第64話『弱さ』

 あの時、あんな無茶な体勢で送球しなければ。

 あの時、ボールが逸れていなかったら。

 あの時、逸れた先がベンチじゃなければ。

 あの時、誰かに当たりそうにならなかったら──。


 過去の出来事をなかった事にしてやり直せるなら、きっと誰も苦労や無駄な努力などしないで悠々自適に生きられるのだろう。けれども、過去から未来という時間の流れでしか生きられない人間にとって、どう足掻いても後悔は付き物だ。ましてや、勝負の世界に「タラレバ」は存在しない。そんな事は翔斗だって百も承知だ。

 それでも、自分を責めずにはいられなかった。試合終了後、どんな面持ちで、どう整列したのかさえ覚えていない。ただ、三年生達が号泣している姿を見て、自分に泣く資格はないと、翔斗はひたすらに涙を堪えた。

 その様子に気付いていた桜は、心配そうな表情で、只々見守る事しかできなかった。


 最終回の守備の時だ。

 あと二つのアウトで北条の勝利が決まる場面に、ツーベースで同点のランナーが出る。よりにもよって一番出塁させたくなかった俊足の持ち主である。野手陣に緊張が走るなか、打者のバットが投球をショート前に運んだ。ボテボテのゴロに翔斗は俊敏に対応し、前進して打球を捕ると、二塁走者はすでに三塁目掛けて好走していた。

 通常であれば一塁へ送球するのがセオリーだが、翔斗はほんの一瞬だけ迷い、三塁へ送る。しかし想定より走者の足が早く送球は間に合わない。その間、打者走者は一塁ベースを踏む。

 一見すると俊足走者の進塁を阻止する為に、一塁への送球を捨てたかのように思えなくもないが、この時桜は確信した。

 翔斗くんのウソつき……一塁に投げられないんじゃない。

 やっぱり、と嫌な予感が的中して悲痛な表情になる。きっかけは暴投した事ではないのだろう。それぐらいで動じる性格でない事は、桜だって分かっている。

 ……たぶん私に、人に当たりそうになったのが原因トラウマなのかも。

 そう気付くと、桜は叫び出したくなる衝動に駆られ、だがぐっと堪える。今何か声を掛けたら、相手チームにも弱味それがバレてしまう気がした。信じるしかない、と表情を引き締め、祈るようにグラウンドを見つめた。

 そして結局、この一塁走者が勝ち越しのランナーとなり試合は逆転。裏の攻撃が終了した瞬間、翔斗はその場で膝から崩れ落ち、桜もまた顔を伏せて肩を震わせた。


「ご声援、ありがとうございました!」

 大貫が涙ながらにスタンドへ挨拶し、メンバーも続いて「ありがとうございました!」と礼をすると、惜しみない拍手と「よく頑張った!」という掛け声が一塁側を包む。外野の方からも労いが鳴り響き、メンバーはしばらくその場から動けず、涙を流し続けた。

 スタンドでも尚、周りの上級生達が啜り泣く声が聞こえ、武下は顔を濡らしながら席を立つ。

 クソッ、なんで俺はこっちにいるんだ……。

 悔しさやら哀しさやら腹立たしさやら、様々な感情が行き通い、まともに歩けているのかもはや分からない。すると、

「壁にぶつかるよ」

 と、腕を引かれた。目線を向けると自分の肩の高さ辺りしかない小柄な女子が、眉を下げて見上げていた。

「万理ちゃん……」

 武下は急いで涙を拭い、

「ハハッ。せっかく応援しに来てくれたのに、負けちゃって悪かったね」

「……無理しなくて良いよ」

「え?」

「泣きたい時は、泣けば良いのよ」

 穏やかに掛けられた言葉に、武下は背中を向ける。

「そんなの、女の子の前でカッコ悪いじゃん」

 万理は柔らかく微笑んで、

「バカだな。そういうのは、カッコ悪いって言わないんだから」

 やがて小刻みに引き攣きはじめる武下の背中を、万理は何も言わずに摩った。


「ダメね、人が多すぎて見つけられなかったわ。ベンチにも関係者スタンドにも、姿を現さなかった」

 球場内の通用口で、パンツスーツの美女が携帯電話片手に通話している。

「ようやく対象を捕まえられると思ってたけど、今日はもうタイムアウト。明日に持ち越しね」

 と、肩を竦めると、「情報提供、感謝するわ」と言い残して通話を切った。フウッと一息吐き、歩き出したところで、曲がり角をパタパタと駆けてきた女子生徒とぶつかる。

「キャッ」と尻餅をつこうとした女子生徒の腕を咄嗟に掴んで、「大丈夫?」と立たせてあげると、

「ご、ごめんなさい。慌てていて周りをよく見ていませんでした……」

 申し訳なさそうに頭を下げられた。

「気を付けてね」

 とだけ言い、颯爽とその場を後にする。

 今の子……北条の制服に野球帽被ってたって事は、マネージャーかしら。

 美女はひっそりと思った。

 なんて可愛い子なの! あんな天使が強豪校のマネージャーだなんて……時代も変わったものね。


 今の女の人、美人で格好良かったな……。

 立ち去ったパンツスーツの後ろ姿に、桜は見惚れる。

 って、こうしてる場合じゃなかった!

 再びパタパタと駆け出す。翔斗がいつのまにか姿を消してしまい、心配になった桜は球場内を探し回っていたのだ。

 翔斗くん、相当思い詰めてたよね……。

 今、どんな気持ちでいるのか考えると胸が引き裂かれる想いだ。

 ちょうど階段を降りようとして、階下に座り込んでいる背番号「6」を見かけた。顔を見なくても誰なのかすぐに分かる。安堵しながら桜は呼吸を整えると、トントントンと降りていき、

「翔斗くん」

 と、呼び掛ける。

 翔斗は一瞥するが何も返さない。

「……戻ろ? そろそろ出発の時間だよ」

 もっと気の利いた言葉の一つ、言えれば良かったのかもしれない。けれどもそれを望んでいないように思えた。

「皆に会わせる顔が、ない」

 と、首を垂れたまま、ようやく翔斗は声を発する。桜はゆっくりと屈んで、

「惣丞先輩も、他の先輩達だって『オマエはよくやった』って言ってたじゃない」

「それでも、自分で自分が許せないんだ……」

 ポツリと力なく呟かれた声に、自己嫌悪と罪悪感を感じ取る。

「翔斗くん……」

 普段あれほど自信満々なのに、ここまで弱っている姿は初めて見た。自分でも無意識に、桜はそっと腕を伸ばすと、翔斗の頭を胸元に押し当てるように抱き寄せた。ピクッと翔斗の肩が微かに反応する。

「ごめんね。翔斗くんが追い込まれてる事、もっと早くに気付けなくて」

「……別に桜が、責任感じる必要ないだろ」

「あるよ。だって、一塁に送球できなかった事で自分を責めてるなら、その原因を作った私も責められるべきだもん」

「むちゃくちゃだ、そんな理屈……」

「一人で抱え込まないで、って言ってるの」

 切実な口調に、翔斗はハッとする。

「こんな時ぐらい、強がらなくたって良いじゃない。怒りも苦しみも、私ちゃんと受け止めるから」

 桜の抱き締める力が、一層強くなる。

 あぁ、こいつは……。

 翔斗は観念した。

 本当に困る。こうやっていつも、心の中に踏み込んで、俺を甘やかしてくるんだ。

 気が付けば、桜の背中に腕を回し咽び泣いていた。気持ちがグシャグシャで、何も言葉が出て来ない。しかし、自分より一回り以上も小さな体で感情を必死に受け止めようとする桜に、翔斗は救われた。

 なんで、あの時送球が当たりそうになった場所にいたのが、こいつなんだろう……。

 きっと他の誰かではあそこまで戸惑う事はない。一塁への送球を怖がる、なんて事態にもならなかった。

 そうか……。

 その時、翔斗は、存在の大きさに気付かされてしまった。

 気付きたくなかった。でないと、強く在れない気がするから。

 俺は……チームの為にも、自分自身の為にも、そして桜の為にも、もっと強くならないと、いけない。だから──。

「ごめん……桜」

 声を絞り出す翔斗に、桜は聖母のように、優しい手つきで頭を撫で続けた。


 ──だから、自分へのケジメとして、この気持ちがこれ以上膨らまないように、奥底に仕舞おうと思う。

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