拶の電話が来た時にはそれなりの対応はしてくれた。その時に『成績下がったら即退部にしてくれ』と言っていたのは余計だったが──)

 雪乃は少し困った顔をすると、

「あのね翔ちゃん、お父さん別に本気で野球やめさせたいわけじゃないのよ」

「……どういう事?」

「合気道みたいな武道と違って、野球は勝ち負けが全ての世界……結果が出せなかったら、表面的には何も残らないでしょ?」

 翔斗は黙って雪乃の話に耳を傾ける。

「それを心配して、ついあんな言い方しちゃうの。まぁ度が過ぎてる時もあるけど。本当に反対してたら、とっくの昔に野球道具を取り上げてるわ」

 ニッコリ微笑む母親に何も言葉が出ない。

「胸を張りなさい翔斗。堂々と、野球に励みなさい」

 普段から和服を着ているからだろうか、その姿は凛として綺麗だった。翔斗は笑みを浮かべ、

「いってきます」

 と、十五年間生まれ育った家を後にした。


 同級生が見送ると言ってくれたが、それは断った。湿っぽくなるのはどうも苦手だ。それぞれの場所でそれぞれの事を頑張って、たまに集まるのが丁度良い。仲間達もそれを理解し、尊重してくれた。

 だから翔斗は淡々と山道を進む。

 ふと後ろから、車が近付く音が聞こえた。車一台通るのがやっとの細道なので、翔斗は横に避けた。すると車が真横で停まる。翔斗はどこかで見た事があるその車に、内心ギョッとした。運転手側のウィンドウが下がり、「乗れ」と促したのは将俊だった。


 車はもうすぐ駅に着こうとしている。──言う通りに乗るのもなんだか釈だったのでそのまま素通りしようとしたら、後方から別の車がやってきて停車している父親の車にクラクションを鳴らすものだから、翔斗は乗車するハメになってしまった。

 送ってくれるのは正直嬉しいが、先程の雪乃の話も相まって、素直に「ありがとう」と言うのが気恥ずかしいしむず痒い。そんな心情を知ってか知らずか、二人は終始無言のままだ。

 だが、物事には必ず着地点がある。車は駅前に辿り着くと、そこで停車した。翔斗は手早くシートベルトを外し、父親の横顔を一瞥して「どうも」とだけ口早に伝えて、車から降りた。

 やっぱもう少しちゃんとお礼を言うべきだったか? とモヤモヤしながら駅の改札口へ歩いていくと、

「翔斗」

 後ろから名前を呼ばれた。

 将俊がウィンドウを下げ、顔を正面に向けている。その難しそうな表情から、成績落としたら分かってるだろうな、とかどうせまた念押しされるんだろうと思い、

「なんだよ?」

 と些か無愛想な声を出す。

 将俊は視線を真っ直ぐにしたまま、たった一言。

「ケガには気を付けろ」

 言うや否や車を発進させ、あっという間に走り去ってしまった。

 え……何なんだ?

 翔斗は呆気に取られ、ポカンとする。

 そんな事わざわざ言うために職場を抜け出して送りに来たのか……?

 そう思うと擽ったくて、自然と笑いが溢れてくる。

 なんだよ、クソ親父……。

 ──オマエな、春から高校生になるんだから目上に対してもっと言葉遣いちゃんとしろ。

 頭のどこかで小野寺の言葉が響く。翔斗は姿勢を正して、車が去った方向に頭を下げた。

 親父、ありがとう……いってくる。

 ボストンバッグを持ち直し、踵を返す。丁度タイミング良くホームに電車が入ってきた。それに乗り込むと座席に座り、一息つく。

 今度、ここに帰ってくる時は、自分は成長できているだろうか。父親に、もっと認めてもらえているだろうか。

 正直、先の事は考えつかない。けれども今この瞬間、楽しみで仕方ない気持ちは確かだ。それだけ持っていれば、きっと大丈夫な気がする。

「待ってろよ、甲子園……」

 通り過ぎ行く故郷を眺め、翔斗は静かに瞼を閉じた。

 どこでくっ付いてきたのか、桜の花びらがはらりと舞い、手の中に落ちた。

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