第67話『ショートストップ』

 甲子園球場での選手権大会が始まった頃、とある小さな問題が北条の野球部グラウンドでは発生していた。

「変だよな、やっぱ」

「うん、変だな」

 武下と長谷部が口を揃えて言った。

 二人の視線の先には、内野ノックを受ける翔斗の姿があった。

「いつも通りっちゃいつも通りなんだけど、たまーに動きが硬くなるっていうか」

 と、武下はバットを振る手を止める。

「あいつ、まだ引きずってんのかな?」

 そろそろ立ち直ってくれよ、と長谷部も素振りを中断させる。

「それか、もしかしたら……」

 その後の言葉を続けずに、一人思案する武下に、長谷部は首を傾げた。

 佐久間の奴、桜ちゃんが視界に映った時だけ、何かブレーキが掛かってる感じがする……。

 相変わらず勘の鋭い男である。

「あ、そういえば」

 と、長谷部がふと思い出し、

「全然話変わるけど、オマエ今朝、駅前で小柳と会ってなかった?」

「……えっ?」

「小柳がなんかオマエに渡してるの見たんだけど。あの女、低血圧なクセに朝早くに出歩くの珍しいなと思って」

 何故低血圧だというマニアックな情報を知っているのか。それは万理と同じクラスの長谷部が、恐らく低血圧による何らかの被害を何度か被った事があるのだろう……。

 武下はしばらく目線を斜め上へ向けると、

「ベッキーそれ……他の奴らには絶対言うなよ?」

 この返答に長谷部は思いっ切り眉を寄せた。


 桜は、もちろんそんな事は分かっていた。自分がいる方向に、投げられないのだと──。しかしそれでは試合にならない。記録員としてベンチ入りしているのは桜だ。翔斗から見えないように工夫するなんて話がまかり通るわけもない。そもそも、もっと根本的な解決が必要なのだ。

 この時すでに、桜は決心していた。


「翔斗くん」

 後ろから呼び掛けられて、翔斗は振り返る。この日の練習が終わり、帰宅する者やまだ残って自主練習する者もいる。ほとんどは後者の方だ。もちろん、翔斗も。

「これから自主練でしょ? ねぇ、ちょっとだけ付き合ってもらっても、良いかな?」

 桜が、グローブとボールを持って、ニコッと笑った。翔斗は嫌な予感がした。


「なー。なんであの二人、キャッチボールしてんだ?」

「さぁ? しかも佐久間ずっとワンバンだし」

「早乙女が捕りやすいように、わざとかな?」

 ケッ! イチャついてんじゃねーよ! と嫉妬を渦巻かせる部員を他所に、翔斗は複雑な心情だった。

 こいつ、どういうつもりなんだ……?

 思った通り、桜へ向けてボールを投げる事に体が強張る感覚がする。正直なところ、なかなか本来の調子が戻らない自分に焦りがある。こんな事ならキャッチボールを断れば良かった、とも思うが、もうすでに遅い。

 ワンバウンドのボールを捕ると桜は十歩程近寄り、

「良かった。もっと荒れるかなと思ってたけど、この分なら大丈夫そう」

 ホッとした様子で掛けられた言葉に、翔斗は面食らう。

「どこがだよ。全然ダメだろ」

「……私をファーストだと思って、投げて欲しいの」

「はい?」

 突拍子もない事を言われ、顔を顰める。桜は翔斗へボールを投げ渡すとグローブをぐっと前に突き出した。

 マジかよ……。

 桜の目付きで本気だと悟る。翔斗は尻込みしそうになるが、ここで逃げるわけにもいかない。

「せめて……防具付けてくれ」

「翔斗くん」と諭すように、

「野手がプレー中に、防具なんか付けないでしょう?」

 それは御尤もなのだが、どうにも気が引ける。すると痺れを切らした桜は、声を張った。

「さぁ、来い!! 北条のショートストップ!!」

 翔斗は目を見張った。

 桜……。

 真剣な表情に相反して、桜の膝がわずかに震えている事に気付く。

 なんでそこまで……本当はビビってんじゃねぇか。

 それでも一歩も引こうとしない姿に、翔斗は目を逸らす事もできない。

 何なんだよ、人の気も知らないで。荒療治が過ぎるだろ……。

 心が、決まった。

 翔斗はゆっくりと息を吐くと、送球よろしくステップを踏んで、桜のグローブにジャストで収まるように腕を振る。

 頼む……もうこれ以上、弱い自分になりたくないんだ!

 勢いを付けたボールは、あの日を取り戻したかのように、一切の迷いもなく、桜の元へ届く。

 それをキッチリ掴むと、桜は嬉しそうにえくぼを覗かせた。

「ナイス送球!」

 満面な笑みを向けられ、翔斗ははにかみながらも、笑顔を溢す。

「本当……むちゃくちゃだよ。てか、当たったらマジに危ないんだからなッ」

 一応、抗議をしてみせるが、桜は「ううん」と首を横に振って、

「翔斗くんは私を傷付けたりしないって、信じてるから。だから、怖くないよ」

 こいつはまたそういう事を言う……。

 穴があったら入りたい気分だ。

「そのわりには、膝震えてたけど?」

 だから少しの意地悪は大目に見て欲しい。

「こ……これは、武者震いだもん!」

「へぇ、ソウナンダ」

「もう、またそうやって揶揄って! 罰としてあと十球追加!」

「どういう罰だよ」

「私、これからはビシバシ系でいくの! 三葉ちゃんみたいな恐れられるマネージャーになるんだから! 決めた!」

「……ある意味、もうなってると思うけど」

 え! ホントに?! と無邪気に喜んでいるのが正直とても可愛い。

 翔斗は表情を引き締めると、素直な気持ちを伝えた。

「桜、ありがとう」

 キョトンとしながらも意図が伝わり、

「どういたしまして」

 と、照れたように桜は綻んだ。

 それを見るなり翔斗もまた、相好を崩すのだった。

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