第35話『鬼の目にも涙』
昼休み、すっかりお腹が空いた翔斗は意気揚々と自席で弁当箱の蓋を開ける。リクエストしておいたかしわ飯に心躍らせ、箸を取って口へ運ぼうとしたその時、
「佐久間ぁ!」
……けたたましく武下が教室へ入ってきた。翔斗は顔をしかめ、
「うるせぇヤツだな。なんだよ? 桜なら小柳のクラスでメシ食ってるからいないぞ」
「え、そうなの? 残念……って違ぇよ!」
相変わらずコロコロと感情が変わり忙しい奴だ。
「試合だよ! 白付と箕曽園の戦い、さっき終わったとこなんだけど、白付が敗れたって!」
「え……マジで?」
と、驚きを隠せない。
「シード校が初戦敗退とは信じられないよなー。しかも六-二だとよ! この二点も九回裏になんとかもぎ取ったものらしいし」
「点差つけられたな……そんなに調子悪かったのか」
「いや、調子悪いっていうより、箕曽園の守備と打撃が今までと比べようもないくらいずば抜けてたみたいだぜ」
「そんなに?」
「なんでも、去年の秋からコーチに入った人が、なかなかのやり手だって話だぞ……」
一体どこからそんな情報を仕入れたのか気になるところだ。
「コーチ、ねぇ……」
翔斗はようやくかしわ飯を口に入れ、咀嚼し飲み込むと、
「白付が敗退したのは衝撃だけど、俺達は俺達のやれる事をするしかないよな」
ニッと力強く笑った。
「出た! ポジティブ思考!」とツッコむものの、どこかホッとした表情になり、
「ていうかテメェ! そのかしわ飯桜ちゃんが作ったやつだろ! 食わせろー」
伸ばしてくる武下の手を、翔斗はバシッと払いのけるのだった。
「三葉」
優しい声で三年生マネージャーから話し掛けられ、三葉は顔についた水分を素早く拭うと振り向いた。
「井田先輩……」
と思わず名前を呼ぶ。井田の目が真っ赤に染まっていたからだ。
「涙は、止まった?」
無理に作った笑顔を見て、三葉は再び涙が出そうになった。
「三葉、アンタはまだあと二年あるんだから。こんなとこで泣かないの」
そう言う井田の声が震えている。
「次こそは連れてってもらいな、甲子園……ね?」
「……はい」
止めどなく溢れてくる涙をどうする事もできずに、「先輩、お疲れ様でした」
井田は宥めるように微笑むと、
「さっ! 最後の仕事、しよ?」
「あ! いたいた、森! こんな所で何やってんだよ、また鬼マネからシメられるぞ!」
鬼マネとは三葉の陰の呼び名である。
「ん、ちょっとなぁ」
探しに来た部員をチラッと見ながら、
「葵のヤツ泣いてたぜ。〝鬼の目にも涙〟って、あぁいう事を言うのか」
「え、あの鬼マネが?」
さっきから三葉に対して失礼な言い様である。
「なぁ、甲子園ってこっちの方角かな?」
千宏は何故か仁王立ちをする。
「はぁ? 知らねぇよ、ほら早く行くぞ……」
「来年」とおもむろに口を開き、
「来年は絶対行ってやろうぜ。この先の球場へ」
「オマエ……」
千宏の迷いない眼差しに笑みを溢すと、
「そっちたぶん反対方向だぜ?」
「なにぃ?!」
少し恥ずかしい千宏であった。
「お疲れーっす」
「おぅ、お疲れ
「っあぁー。すんげぇ腹減ったー」
「……さっき夜食、異常に食ってたじゃん」
「バカタレ、その分動いたんだよ。とっくに消化されてるよ」
「さいですか」
そんな会話をしながら惣丞と嶋谷は校門を出ると、一人の女子とすれ違う。
「おっ、びっじーん」
振り向きざまに、惣丞は心の声を漏らす。
「今の子、どっかで見た事あるな」
「マジ? でも言われてみれば……」
あんな美人、一度見たら忘れるはずがない。しかしどこで見たのか、なかなか思い出せない二人である……。
「今日のかしわ飯旨かった!」
と、翔斗は隣を歩く桜に言った。相変わらず、完全下校を過ぎた校内は真っ暗だ。
「本当? 良かったー。翔斗くんのリクエストだから張り切って作ったんだよー」
「サンキュ、また弁当に入れてよ!」
子供のように無邪気に笑うので、桜は微笑ましく感じながら、「はいはい」とまるで母親のような反応を返す。
「あっ! いけない、部室に忘れ物してきちゃった!」
校門を出る直前で、桜はそれに気付いた。
「ついてこうか?」
「ううん、すぐ追い掛けるから先に行っててー」
と、走って引き返していったので、翔斗はひとまずゆっくり進み始める。
校門を過ぎた辺りで「翔斗」と呼び声が聞こえてきた。目を向けると、見知った顔がそこにあった。
「三葉? なんで
「私に気付かないなんて、注意力散漫ね」
口では気丈に振る舞っているが、いつもの女王オーラが消えている。
「オマエ、こんな時間に何やってんだ?」
もう二十時を過ぎている。確か寮生活のはずだから、今の時間ここにいるのは自然ではない。しかも三葉は制服ではなく私服だ。
「別に。ちょっと顔見に来ただけ」
三葉らしからぬ発言に、翔斗は少し訝しんでいると、
「
寂しそうに笑うのを見て、それを言いに来たのだと悟った。
「あぁ、知ってる……残念だったな」
翔斗もこれ以上は言い様がない。
「だから今日は練習休み。明日から新体制なの」
「そうか……」
三葉は歩み寄ると、翔斗の胸元に頭を預けた。
「三葉……?」
「別に慰めて貰おうと思ってるわけじゃないから、安心して」
そりゃそうだろうけど……。
「懐かしいわね。小さい頃は私が落ち込む度によくこうしてた……」
「昔の話だよ」
「そうね……」
三葉は目を閉じて、
「試合前、輝にぃに会ったの」
「輝にぃに?」
「ちっとも、変わってなかったわ」
「それは良かった……」
フッと翔斗は笑った。
「それでね──」
三葉が口を開きかけたその時だった。
ドサッ、と何かが落ちる音が聞こえた。二人は音のした方を向くと……、
「桜」
足元にカバンを落とし、目を大きく見開いて驚いた表情でこっちを見ている桜の姿を、翔斗の目は捕らえた。
今、このシチュエーションが、誤解を生むような状況だという事に、翔斗はハッと気付いた。
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