第31話『夏のはじまり』

「じゃあ、いってきます」

 翔斗はショルダーバックを背負うと、玄関で見送る茜に声を掛けた。

「いってらっしゃい。後で私も行くからね」

「はい、ありがとうございます!」

 互いに笑みを交わし、翔斗は扉を開けた。


 いつもなら、通勤通学で人が行き交うこの道も、今日は休日の為まばらだ。

 夏の太陽は朝からジリジリと照っている。翔斗は空を仰ぎ、日の光を視界から遮るように手でかざす。

 今日も暑くなりそうだな……。

 蝉の鳴く声が近くで聞こえた。この声を聞くと、もう夏本番という気がしてくる。今年はどういう夏になるのだろうか……翔斗は想像もつかない。だからこそ、楽しみでもある。自分の両頬をバチンッと叩き、気合いを入れる。

 よしっ……!!

 まだ見ぬ夏を目指し、翔斗は力強く歩き進んだ。


「えー! 武っちメンバー落ちしたの?!」

 校門で武下と出会した万理が声を上げる。

「万理ちゃん……傷を抉らないでくれる?」

 と、複雑な表情で苦笑いしている。ハッキリ言葉にされると、悔しさと哀しさが再び顔を出しそうだ。

 あぁごめん、と万理は軽く詫びて、

「なぁんだ。今日追試の後、応援しに行こうと思ってたのに」

 先日の期末テストで総合点数が足らなかったらしい。

「ハハッ、応援には来てよ。俺もスタンドで応援してっからさ!」

「佐久間くん応援しても仕方ないしなぁ……」

 ボソッと呟くと、

「次は、メンバー入れると良いね」

 笑顔を向けてくる万理に、武下は少しドキッとし、「ありがとう……」と小さな声で言った。

「あ、噂をすれば」

 向こうからやってくる翔斗を見つけると、「じゃあ私行くね」と足早に校舎の中へ入って行った。

「なんだ、小柳の奴? 人の顔見てさっさと行って」

 と、近付く翔斗に、「チッ、お邪魔虫め……」武下は悪態をつく。

 なんでだよ? 訝しむ翔斗を横目に、

「俺さぁ、今まで一番は桜ちゃんだと思ってたわけ……」

 こいつは突然何の話をしてるんだ? 声に出さず翔斗はツッコむ。

「でも最近、万理ちゃんも良いなぁーなんて思えてきてさ。桜ちゃんにはないSっ気が堪んないんだよなー。二人とも可愛いし、もう俺どっち選べば良いか分かんねぇよー!」

 こいつ、そんな事ばっか考えてるからメンバー落ちしたんじゃ……? と呆れるが、口には出さない。

「なぁ佐久間、どうしたら良いと思う?」

「どうでも良いわっ」翔斗はサラッと答えた。


「おはよう! 二人とも」

 部室に入ると、宮辺が着替えているところだった。

「おっす! 今日は機嫌良さそうだな?」

 武下がニカッと笑う。

「昨日まで荒れてたもんなー」

 と、翔斗は揶揄う。……控えピッチャーとしてメンバー入りしたものの、エースに選ばれたのが岩鞍とあって、宮辺のここ数日の荒みようは凄まじかった。

「フッ、僕も子供じゃないからね。エースナンバー取られたぐらいで、いつまでも不貞腐れちゃいられないよ」

「おっ、珍しく前向きじゃん」

 と、翔斗が言ったのも束の間、

「リリーフ登板の可能性もあるって昨日監督言ってたし、早くマウンドから引きずり下ろされれば良いよ、あの人……」

 表情は笑っているが闇オーラが半端ない。

「出たっ、ブラック王子……!」

 武下の顔が思いっきりひきつる。すると空気を変えるかのように、

「まぁ、今日はお互い頑張ろうぜ! 他の部員達の分もな」

 翔斗が力強く言うと、そうだよ俺の分もやって来いよ! と武下が声を上げる。これに毒気を抜かれたのか、

「……あぁ! もちろんそのつもりだよ」

 ようやく宮辺に、いつもの王子らしい笑顔が現れた。


 ショルダーバックから翔斗は試合用ユニフォームを取り出す。昨晩桜が頑張って歪まずに縫い付けてくれた、背番号「6」──翔斗はそっと撫でて、深呼吸をする。


「なんだ、やけに早いな」

 翔斗がストレッチをしていると、二年生の田城に声を掛けられる。

「おはようございます。先輩こそ」

「ハハッ、試合前に体動かしとかないと気持ち悪くて」

 田城は、控えキャッチャーでメンバー入りしている。

「自分もです」

 闘志溢れる翔斗の表情に、田城はフッと笑い、

「って言っても、俺の場合は出番あるか分かんないけど。本当凄いよなオマエ、一年生で唯一スタメンなんて」

 と、柔らかい口調で言った。

「いえ、そんな」

「去年引退した先輩にさ、すげぇショート守れる人がいて、今年はどうなる事かと思ってたけど……良かったよ。佐久間がいてくれて」

 田城のまっすぐな瞳に翔斗は何も言えなくなる。

「オマエの守備力の高さは俺達や三年生だって認めてる。いつも通り、堂々とプレーすれば良いよ」

「……はい! ありがとうございます!」

 先輩からこんな言葉を掛けられて感激しない後輩はいない。だが翔斗にとっては、それ以上の意味合いを成していた。

 三年生の中にはメンバー入りを逃した者も多い。この夏のメンバーに入れないという事は、実質的に甲子園での出場も望めないという事だ。

 それは事実上の引退。もちろん夏の大会が終わるまではレギュラーメンバーのサポートなど役割はあるので、完全に部を去るわけではない。だが、試合に出る機会を断たれた三年生にとって、高校野球生活最後の優美を飾る機会すらも失ったという事実は否めない。

 一年生でありながらスタメン起用された翔斗に、プレッシャーが全くなかったかと言えば嘘になる。

 自分にできる事はこの先輩達に恥じないプレーをする事だけだ……

 役割は分かっている。全うする自信もある。そんな気迫に満ちた気持ちを汲んで、田城が掛けた言葉は翔斗の心をホッとさせた。

 ホントに、この人には頭が上がらないな……。

 目を細めて熱い眼差しを向ける。

「行きましょう! 甲子園!」

 夏の本番は、まだ始まったばかりだ。

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