番外編『〝逃げ腰の恋に人は笑えど〟』

 夏休みに入る前のある日の事である。


 翔斗が自室でストレッチをしていると、部屋をノックする音が聞こえてきた。音楽を流していたイヤホンを耳から外し、「はい」と応答する。

「翔斗くん、私。今ちょっと良いかなぁ?」

 桜だ。時刻はあと二十分で二十二時になろうとしている。何用だろうか、と翔斗は部屋のドアを開ける。

「何?」

「あ、邪魔しちゃってごめんね。翔斗くん、数学の宿題もう終わった?」

「さっき終わらせたけど」

「あの、ちょっと分からない所があって、できたら教えて欲しいの……」

 お風呂を済ませてパジャマ姿の短パン生脚をモジッとさせながら、少し恥ずかしそうに言う。

「いいけど……」

 数学は得意なので教える分に何も問題はない。

「ありがとう! えっと、ここなんだけど──」

 と、おずおずとその場で問題集を広げる桜に、

「……てか、立ちっぱもなんだし、そこ座れば?」

 翔斗は自室の壁際にあるローテーブルを指し示す。ちなみにこの部屋には、学生がよく用いるような学習机と椅子は置いていない。ローテーブルの他に本棚とベッド、後は押入れがあるぐらいの、至ってミニマムな下宿ライフである。

「じ、じゃあお言葉に甘えて、失礼しまぁす」

 口調が妙なテンションになってしまった。

 うぅっ、なんか変に意識しちゃう。前まではあんなに頻繁に出入りしてたのに……あの頃の私が羨ましいよ。

 やはり「好き」と自覚してから、翔斗の部屋に入るのが気恥ずかしくなってしまったらしい。

 平常心、平常心、と自分に言い聞かせながらローテーブルの前に座る。

「で、どこ?」

 その隣に翔斗が腰を下ろす。テーブルの置き場所の都合上、そこに座るのは致し方ないのだが、桜は心臓が止まる勢いで驚いた。

 ちょっと待って、気持ちが追い付かない……大丈夫かな私。でも自分で言い出した事だし。ええい桜! 女は気合いと真心よっ!

 なんだかよく分からないスローガンを何度も心の中で唱え、

「ここ、ここの二次関数で……」

 と、ページをめくった。


「──で、この方程式を当て嵌めると解が出る」

 赤ペン先生よろしく、翔斗はシャープペンで書き込んでいく。

「そっか、ここはこの方程式を使えば良いんだね!」

 ふんふん、と桜は頷く。謎のスローガンが効いたのか、解説を聞く事に集中できているようだ。

「次の問題もこれを使えば解けるから、後は自分で──」

 と、翔斗は不自然に言葉を途切れさせる。

 何故なら二人の座っている配置が良くなかった。桜が左側、翔斗が右側、そして翔斗は基本的に左利きだ。その為、左手で書き込むと少し見えづらいらしく、桜は翔斗の方に体を寄せて、覗き込むような姿勢を取っていた。

 桜としては、教えて貰ってるんだから取りこぼしのないように聞かなきゃ、という一生懸命さからの行動だが、予想外な至近距離に翔斗は内心慌てる。

 ちっか……! こいつのパーソナルスペースどうなってんだ?!

 シャンプーだか分からないが、何か良い匂いまでしてくる。なんなら、左腕に柔らかい物が当たっている。泳がせた目線の先に、よりにもよって短パンから伸びた桜の白い太腿が映り、天を仰ぎたくなった。

 勘弁してくれ……。

 ついに詰んだ翔斗はシャープペンを置いた。

「……あのさ、どんだけ無防備なんだよ」

「ふえ?」

 桜が不思議がって顔を上げると、目の前に、少し赤らんだ翔斗の真剣な顔があった……──。

「桜ー! 『逃げ恋』始まるわよー!」

 突然、廊下から茜の呼び声が聞こえる。その言葉に桜はハッとなり、

「そうだった! 今日『逃げ恋』の日!」

 スクッと立ち上がる。

『逃げ腰の恋に人は笑えど』──通称『逃げ恋』は、今をときめく大人気ラブコメドラマだ。ハラハラキュンキュンな展開が虜になるようで、茜も桜も毎週欠かさず観ている。クラスでも野球部でも、翔斗はその単語を聞かない日はない。

「先週、主人公とヒロインがやっとお互いの気持ちに気付いて、なのにすれ違いで終わったの! 続きが気になるー!」

 すでにキュンキュンしている。

「それ、先週も聞いたから」

 しかも一方的に、と冷静に返す。

「あ、翔斗くんも一緒に観る?」

「ラブコメに興味ねーし」

 やや不機嫌そうに頬杖をつく。

 だよねぇー、と桜はニコニコしながら問題集を抱え込むと、中腰に屈んで、

「数学、教えてくれてありがとう! 今度何かお礼させてね♡」

 翔斗が不覚にもドキッとしたのに気付かず、桜はルンルンと部屋を後にした。

「あら桜、佐久間くんの部屋にいたの?」

「うん! 勉強教えて貰ってたんだぁ。翔斗くん教え方上手なんだよ!」

「あらー? 手取り足取り何のお勉強かしら♡」

「? 数学だよー」

「なんだつまんないの。やっぱりトキメキは『逃げ恋』で摂取しないとだわー」

「……ねぇ、さっきから何言ってるの?」

 という母娘の平凡な(?)会話が廊下から聞こえてくる。翔斗は力なくテーブルに突っ伏した。

「『逃げ恋』に、負けた……」

 つい溢れた呟きが、虚しさを帯びた。


 それから四十分後、テレビのある居間から「キャー!!」という女性二人の悲鳴が聞こえ、強盗でも入ったのかと翔斗は駆け付けると、

「主人公が、ヒロインにキスして……ようやく想い通じ合ったの」

「もう感動のキスシーンだよ……本当に、良かった」

 茜も桜も涙ぐんでいる。

 えぇー……?

 翔斗は遠い目をした。そして思った。

 他人のラブコメ見て何がそんなに楽しいんだ……? サッパリ分からん。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る