第40話『自覚した感情』

 話は数日前の夜に遡る──。

「桜」

 翔斗の声に桜は我に返る。

 三葉は翔斗に寄り掛かっていた頭を離し、桜に話し掛けた。

「こんばんは。髪の毛切ったのね、一瞬誰か分からなかったわ」

 何事もなかったかのような三葉の口ぶりに桜は戸惑いながらも、

「あの、ごめんなさい。邪魔するつもりはなかったの……」

 目を合わせる事ができずに視線を下ろす。

「はぁ? 待てよ、別にそんなんじゃ──」

 呆れた声を出す翔斗を遮って、

「誤解させたなら悪かったわ。今の、子供の頃からのクセだから気にしないで」

 三葉がサラリと言うと、

「じゃあね、翔斗。今度の試合頑張って」

 と、足早にその場を離れる。「おい……」という翔斗の呼び掛けに足も止めず、そのまま桜の横を通り過ぎようとして、三葉は歩を緩めた。

「──でも私、まだ諦めてないから……翔斗の事」

 桜にだけ聞こえるようにボソっと呟く。驚いたような瞳が、三葉を見る。

 それを一瞥すると、後の言葉を続けずに、再び足を早めて立ち去っていった。

 桜は、しばらく呆然と動く事ができなかった──。


*****


「マネージャー、今球数いくつだ?」

 監督からの質問に桜は慌ててスコアブックを確認する。

「えっと、八十七球です」

 球数増えたな、と表情を変えず早乙女は腕を組むと、グラウンドに目を向ける。

 試合は五回の攻防が終わり、インターバルに入っていた。

 三回表に三番バッターの惣丞が待望のツーランホームランを放ち、北条は二点を先制した。一方の古賀学園も、四回裏には打線が繋がり一点を返すと、続く五回裏では主砲の一撃がスタンドに入り同点へと追い付く。

 試合を振り出しに戻され、勝敗の行方は後半戦に持ち越された。

「あっちー!」

「今日何度あんだよ、酷暑かっ!」

「おい、こっちにもドリンク頼む!」

 北条側ベンチでは慌ただしくナインの声が飛び交っている。まだ七月の半ばだというのに、八月並みの気温が容赦なく球児達の体力を奪う。

「岩鞍、アンダーシャツ替えとけよ」

 女房役である大貫が声を掛けた。

「あぁ。さっきの球甘く入った、悪い」

 タオルで顔の汗を拭きながら、申し訳なさそうに先程の本塁打を詫びる。

「オマエが謝るな。俺のリードミスだ」

「そんな事ないさ」

 爽やかにユニフォームとシャツを脱ぐと、「岩鞍先輩、監督が──」と振り返った桜と目が合う。

「し、失礼しましたぁ!」

 頬を真っ赤に染め、素早く背中を向けられてしまい、

 上脱いだだけなんだけど、これじゃまるでセクハラだな……。

 と、思わず苦笑いを浮かべた。


「今日全然だねー」

 頬杖を付いて宮辺が言った。通りすがった翔斗はピタッと立ち止まるが、何も答えない。

「二回も打席でチャンスが回ってきたのにノーヒット、これじゃ投げる方も楽じゃないよ」

 と、肩をすくめる。

 オマエまだ今日投げてないじゃん……。

 翔斗はそう言ってやりたい気持ちをグッと堪えながら、「すまん」と素直に謝ると、

「佐久間さぁ、他の事で頭いっぱいなんじゃないの?」

 顔はにこやかだが、イラついているのが伝わってくる。

「なんだよ、今日やけに突っ掛かるな?」

「べっつにー。気のせいでしょ?」

 いや、明らかに何かが不服そうだけど……。

 こう気が立っている時の宮辺には、触らぬ神に祟りなし。というワケで、翔斗は放っておく事にした……。

 グラウンド整備も終わり、まもなく後半戦が始まる。

 次の打席に備えて素振りに励む翔斗を横目に、宮辺は三日前の事を思い出す──。


*****


「早乙女、今少しだけ時間良い?」

「うん、大丈夫だけど……」

「聞いたよ。佐久間と言い合いしたんだって?」

 あっ……と気まずそうに桜が目を伏せる。

「珍しいな、キミ達が喧嘩なんて」

 宮辺は持っていたボールを、手首だけ使って、上に投げてはキャッチする動作を繰り返す。しばらく沈黙が流れたが、やがて桜はポロッと力なく溢した。

「翔斗くんは、何も悪くないの……」

「え?」

 上に放ったボールを掴むと、そのまま離す事なく握る。

 吹いた風に髪を遊ばれながら桜は伏せた目を上げた。

「私、気付いたの……。この間、翔斗くんは憧れの人だって言ったじゃない?」

 でも、と繋げた声に、ほんの一瞬躊躇いを覗かせる。

「なんだか、それだけじゃないみたい」

『──でも私、まだ諦めてないから……翔斗の事』

 頭の中で三葉の言葉がこだまする。

 そんな事は分かりきっていた。それなのに、を見て激しく動揺してしまった。ただの憧れの人なら、ここまで感情を揺さぶられる事はなかったかもしれない。自分でもどうしたら良いのか分からないぐらいに混乱していた。

 あぁそうか、なんで気付かなかったんだろう。自覚してしまったこの感情は──。

「私ね、翔斗くんの事……好きなの」

 太陽が遙か彼方で沈もうとしている。あまりにも西陽それが眩しくて、よりにもよって桜の表情がよく見えず、宮辺は手の中のボールを力強く握り締めた。

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