第42話『エースの降板』

 マズイな……。

 女房役の大貫は、岩鞍の投球が定まらなくなってきている事に汗を滲ませた。

 エースの無茶な攻撃も虚しく迎えた六回裏は、フォアボールを出しながらも打たせて取るピッチングでどうにか抑え、七回表では岩鞍を楽にさせてやろうと上位打線が意気込むが、まさかの三者凡退に倒れた。その裏──ノーアウト走者一塁二塁。

 こいつがここまで焦るのは初めて見た……クソッ、やっぱりそうか。

 ギリッと歯の奥を噛むと、大貫はタイムをかけ岩鞍の元へ駆ける。ミットで口元を隠し開口一番に、

「右足首か」

 岩鞍は一瞬驚いた顔をして、

「なんだ、バレたのか」

 と、肩をすくめる。

「阿呆。今日はいつものオマエらしくなかった、ヘッスラなんかしやがって。いつからだ?」

「……今朝から。けどたまに違和感があるだけで投球に支障が出るほどじゃない」

「監督は?」

「さぁ……言ってはないが気付いてるんじゃないか。オマエが気付いたぐらいだし」

「とりあえず一個だ、打たせていい。いけるか?」

「いく」

 その表情は力強かった。大貫は頷くとキャッチャーボックスへ戻っていった。

 今朝、投球練習をしていたら右足首に違和感があった。しかし違和感程度で、且つ岩鞍は投球時右足を軸にしないので大した事ではないと思っていた。それが試合が始まると違和感の存在も大きくなり、持ち前のコントロールと精神力を蝕んでいく。

 冗談じゃない……最後の夏だってのに、こんな所で終わらせてたまるか。

 宣言通り次の打者をセンターフライに打ち取りワンナウト。続く打者にはボール0ストライク2で追い込ませる。

 一回外すか……。

 大貫の要求に応えてボールゾーンに投げた、つもりだった。気付いた時にはフルスイングで捉えられた打球が優に内野を越えていた。

「くっ……! 任せろ!」

 ライトの嶋谷が後方に落ちたボールを懸命に追う。走者はそれぞれ次塁──だけに留まらず、更に先の塁へとスピードを上げる。

「ナメるな!」

 漸く追い付いたボールを利き手で掴み、ホームへレーザーを放つ。

 良い返球だ、と捕球体勢を作りながら大貫は思った。ノーバウンドでミットに綺麗に収まり、タッチしようと振り返る。走者がホームに突っ込む。

 審判がコールをした。

「セーフ!」

 タッチは僅かに間に合わなかった。古賀学園が、一点勝ち越した。


「田城先輩」

 ベンチで観ていた宮辺が静かに声を掛ける。田城は返事の代わりに顔を向けた。

「肩作るの、付き合って貰って良いですか?」


 その後、走者一塁三塁に残塁のままセーフティスクイズを仕掛けられるも、ピッチャーフライでツーアウト。

 岩鞍は落ち着きを取り戻しつつあったが、次の打者に攻めにいったインコースが思いのほか内に入ってしまい、肘に当ててしまう。

 岩鞍先輩がデッドボールなんて、今までなかったのに……。

 桜は鉛筆を握る手をぎゅっと強める。

 やっぱり今日の先輩、調子悪いんじゃ……。

 チラッと監督を横目で見ると、目を閉じスーッと息を吐く様子が映った。大抵こういう場合は、何かを決意する時が多いと、娘である桜は知っていた。


 岩鞍は、宮辺がグローブ片手にマウンドへ向かって来るのが見えて、フッと笑う。

 まだ一点差なのに、監督容赦ないな……。

「やらかした、悪い」

 いつもの飄々とした感じで言うと、

「本当ですよ。どうしてくれるんですか、この満塁」

「すまん」

 睨まれては苦笑いするしかない。

「今日調子悪いなら最初から言って下さい。ヘッスラまでして、頭おかしいんですか?」

 さっきの誰かと同じ事を言われる。

「後ろにオマエがいるからかな、安心して無茶できたよ」

 宮辺の頭をポンッと叩きながら、

「あとは託した、

 きっと後ろ髪を引かれる想いだっただろうに、岩鞍は颯爽とマウンドから立ち去った。

「なん、だよ……」と宮辺はポツリと呟く。『優太』なんて久しぶりに呼ばれた。おそらく小学校以来だろう。

 昔からそうだ、なんだかんだあの人は自分への信頼が揺るぎない。いつでも尻拭いしてくれてたのは、向こうなのに……。

「託されたからには……」

 宮辺は大貫から投げ渡されたボールをキャッチする。

「失点にはさせない、


 一方、古賀学園の四番打者はほくそ笑んでいた。

 ヘッ、エースが引っ込んだかと思えばこの場面で一年生かよ……こりゃあ相当切羽詰まってやがんな。

 バッターボックスで舌舐めずりをする。

 もう一発、かましてやんよ……。

 投げ放ったボールがコースど真ん中の低めに入って来る。

 よし、貰った!

 振ろうとして、投球がストレートではなく落ちていくのが見えた。

 チェンジアップ……?! クッソ、合わせてやる!

 咄嗟に、バットの先で当てた。

 ショート前へゴロになるものの、打球の勢いが死んでいる。これを野手が取りに行き、掴み、送球するまでにはタイムラグが発生する。このまま駆け抜けたら間に合うかもしれない。打者、そして走者は懸命にダッシュした。


 だが、翔斗の一歩目は早かった。バットに当てた瞬間ボテボテのゴロだと踏んでいたのだ。

 無駄のない動きで捕球すると、大貫がホームベースでミットを構えていた。三塁走者が突っ込んでくるのが視界に入る。翔斗は落ち着いて、しかし矢を放つようにキッチリそこへ送球する。

「アウト!!」

 ピンチの場面を抑え込み、北条のベンチは湧き、宮辺はガッツポーズして吠えると翔斗に親指を立てた。

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