第63話『甲子園への切符』

 それは、悪夢のようだった。

 これまで好投を見せていた岩鞍がついにつかまり一人が二塁にまで出塁すると、続く打者の、打ち取れた当たりを内野手のフィルダースチョイスで生かしてしまう。

 ワンナウト一三塁、ここでスクイズを仕掛けられる可能性は極めて高い。岩鞍は大貫のサインを確認すると、頷いて大きく息を吐いた。

 ──この状況でバトンタッチさせて、すみません。あとは……、お願いします。

 悔しそうに降板していった宮辺の言葉を、脳裏に浮かべる。

 いつも生意気な口ばっか利くクセに、あいつに『お願い』なんて言われるとはな……。

 今日を勝てば明日は決勝戦(実質この試合が決勝戦のようなものだと言われているが)、甲子園への切符はすぐ目の前まで来ている。それに何と言っても、三年生にとっては最後の夏。念願の栄光を掴む為の努力は誰よりもしてきたと、皆が自負している。

 だからこそ、絶対に追い付かれるわけにはいかない……!

 全員の想いをたった七センチメートル程の白球に込めて、岩鞍は力一杯真っ直ぐに投げた。

 その瞬間だった。バントの構えをしていた打者は、ヒッティングの動作に切り替える。

 再びのバスターに、大貫は舌打ちをした。警戒していなかったわけではない。だが、レフトの頭上を越える程の見事な打球は、予想していなかっただけだ。その間悠々と三塁走者は本塁へ帰還しこれで同点。打者走者は二塁で止まるが、レフトがボールを掴み中継プレーでショートへ返球すると、打者の前の走者は、三塁ベースを蹴っていた。

 間に合うか間に合わないかの瀬戸際に、誰もが熱狂した。

 翔斗は返ってきたボールを、瞬きもできないぐらいの勢いで本塁へ放つ。大貫がそれを捕り突っ込んで来た走者にタッチしたのと、走者がヘッドスライディングでホームベースにタッチしたのとでは、奇しくも後者の方がわずかに早かった。


「ひっえー、すげぇ攻防戦。手汗掻いちまった俺」

「箕曽園よく巻き返したなー。勝ち越された後、ゲッツーで凌いだ北条もさすがだけど」

「あぁ。抜けると思った当たりをまさか止めるとはな、あのショート。サードへの送球も素早かったし」

「さっきのバックホームも、惜しかったけど良いスローイングだったよ」

「まー、フィルダースチョイスでやらかした分、挽回できたんじゃねぇの?」

「ハハッ、確かにアレは謎だった」

「さぁて、最後の北条の攻撃はどうなる事やら」

「箕曽園のエースからまだ一つもヒット打ててないもんなぁ。箕曽園で決まるんじゃね?」

「サヨナラあるかもよ、サヨナラ。その展開観たいじゃん」

 サヨナラ、ねぇ……。

 後ろの観客の会話を盗み聞きするのは、どうやら輝人の趣味らしい。

 ……できるもんなら、してみなよ。


「ちょっと加菜! ここに置いたら日に当たってすぐ溶けちゃうから日陰に置いて、って言ったじゃない!」

 三葉はクーラーボックスを持ち上げながら、語気を強めて言った。

「そうだっけ? ごめんねぇ、葵ちゃん」

 私ったらいっけなーい、と頭をコツンと小突いて反省の色を示してみせる加菜に、「まったく……」と諦めて溜息を一つ吐く。すると、練習に励んでいたはずの部員達が、何やら騒ぎ出す様子が目に映る。

「皆どうしたのかしら?」

 と、足を運ぶ三葉の後ろを「なんだろねぇ」と加菜ものんびりついていく。騒いでいる一角に近付くと、興奮した口調で話す部員の言葉が耳に入ってきた。

「準決、さっき終わったってよ! 逆転勝ちらしいぜ! やっぱ強いな──」

 三葉は、一瞬目を見開き、ゆっくりと瞼を閉じた。


 九回裏の攻撃は、大貫からの打順だった。箕曽園に一点を勝ち越されたままで終わるつもりなど、毛頭ない。

 簡単にやられてたまるか! 絶対に繋いでやる、それが俺の役割だ……!

 攻略の糸口も見当たらない投球にしぶとく食らいつき、大貫が二遊間を抜くヒットで出塁すると、自陣のベンチとスタンドが大いに沸く。次打者が手堅く送りバントで進塁させ、さらに選球眼の良い打者がフォアボールを選ぶ。そしてここで打席に入った翔斗が、今日の数々のエラーを払拭するかの如く狙い球を躊躇なく思い切って振り、ギリギリのところでセーフとなった。

 ワンナウト満塁、このピッチャーから初めて掴んだ大きなチャンスである。恰好の状況も相まって、声援が、北条ナインを後押しする。

 しかし、仕掛けたセーフティスクイズが失敗に終わり走者は動けずツーアウト、どうにもチャンスを物にできない。そこへ打席に現れたのは岩鞍──この日最後となる打者だった。


 監督、意外だな。てっきり代打を置くかと思ってたのに、そのまま俺を起用するなんて……。

 岩鞍はその意味が分からないわけではない。初見で当てるには難しいピッチャーだ。大博打に出るのを嫌ったのだろう。

 バットを構えると、思わず笑みが漏れる。三塁で大貫が、今か今かと突進する準備をしている。

 そんな猛獣みたいな顔すんなよ、大貫。笑っちまっただろ。

 球場内は『岩鞍コール』が鳴り止まない。ベンチから自分を呼ぶ声も、鮮明に聞こえる。うん、と満足気な表情をして、マウンドからの投球をバットに当てた。岩鞍は駆け出した。

 抜けろ……あの切符を皆に掴ませるまで、俺は終われない!

 打球が転がった先に、セカンドが走り寄る。ボールを掴んでファーストに送る一連の流れが、スローモーションのように感じた。延長戦に突入する可能性なんて、もう頭にはなかった。岩鞍は地面を蹴り、一塁ベースに手を伸ばす。

 それでも、その手で甲子園への切符を掴む事は、できなかった──。

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