第58話『戸惑いの遊撃手』
──その送球は一塁カバーの嶋谷を外れ、ベンチに吸い込まれていった。
「早乙女危ない!」
ベンチ内の誰かが叫ぶ、だが桜は咄嗟に動く事ができず息を呑んだ。横にいた岩鞍が、ボールを止めようと左手を伸ばしかけたその時だ。反対側から勢いよく桜の眼前に腕が伸びてきて、送球を鷲掴む。
間一髪、娘をケガから救ったのは、父親である監督だった。
「ありがとう……ございます」
「監督、手は大丈夫ですか?」
岩鞍が固唾を呑んで尋ねる。
「あぁ。岩鞍、今利き手でこれを取ろうとしたな」
「……はい」
「もし実際に取っていたら、オマエはエースとして失格だ」
「そんな! 先輩は私を庇おうとしてくれたのに……!」
「おい、マネージャー。誰に向かって口聞いてるんだ?」
一瞬にして周りは凍り付く。桜は俯いて、
「はい……すみませんでした、監督」
五回表──
「うっし! ワンダン、ワンダンッ!」
惣丞が飛び込んでライナーを掴み、人差し指を立てる。他の野手陣も同じように人差し指を突き上げて、
「ファインプレー、毅!」
「宮辺、良い球来てるよ!」
「あと二個締まってこう!」
自然と声が掛かり合い、北条ナインに一体感が生まれる。次は最も俊足の、塁に絶対出したくない打者だ。特に前の打席では二遊間を狙われたのもあって、惣丞と翔斗は警戒を強めた。
「おい! 落ち着いていけよ、翔斗」
「分かってますって!」
なんだか物凄く心配されているようで、翔斗は強がってみせる。息を長めに吐き、打撃のインパクトの瞬間を見逃すまいと、刺すような視線で待ち構える。……その殺気から「オマエはどこの刺客だッ」と、たまに惣丞からツッコミを入れられるが、このグラウンド上においては、〝遊撃手〟はある意味一番の刺客でないといけないと翔斗は常々思っている。広いフィールドを遊軍のように冷静に、柔軟に、確実に仕留める事が求められるそのポジションは、他の野手よりも担う役割が大きい。「チームの守備力はショートで決まる」と言われているのも肯ける。
だからこそ、エラーはご法度なんだよ……。
マウンドからの五度目の投球を、打者のバットが狙い打つ。瞬間、翔斗は一歩目を踏み出した。
さして難しくないゴロだった。ショートバウンドで打球が綺麗にグローブに収まり、ボールを持ち替える。ステップを踏みファーストに送ろうとして、そこで体が強張る感覚がした。
そっちに投げちゃいけない──。
頭の中でもう一人の自分が言っているような、何か声が鳴り響いた。翔斗は歯を食いしばって、
けどそんな事、言ってられないだろ……!
バクバクと心音が早まる。戸惑いと共に送られたボールは、ファーストのかなり手前でバウンドし、勢いを失う。俊足の走者が一塁ベースを踏んだのは、その送球をファーストが捕る寸前だった。
スタンドから観客の感嘆な声が漏れるが、悔しそうに立ち尽くす翔斗の耳には届かなかった……。
「あちゃー、せっかくのショートゴロが勿体なっ!」
「バッターの足の速さもエグいなー!」
「にしても珍しい。あのショートがワンバンするなんて」
「あー、さっきのエラーでも引き摺ってんじゃね?」
「確かになかなかの大暴投だったけど。図太そうに見えて意外と繊細なんだな!」
などと観客の会話が後ろから聞こえてくる。輝人は頬杖をつき、ポツリと一人呟く。
「いや……俺も翔斗がこんなに動じるとは思わなかったよ」
面白いぐらいに、何故かドツボにハマってくれている。
怖いもの知らずだった悪ガキも、少し見ない間にオトナになったのかねぇ……。
そう考えると、少し感慨深くなるのだった。
「ヘックション!」
と、人知れず翔斗はクシャミをする。
なんか……誰かに何かを言われてる気がするな。
野生の勘だ。根拠は特にない。
まぁいいか、と気を取り直し、守備位置に付きながら一塁側のベンチをチラリと見やる。
マズイ、やっぱ思った以上に意識してるわ……。
自分の大暴投のせいで、桜にケガを負わせそうになった事実が、いまだに尾を引いている。それを思い出すと勝手に体の力が入り、ファーストへの送球に拒否反応が起きてしまうのだ。
ダメだ! こんなんじゃ抑えられねぇ。
守備の砦が、己の未熟さを言い訳に甘えたプレーをするわけにはいかない。リラックスさせようと、両肩を回し、必死に言い聞かせる。
大丈夫だ、桜はどこもケガしてない。大丈夫……。
だが翔斗は気付いていなかった。
戸惑いの本当の原因が、ケガをさせそうになったところではなく、もっと別のところにある事に──。
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