番外編『早乙女桜の一日』
北条高校野球部、唯一のマネージャーである早乙女桜の朝は早い。
4:30──
目覚まし時計が鳴り、桜はおもむろに起きる。
夜明け前でまだ外は薄暗い。カーテンを開けるが部屋は暗闇に包まれたままだ。
トコトコと階段を降り洗面台で顔を洗うと、冷たい水が気持ち良くて少し目が覚めてくる。朝には強い方だが、昨晩宿題に手間取り、寝るのがつい遅くなってしまった。
ヒョイッと台所を覗くと、電気が消えていて誰もいない。桜はそのまま朝御飯作りに取りかかった。
4:50──
「おはよ。ごめん、寝坊しちゃった!」
母・茜が、欠伸をしながらパタパタと台所へ入ってきた。いつもはもう起きて朝御飯を作っている時間だ。
桜は大根をトントンと切りながら、
「おはよう。卵焼きは作っといたよ。今お魚焼いてるから、あとはお味噌汁お願いね」
なんだかどっちが母親だか分からない……。
「ありがとうございます。助かります」
茜がわざとらしくお辞儀をすると、桜は「いいえ」とクスクス笑い自室へ戻っていった。
5:00──
支度をして階段を降りていくと、ちょうど階下にある部屋から居候の野球部員が出て来た。
「おはよう、翔斗くん」
「おはよう……」
相変わらず朝に弱いのか、まだ少し眠たそうだ。
「もう朝御飯できてるよ。顔洗っておいで」
ニコニコと声を掛けると、翔斗がジッと自分の顔を見てる事に気付く。桜は少し恥ずかしそうに、
「どうしたの……?」
すると翔斗は手を伸ばし、桜の頬──を通り抜け、髪の毛をそっと摘まんだ。
「ゴミ、ついてたよ」
と、綿のような物を見せる。
「あ、ありがとう」
桜は少し拍子抜けしながらも、お礼を述べる。
5:20──
「じゃあ、いってきまーす」
玄関のドアを開けようとすると、
「俺も一緒に行くよ」
と、翔斗が靴を履きながら声を掛けてきた。
支度できるの早いなぁ、と感心しつつ、桜は嬉しそうに「うん!」と頷いた。
「翔斗くん、今日は早いんだね」
空がすっかり明るくなっていた。今日も暑くなりそう、と思った。
翔斗は大きな欠伸をしながら、
「あぁ、最近あんま自主練できてなかったからさ。少しでもやっとかないと」
夏の大会に向けて、先週から朝練の始まる時間が三十分早まっている。
「そっか、頑張ってね!」
なんとも可愛らしい表情で励ました。
5:40──
まだ誰もいない野球部の練習場に着くと、桜は先に着替えを済ませ、道具などの準備に取り掛かる。
はじめの頃は何をすれば良いのかよく分からなかったが、前のマネージャーが残していってくれた引継ノートのお陰で基本的な事を把握する事ができた。(できているかどうかは別として……)
「手伝うよ」
ユニフォームに着替えた翔斗がそう言って、一緒に道具入れを運び出す。
最近では、こういう優しさを見せてくれる翔斗に嬉しさを感じていた。
8:20──
始業のチャイムが鳴る五分前に、息を切らしながら桜は教室に滑り込む。
「お疲れ、今日は余裕で間に合ったな」
すでに教室に戻っていた翔斗が笑顔で労ってくれた。
「うん、なんとか……」
えくぼを見せるも疲労感が隠せない。
桜にとっては、朝練後の片付けが毎朝時間との戦いなのだ。もう一人マネージャーがいてくれたら……この時ばかりは、ついそう思ってしまう。
「あ! 今日私、日直だった!」
桜は黒板を見て気付く。
日直当番の時は、始業前に出席簿を職員室まで取りに行かなくてはいけない。
「そうだと思って取ってきたよ」
翔斗はポンッと出席簿を桜に渡した。
「えぇ! あ、ありがとう!」
心の底から神だと感動した。すると突然、
「へぇー佐久間くん、さくタンに優しいんだぁ」
小柳万理が二人の会話に入ってきた。
万理は桜の中学時代の友人で、桜の事を「さくタン」と呼ぶ。小柄でツリ目がちの愛くるしいルックスは男子の間でも人気が高い。髪の両サイドに結えられた細身のリボンがトレードマークだ。
「まりり、どうしたの? もう授業始まるよ?」
万理とはクラスが違う。
「さくタンごめん! 現国の教科書持ってる? 忘れてきちゃって」
テヘッ♡ という声が聞こえてきそうである。
「小柳またかよ。この間も何か忘れて桜に借りてただろ」
翔斗が少し呆れて言う。
「はぁ? 佐久間くんには頼んでないでしょ?」
万理が凄んでみせると、二人の間に火花が飛んだ。桜は慌てて、
「はい、教科書。私も三限目に現国あるから……」
それまでに返してね。とまで言わせず、
「サンキュー! さすが、さくタン!」
ヒョイと教科書を掴んで、万理はそそくさと教室から出ていった。
「あいつだけは苦手だ……」
翔斗がボソッと呟くのを、桜は苦笑いして聞いた。
12:10──
昼休みの時間となり、生徒達は昼御飯にありつく。が、しかし……。
桜は野球部の洗濯機を回していた。
「あれ?」
と言いながらやってきたのは三年生の岩鞍だ。
「早乙女なにやってんの? メシ、食わないの?」
「岩鞍先輩……」桜は手を止めると、
「朝、時間がなくて洗濯しそびれたんです。今の内にやっておかないと」
と、笑顔で答える。
「そっか、無理すんなよ」
岩鞍は優しく微笑む。
「ありがとうございます。先輩は?」
「俺は自主練。大会近いしな」
爽やかにそう言うと、練習場へと向かった。
先輩にとっては最後の夏、頑張って欲しいな……。
桜は岩鞍の後ろ姿を見ながら心から思った。
13:20──
昼休み開けの授業というものは、ついウトウトしがちになる。
それは桜とて例外ではない。昼御飯を食べるのが結局遅くなり、満腹感から来る眠気にちょうど襲われていたのだ。
とは言え、居眠り厳禁な野球部に所属している為、必死に堪えていた。
が、意思に反して瞼がくっついたり離れたり忙しい。つまり意識はなかった……。
「それじゃあ、次のページを読んで貰おうかしら。今日の日直は……早乙女さんね」
よりによってこんなタイミングで教師に当てられるのは、よくある話である。
「じゃ、早乙女さんお願い」と教師が声を掛けるが応答がない。
「早乙女さん?」
再び呼び掛けると隣の席の翔斗が、「おいっ、呼ばれてるぞ」と桜の肩を叩く。
桜はハッと意識を取り戻すと、
「ご、ごめんなさい! 答えは分かりません……!」
と、ガタッと立ち上がった。教師はクスッと笑い、
「誰も問題なんて出してないわよ?」
クラスメイトが一斉に笑い出す。こうなっては翔斗も苦笑いするしかない。
わー、やっちゃったぁ……。
桜は恥ずかしくて、穴があったら入りたい気分だ。
「めずらしいわね、アナタが居眠りだなんて」
注意というよりは、言葉通りの意味で言った。
「すみません……」
「教科書、次のページ読んでくれる?」
はい、と桜が読み始めたページは、すでに読まれたページだった……。
15:20──
この日の授業が終わり、出席簿を返しに職員室へ入る。
「ありがとう、早乙女さん」
担任の村田が出席簿を受け取り言った。
「では、これで……」
午後練の準備があるので早々と退散しようとする桜を村田は呼び止め、
「野球部のマネージャーどう? 大変じゃない?」
と、聞いてきた。桜は少し考えて、
「初心者な分大変ですけど、やりがいがあります」
と、微笑む。
「それなら良かった」
村田はホッとした表情で、
「私はてっきり、あなたが放送部を創部するとばかり思ってたから、本当驚いちゃった」
「え……」
「早乙女さん、中学では放送コンクールの賞を総なめにしてたでしょ? なのに、放送部の無いこの高校を選んだのが最初は不思議だったわ」
桜は黙って話を聞いている。
「他にやりたい事、見つけたのね?」
眼鏡の奥で、優しい瞳をしていた。
桜は満面の笑みで「はい!」と答えた。
「そういえば朝、佐久間くんが出席簿取りに来たわよ。仲が良いのねー♡」
どうやらこの先生も、ミーハーのようだ。
失礼しました、と職員室を出たところで、「早乙女?」と、宮辺に出くわす。
夏の制服を着ている宮辺は、より一層かわいさと爽やかさと王子らしさが滲み出てて、女子からの人気が厚い。(一部の男子からもあるとかないとか……)とても野球部でピッチャーを務めている風には見えない。
「宮辺くんも日直?」
「そう。ちょっと待ってて。すぐに出席簿返してくるから、一緒に練習場行こ」
宮辺としては好きな女の子を誘っているつもりだが、悲しいかな、女の子みたいで可愛いなーという目でしか桜は見ていなかった……。
15:45──
野球部の午後の練習が始まった。
ボール磨きをしていると、コロコロとボールが転がってきた。するとグラウンドの方から、
「桜ちゃん悪い! ボール投げてくんない?」
どうやら武下がキャッチボール中に捕球し損ねたらしい。
桜は微笑むと、転がってきたボール──ではなく、磨いたばかりのボールを掴み、「いくよー!」と腕を振る。
「あっ……!」
投げ放たれたボールが方向を間違え、少し反れていった。
バシッ!
武下は桜の暴投に上手く対応し、キャッチする。
「ナ、ナイスキャッチ!」
心の中で拍手を送りながら桜は歓喜した。
「ナイスピッチング!(?) ありがとね!」
武下はふとボールを見ると、ピカピカになってる事に気付く。
あれ? そっか、磨いたやつと替えてくれたのか……。
武下は、ボール磨きを再開する桜に目をやると、なんだか心温まる気がした。
19:55──
「ごめんね、お待たせ」
制服に着替え終えて部室から出ると、翔斗に声を掛けた。
鍵の付いてない部室で桜が安全に着替える為に、翔斗が部室の外で見張り番をするのは珍しくない。先代のマネージャー達は一体どうやって着替えていたのだろうかと、桜は時折疑問に思う。
「おぅ」と翔斗は歩き出し、桜も後に続く。
この時間になるとグラウンドのライトも消えて校内はすっかり真っ暗だ。完全下校が二十時の為、部員はおろか生徒の姿もほとんど見当たらない。
こういう時、翔斗がいてくれて正直桜はホッとする。
「今日もお疲れ様でした」
翔斗の隣に並ぶと微笑んだ。
「桜もお疲れ。世界史の授業寝てたもんな?」
と、意地悪く言った。
「もう、翔斗くんってば……」
恥ずかしさを思い出し、耳まで真っ赤にすると、
「翔斗くんって、たまにイジメてくるよね」
桜なりの精一杯の言い返しである。
「ふーん、そんな事言うんだ?」
何か悪巧みでも思い付いたのか、ニヤリとしている。
「だってこの間だって──」
桜が言い掛けると、翔斗は突然ダッシュして行った。
「えっ?」
さすが野球部、ダッシュが早い! なんて感心している場合ではなかった。
何度も言うが、辺りは真っ暗で人影もない。
「ま……待ってー! 置いてかないで、怖いよー!」
若干泣きそうになりながら桜も駆け出す。
結局二人の追いかけっこは校門を出るまで続いた……。
20:30──
「いただきます」
この日の早乙女家の食卓には、大量のトマト料理が並べられている。
「なんでこんなにトマトが多いの?」
その異様な光景に、桜は茜に尋ねる。
「ご近所の今井さんからたくさん頂いたのよ。ほら、あそこ家庭菜園が趣味でしょ?」
だからって何もここまでトマトまみれにしなくても……。
皆がもくもくとトマト料理を処理する中で、一人トマトを避けながら食べていた。
「ちょっと、子供みたいな食べ方しないで下さい」
茜は夫である早乙女に注意した。
「俺は熱の通ったトマトは食わん」
そう言うと、器用にトマトを避ける。
ただ単に好き嫌いなのでは……桜は心の中でそっとツッコみ、監督にも弱点があったのか……と、翔斗は意外に思った。
21:10──
「じゃあ、お先にお風呂頂きます」
桜は居間に声を掛けるが誰もいない。
窓の向こうで、翔斗が庭で自主トレしているのが見えた。邪魔しちゃいけないと思い、そのままお風呂場へ向かう。
──勝手口でゴミをまとめていた茜は、庭へ顔を出す。
「佐久間くん、そろそろお風呂入りなさい」
桜がお風呂に入っている事を知る由もなく……。
「あ、はい。ありがとうございます」
翔斗は汗を光らせ、返事をした。
湯船に浸かりながら今日一日の疲れを癒す時間が、桜は密かに好きだ。
段々と体がほぐれてきて、なんだか眠くなってくる。
頭をボーッとさせていたら、ハタと脱衣場の鍵を閉め忘れていた事に気付いた。
いけない! 誰か入ってきたら大変!
ザバッと湯船から出ると、慌てて浴室の扉を開けた──。
と同時に、翔斗が脱衣場のドアを開けた。
……二人の目と目が、合った。
22:30──
どうしよう……。
チーンという効果音が聞こえてきそうである。ベッドに入り、先程の事が頭から離れないで悶々としていた。
み、見られたかも……でも翔斗くんスグにドア閉めてたし、一瞬しか見えてないんじゃ? それって一瞬でも見えてるんじゃん……。ううん、見えたといっても、そう湯気! 湯気できっとボヤけてる! ボヤけるほど湯気出てたっけ……。あーん、見えてなかった事にできないかなー!
などという思考のやり取りを、一人で延々と繰り返している。
もうこうなったら、自己暗示を掛けるしかないわ……。見えてない見えてない、翔斗くんは何も見えてない。見えてないから大丈夫、大丈夫よ桜……!
いったい何が大丈夫なのかは不明だが、非現実的な現実逃避が効いてきたのか、猛烈な睡魔が襲い掛かってきた。ふぁっと欠伸をし、目を擦る。
「長い一日だったな……」と思わず呟いた。もう今日もクタクタだ。
それから桜が眠りにつくのに、そう時間はかからなかった。
おやすみ、翔斗くん……良い夢を。
全くの余談だが、この日翔斗が何故だか一睡もできなかったのは、ここだけの話である。(ちなみに翌日「何も見てない」と桜には伝えたらしい)
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