Chapter05 アブソリュートエンド

「春近ぁぁぁぁぁぁああああああ!!」


 遠くから俺の名前を呼ぶ声が轟き。

 次の瞬間には、視界を埋め尽くす閃光の弾幕が、『黒』を視界の外へと押し出した。体中を高温のレーザーに貫かれた『黒』は吹っ飛んだ先で、全身から煙を上げたまま動かなくなる。

 俺は声が聞こえて来た方へ、緩慢な動作で顔を向けた。

 そこには。

「ギリギリ間に合った!」

「間一髪ってとこだな……! 今のはオレも焦ったぜ」

「ルナリア、ラッド?」

 ラッドが操るサーフボード状のビークル――≪グラビティボード≫から降り立ったルナリアが、血相を変えて俺の元まで駆け寄ってきた。

 ≪アクセラレーター≫まで併用して急行してきたのか、二人の息は荒い。

 その手には既に展開済みの≪サイレントルーラー≫。駆けつけざまにこれを連射して、『黒』へ強襲を仕掛けたのだろう。

 ぼんやりと、そんなことを考える。

「ノインがあんな声を上げたものだから、生きた心地がしなかったわ……凄く顔色が悪いけど、大丈夫? 怪我はしてない?」

「あ、あぁ……」

 現実感が薄く、返事も曖昧なものになってしまう。

 外傷こそなかったが、大丈夫かと聞かれれば頷くことは出来なかった。

 ルナリアたちにとって、『黒』は俺を襲おうとした変異体に見えたのだろう。だからこそ初めから全力をもって排除しにかかったのだ。

 だけど俺にとって『黒』は、俺の――

「ぅ、げほっがは」

「ちょ、ちょっと本当に大丈夫なの!?」

 停止した世界で確信した事実を再確認した結果、その事実に対し体が拒絶反応を起こした。慌てるルナリアに取りあう余裕もなく、胃の中身を全てぶちまける。

 胃酸が喉を焦がす不快感が、嫌でも俺を現実に引き戻した。

 何なんだよあれは。

 何で、あの二人が、あんな姿でこの世界にいるんだよ。

 世界移動をしたのは俺だろ。二人は元の世界に残っているんじゃなかったのか。

 なのに、どうして――!

 何度も己に問い続けるが、答えなど見つかるはずもない。

 その代わりに。

 

「危ねぇ!!」

 遠くからラッドが叫んだ時には、手遅れだった。

 俺とルナリアを、影が覆う。

 反射的に目を向けた先から、ルナリアの攻撃によって吹き飛ばされていた『黒』が右の二肢を振りかぶった状態で迫ってくる。

 全身をレーザーで焼き穿たれていたはずなのに、外骨格には傷一つ見当たらない。見開かれた四つの目は怒りに燃えていて、殺意の矛先はルナリアへと向けられていた。

 速度は音速一歩手前。にもかかわらず地面を踏みしめる音は不自然な程小さく、高速移動特有の慣性や抵抗を感じられない不気味な動き。

 時間拡張、または加速。

 フューリーによって名づけられた俺の使える時間操作の一つと、その動きは一致していた。

 咄嗟に迎撃しようとしたが、振るおうとした右手には何も握られていない。たったさっき落とした正宗は、まだ地面に転がっている。

 奴との距離は三メートルも無い。拾っている間に『黒』はここまで接近してくる。

 そしたら、ルナリアは。

「く、そがぁぁああ!!」

 もはや他の手は考えられず、俺はルナリアと『黒』の間へ身を乗り出した。

 あれに俺を攻撃する意思が無いのなら、攻撃を止めるはずだ。

 もし止まらなくても……二人の手で終われるのなら、俺は――



「無茶はするなと言っただろう?」


 ピシリ、と。

 俺諸共ルナリアを切り裂かんとしていた『黒』の動きが、止まる。

 不自然な体勢のまま痙攣するその姿は、自らの意思で止めたというよりかは、無理やり止めさせられたようで。

 俺が空中に走る、細く鋭い金属光沢を見とめた、次の瞬間。


「セァ――――!!」


 裂帛の気迫を伴った嵐が、『黒』の周囲を吹き荒れた。

 琥珀色の尾を引く風が一つ吹くたびに『黒』の肉体が切断され、一度吹き抜けた風は全く異なる方向から再度標的へと襲い掛かる。一つ一つが音速を超越した斬撃が機関銃のように空気を爆ぜさせながら、執拗なまでに『黒』を切り刻む。

 やがて風が止むと、目の前には血塗れの刀を携えた久道さんが立っていた。

 彼が横合いに血を振り捨て、体の正面で左手の鞘へと納刀したと同時に。

『黒』の全身が、拳大の肉片となって崩落した。


 ≪アクセラレータ―≫による暴力的な加速と、≪ブリンカー≫による連続転移の合わせ技。

 一人の剣士として完成し、長年の経験から次元兵器の性質を熟知してる久道さんだからこそ実現可能な超絶技巧だった。


「二人とも、無事か」

 こちらの身を案じる久道さんの声は、疲労の色が濃かった。

 あれだけの大技を繰り出した直後なのだから無理もないだろう。

「……はい」

「えっ、あれ……えぇ?」

 連続で推移した事態に理解が追い付いていないらしく、いつの間にか座り込んでいたルナリアは目に見えて混乱している。

 俺自身、辛うじて久道さんと瑞葉さんの助けがギリギリ間に合ったことくらいしか理解できていなかった。

「危うい所だったな。少々出遅れた」

『面目ありません。小官がもっと早く情報を伝達していれば……』

「こちらも急な事態に戸惑っていた、あまり気に病むな。……それにしても、これは」

「随分と細かくお刻みになられましたな、久道様」

 俺たちの側まで歩み寄って来た瑞葉さんとミハイルさんが、山のように積みあがった『黒』の残骸を一瞥し、若干引き気味に尋ねた。

 それに対し、久道さんは憮然とした表情で答える。

「一太刀目で急所を斬った手ごたえはあったのだが、妙に殺した気がしなくてな。仮に生きていたとしても反撃不可能な単位に肉体を分割しておいた。お陰で≪ブリンカー≫は冷却するまで使えんが」

「有言実行とは恐れ入った。しかし、これは流石に死んでいるだろう」

 賞賛と呆れがない交ぜになった言葉を送りつつ、瑞葉さんが『黒』の方へ向かおうとする。念のため、本当に死んでいるかどうかを確認するつもりなのだろう。

 彼女の言う通り、どんなに再生力のある変異体でもあのレベルで切り刻まれたら再生が間に合わず死んでいるはずだ。過去の変異体に関して言えば。

 ……でも、あれは普通じゃなかったはずだ。

 あの変異体は、俺と同じ――

「駄目だ」

 ここでようやく、俺は今の若干弛緩した空気が最も危険な状態であることに思い至った。

 もし、俺の予想が正しければ。

 ルナリアの奇襲を受けた『黒』が無傷だったのが、それによるものだとしたら!

「どうした友柄、今何か――」


「そいつに近づくなぁぁぁぁあああああ!!」


 久道さんの声を遮り、俺は叫んでいた。

 ギョッとした顔で振り返る瑞葉さんの、その後ろで。

 積みあがっていた肉片の一部が、ぶわりと浮き上がった。


「なっ!?」

 気配を察知した瑞葉さんがこちらへ飛び退ったのと殆ど同時に、全ての肉片が一斉に動き出す。

 音もなく宙を飛び交う残骸の一つ一つが決まった場所でピタリと止まり、連なるようにして一つの形を作っていく。まるでパズルを分解する動画を逆回しにするように。砂時計の砂が上側へと戻っていくように。

 

 全てのパーツが繋がるまでにかかった時間は、僅か三秒。

 切り刻まれる前と全く同じ体勢で復活した『黒』はごく自然な流れで、放ち損ねていた一撃を久道さんへ叩き込んだ。


「ぬぅ!?」

 超人的な反応を示した久道さんが、居合抜きの要領で二枚の剣をまとめて迎え撃った。

 三つの刃が打ち合い、けたたましい金属音と衝撃が周囲へ撒き散らされる。変異体の怪力によって振るわれた剣の重さは≪アブゾーバー≫の許容量を超え、完全に受けへ回った彼の体が僅かに沈んだ。

「何だこいつは……≪ディバイダー≫が機能していないのか!?」

 俺と久道さんの持つ刀に共通して搭載された≪ディバイダー≫。

 対象へ切り込んだ際にパッシブに働き、刃面に働く圧力を極大化することで万物を両断するはずの機構が『黒』の剣に通じていない。

「ならばもう一度動きを――何!?」

 敵の背後へ回った瑞葉さんの手先から銀色の閃光が瞬く。

 『黒』の倍以上ある巨躯をも縛り付け、一時は『黒』すら止めて見せた強靭なワイヤーは、しかし奴へ到達する前に振るわれた左の刃によって切り裂かれた。

 次元兵器が悉く無効化されている。

 通じていたはずの攻撃が、一つも通じなくなっている。

「こんなの、嘘でしょ……!?」

 ルナリアは≪サイレントルーラー≫を構えるが、攻撃へ移れずにいた。

 これより前に全力で放った攻撃が全く通用していなかった事実が、彼女に引き金を引くことを躊躇わせているのだろうか。

 脱出に最も適した≪ブリンカー≫は熱を持っているため使えない。

 絶望的な現実を強調するかのように、久道さんの体が更に地面へ押し込まれ――

「――グッドマンッ!」

 死へと向かう鍔迫り合いの中、久道さんの血を吐くような叫びが響いた。


「俺ごとやれ!!」


「……畏まりました」

 聞き届けたミハイルさんはただ一言発し、鋭く『黒』を睨み付け。

 音を生じない所作で、右手を『黒』へ向ける。

 それを見た瑞葉さんとラッドが、瞬時に色めき立った。

「二人とも離れろ!」

「呆けてる場合じゃねえぞお前ら!」

「うぉあ!?」

「きゃあ!?」

 瑞葉さんが全力でその場から飛び退き、俺とルナリアは遠方から≪グラビディボード≫で急行してきたラッドに腕を掴まれて一気に後退させられた。

 肩が脱臼しかける痛みに耐えながら、俺はそれを目撃する。


加重プラス


 ズンッ、と。

 腹の底に響くような地鳴りと共に。

 久道さんと『黒』を中心とした円形の範囲が、一〇センチ近く沈み込んだ。

「――――ッ!!」

 歯ぎしりの音がここまで聞こえてくるようだった。

 ミハイルさんの手先付近を境とした円内の重力が増加しているのだろうか。乾燥した硬い地面があれほど沈む重力など、≪アブゾーバー≫があっても耐えられるとは思えない。

 現に真上から巨大なハンマーで殴られたかのように久道さんの全身が震え、遂に膝を着いてしまう。


 だが、巻き込まれた『黒』も無事では済まなかった。

 もし口があったとしたら、苦鳴を上げていただろう。

 身体の大きい『黒』は久道さん以上の影響を受けているようで、彼と鍔迫り合いの状態に陥ったまま全身を大きくひしゃげさせていた。歪んだ先から元に戻ろうとしているが、修復で手一杯なのか身動きは殆ど取れていない。

「――るぁぁああああっ!!」

 攻勢が緩んだ僅かな隙を突き、久道さんは危機から脱した。

 上から押し付けられていた剣を横へ滑らすように地面へ導き、≪アクセラレータ―≫の最大加速で円の範囲から脱出。

 目だった外傷は無くても、俺たちのいる場所まで下がってきた久道さんは既に満身創痍だった。

「大丈夫ですか!?」

「かなり堪えたが、問題は、ない」

 青い顔をしているが意識はしっかりしているようで、ルナリアへの受け答えに遅れはなかった。

「久道さん、あれは?」

「……グッドマンの≪マスハンドラー≫だ。対象の質量情報を操作し自重で潰す使い方が主だが、今回は周囲の大気へ適用したようだな。直接の干渉は防がれる可能性があった以上、正しい判断だった」

 今もなお『黒』は効果範囲から逃れようともがいているが、それは叶わないでいる。

 死ぬ気配こそないが、動きを止めるという点においては最適解だったようだ。

「もっとも、いつまでもああして止められる保証もない」

 そう言う久道さんの表情は、どこまでも苦々し気だ。

 ミハイルさんの≪マスハンドラー≫が次元兵器である以上、長く使い過ぎれば久道さんの≪ブリンカー≫同様排熱が間に合わなくなる。

 再び解き放たれるまでに、俺たちは奴を倒す手立てを見つけられるのか。


 ――そもそも。

 俺は、あの変異体と……あの二人と戦うことが出来るのか?

「本当に遅ればせながら到着しました! で、どんな状況ですか!?」

 予定の一分をだいぶ超過して、フィーダが現場に到着した。

 時間停止が解除された直後の無線を最後にオープンチャンネルでの情報共有が出来ていなかったので、移動中だった彼女は全く状況を理解できていないらしい。

 にしても緊張感が無さすぎるフィーダへ周囲からの視線が刺さった。

「あ、あれー? もしかしなくても凄く大変なことになってたりします?」

「大変なんてものじゃないわよ……あのね」

 言いたいことは多々あるようなルナリアだったが、まずは情報共有を優先しようと口を開こうとし、


『その必要はない。私から全体へ説明しようじゃないか』


 無線で割り込んできたその声に、空気が固まった。

 その人物は全ての作戦において戦況を俯瞰しているが、作戦中にこちらへ干渉してくることは殆どないらしい。

 故に、フューリーが戦闘中に口出しをしてくるというこの状況に対し、誰もが身をこわばらせた。

『ミハイル君はそのままで結構。今の所、それの動きを止めるには≪マスハンドラー≫が最適なようだからね』

 一方のフューリーはいつもと変わらず、この場においては不釣り合いな程の余裕を見せていた。

 一連の戦闘を全て見た上でこの態度を取っていたとすれば、もはや勝算に値する強心臓っぷりだろう。

 もしくは、

「何か、手立ては見つかったのか?」

 俺の気持ちを代弁するように、久道さんが問いかける。

 このタイミングで彼女から無線が来るということは、よほど特別な理由があったはずだ。転移者である俺がフューリーの元へ運ばれたのも、彼女による指示だったという。

 だとすると、今回の事態もそれに類するイレギュラーと捉えるべきか。

『絶賛模索中さ。奴さんが次々にとんでもないことをしてくれたおかげで、解析データを何度も見直す羽目になって遅れ気味だがね』

「……薄々感づいてはいたが、やはりそうなのか?」

 自分の推測を未だに認めがたいのか、尋ねる久道さんはどこか否定されることを望んでいるようにも見えた。

 ただし、フューリーの解答はあっさりとしたもので。

『ああ。あの変異体は間違いなく時間を操っている』

 それが既に一部実現したものであると知らない者たちへ、多大な衝撃を与えたようだった。

「じ、時間操作!?」

「いやいやいや、それは流石にヤバすぎんだろ」

『事実であれば先からの不可解な現象に解を得られるが、しかし……』

「えーっと、何かの間違いじゃないですか?」

 四者四様のリアクションを見せるルナリアたち。その殆どは当然と言うべきか、懐疑的なものだ。

 対して久道さんら、俺の時間操作能力について知る大人たちは驚きこそすれ、実際に対峙した時の様子からフューリーの言葉が事実であると認めているようだった。

「では、奴の妙な再生や、私たちの攻撃が通用しなかったのも?」

『どちらも時間遡行によるものだろうね。前者は自身を損壊前の状態まで戻し、後者は次元兵器を起動前のニュートラルな状態へ戻したんだ。次元エネルギーの計測を行ったが間違いない』

「グッドマンの≪マスハンドラー≫は何故効いている」

『直接触れている必要があるんだろう。重くなった空気を戻すことは出来ても、大元の次元兵器を無効化できていないから結果として拮抗状態にある。時間制限付きのね』

 フューリーの判断材料には、恐らく俺と行った実験のデータも含まれている。実際、時間操作が適応可能なのは俺自身か、俺が触れている物体に限定されていた。

『黒』の時間操作が俺と同質のものであるならば、根拠としては充分だろう。

 それは、もはや逃れようのない事実を俺へ突きつけているに等しかった。

「フューリー」

『どうしたんだい晴近君。いつもとは雰囲気が異なるようだが』

「聞きたいことがあるんだ」

『……左手の≪マスハンドラー≫も合わせれば、まだしばらく持ちそうだね。時間内であれば、出来る限り答えて見せようじゃないか』

 普段なら最低限の礼儀として室長と呼んでいた。それがないことに向こうも気づいたのかは知らないが、確かに普段とは違っているだろう。

 問いたださなければならない。

 この世界に来てから突きつけられてきたどんな現実よりも、現状は悪夢じみている。

 いや、悪夢ならばどれだけ良かっただろう。

 少なくとも、夢ならいつかは覚めるのだから。

「変異体ってさ、どこから来てるんだ?」

『世界のどこからでもさ。時には街中、時には山の中。海上に出現してそのまま溺れ死んだ例もあるね。何しろ奴らは水中を泳ぐには体積に対して体重が大きい――』

「そういうことじゃない!! 俺が聞きたいのは、そういうことじゃ……!」

 自分でも思った以上に大きい声が出てしまった。

 側に居たルナリアたちを驚かせてしまったが、彼女たちに気を配る余裕なんて既にない。

 今俺の意識を支配しているのは、己の推測が万一に間違っていることを証明するべくフューリーへ解を求めることのみ。

 既に答えは出ているようなものでも、専門家なら違う目線で切り込んでくれるかもしれない。

 どうか、否定してほしい。

 大きな間違いだと言ってくれれば、俺は迷わずに武器を取れる。

『それについて説明する場合、どうしても君に関する秘匿情報を明かすことになるが?』

「ルナリアたちにもう隠し事はしたくない。対外的なことに関しても、どうせあんたならどうとでもなるだろ」

『簡単に言ってくれるよ全く……まあいいさ。遅かれ早かれ、君は仲間になら秘密を打ち明けると思っていたしね』

 渋々ながらといった感じで、フューリーは承諾した。

 話に全く追いつけていないメンバーが困惑している中、彼らへ特に構うことなくフューリーは説明を始める。

『前に、世界移動を経てこの世界に現出した存在の大半は無事では済まないという話をしたのは覚えているかな?』

「あぁ、覚えている」

『なら話は早い。実際に何が起こるのかと言うと、増大化した次元エネルギーを許容できなくなった存在情報が深刻な欠損を起こし、正常な形を保てなくなる。私はこの現象を存在崩壊――オーバーフローと名付けた』

「存在、崩壊」

 一度口に出して、新たな情報をインプットする。

 聞くだにろくでもない単語だ。

 だが、それが発生したことによりどうなってしまうのか。

『では、存在情報が著しく欠損するとどうなるか』

 尋ねるより前に、フューリーは先を続けた。

『まずそのままでは再び三次元世界に出現できなくなる。だが高い場所にあるもは低い所へ落ちていくのが自然の摂理だ。三次元という地面に辿り着くために、欠損した情報を補完しなければならない』

「……どうやって」

『欠けた存在同士が互いを補い合うのさ。混ざると言った方がわかりやすいかな? かつてライト教授らが世界移動をして来た際の被害者は皆、二・三人分の人体が融合したような状態だった』

 存在が混ざる。

 融合した生体。

 思うままにパーツを継ぎ足したような、奇怪な生物。

 繋がる。

 繋がってしまう。

『逆にいうと、欠損が極小であれば補完を受けずに出現が可能だ。これがいわゆる転移者という存在だよ』

「変異体もそうなのか?」

『……』

「あの『黒』も、世界移動に巻き込まれて欠けた存在が、互いを補いあって出来た生き物なのか?」

 黙り込んだフューリーは。

 直前とは打って変わって、驚くほどに感情の失せた声で。

『だとすれば、何だと言うのだね?』


 ――だから何だ?

 こいつは、何を言っている。

 わかった上で、しらばっくれているのか。

「俺がこの世界に来たのは、都市に変異体が現れたのと殆ど同時だ」

『奇妙な偶然があったものだ』

 偶然であるはずがない。

 都市の中に突然世界移動してきた俺と、都市の中に突然現れた変異体に実際どれだけの違いがある。

「初めて変異体と遭遇した時、奴は俺を無視していった。変異体は人間を無差別に襲うんじゃないのか」

『気まぐれな個体もいるものだな』

 気まぐれであるはずがない。

 奴は俺に遭遇するより前に、別の場所で多くの市民を殺害していた。次に会った際に襲い掛かってきたのは、俺がシアを抱えていたからだ。『黒』に殺された変異体だって、反対側へ移動した瑞葉さんを追っていたに違いない。

「俺と同じ能力を持つあの変異体は、俺の……俺の、良く知る人間と、同じ目をしていたんだが、これも偶然で片づけるのか」

『……それは』

 フューリーは。


『他人の空似ではないのかい?』

 最も言ってはいけないことを、言った。


 他人の空似、か。

 ははは、そうだったら良かったな。

 嗚呼、本当に。

 どこまでもふざけてやがる。

「……る訳ないだろうが」

『何だって? 声が小さすぎて聞こえな――』


「自分の親の目を見間違える訳が、ないだろうがぁ!!」


 抑圧されていた感情が爆発する。

 全力で握りしめた拳から血がにじむのすら厭わず、俺は地面を殴りつける。

 何度も、何度も。

「どうして父さんと母さんがこの世界にいるんだよ。世界移動に巻き込まれたのは俺だけじゃなかったのかよ!」

 手の皮が剥がれ、乾いた地面に血の跡が残されていく。

 今この瞬間、流れている血の一滴に至るまで自分と言う存在がおぞましい。

「つーか転移者って何なんだ? 変異体が生まれる原因も世界移動なら、俺と変異体に何の違いがあるんだよ!? 現にあいつら、俺を仲間だと思ってんのか襲い掛かってすら来やしなかった!」

 俺が変異体に対して恐怖を抱かなかったのはある意味自然なことなのだろう。

 起源が同じ仲間を恐れる必要なんてないのだから。

 本能レベルで、自分にとって危険ではないと知っていたのだから。

「両親は変異体になって、変異体が持っている能力を俺も持っていて……なぁ教えてくれよフューリー。俺って何なんだよ? どうして俺だけ人の姿をしてるんだよ!? 何で、俺が――」


「俺たちが、こんな目に遭わなきゃならないんだよ……!!」


 気付かない間に、叩きつけ過ぎた拳から骨が露出しかけていた。

 アドレナリンのせいか、そもそも痛みを感じるなんて人間らしい機能すら失ったのか。

 考えてみれば、こんなにも悲しいのに涙は一滴も出なかった。シアの見舞いに行った時と同じだ。

 あの時から化け物としての片鱗は見え隠れしていた。

 転移者は世界移動で補完を受けなかった存在とフューリーは言っていたが、それって人間として必要な何かが欠けたままこの世界に来たってことだよな?

 そりゃ人間性に欠けた冷静さも思考も出てくる訳だよ。人間未満なんだから!

 最高だ。最高にくそったれだ。

 いっそのこと、この理不尽な現実ごと砕けて消え去ってしまえばいい。

 俺も父さんも母さんも……変異体は、この世界にとって異物なのだから。

 俺は再び握った手を地面に叩きつけようとして――

「もう止めて!!」

 失敗に終わった。

 腕を振り上げようとした時点で、一番近くにいたルナリアによって抱き留められていた。一体どのような顔をしているのか、確認するのが恐ろしい。

 無言で振りほどこうとしたがびくともしなかった。

 俺はここまで非力だっただろうか。

 それとも、もうそんな気力すら残っていないのか。

「離してくれ」

「駄目よ」

「どうして?」

「春近が傷つくのを見たくないの」

 ルナリアの声は僅かに濡れているようだった。

 何故、彼女が泣く必要がある。

 滑稽じゃないのか?

 化け物が化け物を倒そうと息巻いていたんだぞ。

「こんな傷すぐに治せる。俺はそういう存在なんだよ」

 実際にやって見せた方が早い。

 そう思い、俺はルナリアが見ているだろう目の前で時間遡行を使った。

 実験で自分に付けた軽い切り傷を治したこともある。一度発動してしまえば、設定した段階まで自動的に損傷が巻き戻っていくのだ。

 拳の皮が破れた程度なら、一秒足らずでこの通り。

「ほら、とんだ化け物だろ?」

 これで気味悪がって離れてくれれば互いにとって一番良い。

 これ以上、人間のフリをして彼女たちに迷惑をかけるのは耐えられない。


 ――なのに。

 どうして、より強く抱きしめてくるんだよ。

「違う。春近は、人間よ」

 耳元で囁かれる言葉は、どこまでも優しさに満ちていた。

「……何の根拠があって、そんな」

 信じられない。

 信じたくない。

 もう嫌なんだよ。

 何かに期待して、全部裏切られるのは。

「私には、春近と室長の会話の半分も理解できていないと思う。でも何となく、春近が今とても苦しんでいるのはわかってる」

「そりゃ、苦しいさ。この世界に来てからやってきたことも成してきたことも、全部茶番だったんだからな」

 この世界で精一杯幸せに生きてみようと決心して、新しく出来た友達や仲間と日々を過ごして。足を引っ張らないようにと久道さんに師事して修行して、少しでも早く上達するために自主練までした。過去の戦闘データに関する資料だって沢山漁った。ルナリアたちに普段の戦闘で使っている戦術について聞いたりもした。

「生きている意味を得たいという一心で、これまでの人生で一番勤勉にやってきた結果が目の前のこれだ。俺は、元の世界にいた両親や知人や、見知らぬ誰かをぶっ殺すために生きてきたって言うのか?」

「……違う」

「違わないさ。現に、俺は――」


「違うって言ってるでしょうが!!」


 鼓膜を破らんばかりの大音声に、俺は反射的にルナリアへ向き直っていた。

 彼女は泣きながら叫んでいた。

 至近にある二つの瞳から、ボロボロと涙が零れ落ちている。

 その表情には身を引き裂かれたかのような苦しみを湛えていて。

 まるで、俺の心を鏡で映しているかのようだった。

「あなた、本当に馬鹿なんじゃないの?」

「え」

 突然の罵倒だった。

「男のくせに女の子の前でウジウジして、ラッドとはアホみたいな話題で盛り上がって、フィーダと話すときはチラチラ胸ばっかり見て近くに私やノインがいる時は無遠慮に見比べたりもして!」

「ちょ、ちょっと待って」

 心が痛い。

 周りから刺さる視線が痛い。

「まぁ、何っつーか。ドンマイ」

 ラッドがいたたまれない感じの目で見てくる。

「ハルさんは、そんな目でわたしを見てたんですね……」

 フィーダがジトッとした目で見てくる。

「若いな」

「お嬢様。あなた様もお若いのに、またそのようなことを」

「……お前たち、今がどんな状況か忘れてないだろうな?」

 大人たちが何やら懐かしむような、呆れたような目で見てくる。

『……』

 遠くから、無言の殺意めいた何かを感じる。

 おかしい。

 誠に勝手ながら、俺は慰められているんじゃなかったのか。

 あれ?

 前にも、同じことがあったような。

「見なさいよみんながあなたを見る目を! これが変異体と同じ、化け物を見る目に見えるの!?」

「い、いや……」

 どこからどう見ても、仕方のない馬鹿を見る目だ。

 おぞましい何かへ向ける視線というには、到底及ばない。

 そう呼ぶには、暖かすぎる。

「当たり前よ。だってあなたは普通に、人間らしく生きていたじゃない!」

「っ!」

「私は春近が楽しい時は笑って、辛い時には寂しそうにして……少しでも私たちに追いつこうと誰よりも必死に努力して、全力で生きようとしていたのを知ってる。いいえ、私だけじゃない。ここにいる全員が知ってる!」

 畳みかけてくる。

 ルナリアの言ったことを、誰も否定する気配はない。

「お、俺は――」

 ここにいていいのだろうか。

 人間を名乗って、いいのだろうか。

 疑問が声に出るよりも前に、解は得られた。


「誰にも春近を化け物なんて言わせない。誰よりも孤独で、誰よりも苦悩して、それでも前に進もうとしたあなたを、例えあなた自身にも否定させはしない!」


 力強く語るルナリアの目は、どこまでも真摯な感情を俺へと向けていた。

 発っせられる言葉は、心にぽっかりと開いた隙間を埋めていくようだった。

 触れ合った部分から伝わってくる熱が、凍り固まった俺の主張を溶かしていくようだった。

『……先ほど君は、自分が何者なのかと聞いたな』

「フューリー?」

『君に起きた変化は他の変異体に比べれば僅かなものだが、同時に不可逆なものでもある。例えどんなに時間を戻したとしてもね』

「……そうか」

 彼女による解答は暗に、俺の両親を元の姿に戻すことは不可能であると告げているに等しかった。

 薄々わかっていたことだが、やはりショックは大きい。

『で、だ。ここからは私の私見なのだが』

 やけに私見という部分を強調するように、フューリーは前置いて。

『確かに君は変わった……だが、それは悪いことばかりではないだろう?』

「は?」

『シア君を助けられたのも、瑞葉君や秀一君への注意喚起が間に合ったのも、ひとえに君が如何なる精神状態に置いても一部冷静な思考を残せていたからだ』

 言われてみれば、そういうことになるのか。

 むせ返るような死体の山に囲まれた中、ほんの小さな呼吸音からシアへ辿り着けたのも。

 衝撃的な再開の直後で憔悴していた中、ふと『黒』の異常性に気づき注意を促せたのも。

 元の世界の俺なら、到底不可能な芸当だ。

『加えて、君が得た時間操作だ。我が祖父が生涯をかけても成しえず、私ですら手立てがなかった四次元の最大情報への干渉! これは革命だよ。君の能力を解析して技術的に再現できるようになれば人類は更なる発展に至るだろう! 私にとって、いや全世界の科学者にとって春近君は素晴らしい存在なのは間違いない!』

「つまり、何が言いたいんだ?」

『まあ、大したことではないんだが』

 妙なスイッチが入りかけていたフューリーはふと、彼女に似合わずどこかぶっきらぼうな言い方で。


『君が何者であるかなんて、所詮は主観の問題でしかないということだ。つまらない違いに拘らず、なりたい自分になりたまえよ』

「――っ」

 ……これはあれか?

 もしかして、あの人なりに励まそうとしているのか?

 だとしたら。

「フューリー室長」

『何だね?』

 改まって、今度はしっかりと普段通りに呼んでから。

「励ますの、下手くそかよ」

『…………さて、何のことやら』

 たっぷり数秒黙り込んでから、白々しく嘯くフューリー。

 やっぱり、酷く不器用な人なんだと思う。

 今らならさっきのやたら神経を逆なでするような話しぶりにも納得がいった。

 嘘をつくのも励ますのも下手くそだから、しらを切って憎まれ役を買って出るようなことしか出来なかったのかもしれない。

 本当に、不器用な人だ。

 嗚呼、畜生。

 いっそのこと、全部嫌いになって拒絶できれば楽になれたかもしれないのに。

 どうして俺の周りにはいい人しかいないんだよ。

 悩みとしては、贅沢過ぎだ。

 ……なりたいようになればいい。

 人間なのか、化け物なのか。そんなことで悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなるアドバイスだった。

 俺は――友柄春近は、どうしたいのか。

「ルナリア」

「な、何?」

 唐突に名前を呼ばれたルナリアが、赤くなった目を見開く。

 今更ながら、俺は抱き着かれてるんだった。首を少し傾ければ、額が触れ合う距離にルナリアの顔がある。目の端に残った涙の雫が光を反射し、宝石のように輝いている。

 純粋に、綺麗だと思った。

 鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしている彼女へ、俺は。


「俺は、君のことが好きだ」


「……え?」

「あと、いつまでも抱き着かれてると恥ずかしい」

「――な、なななななぁ!?」

 噴火したように顔を紅潮させたルナリアが、言葉にならない悲鳴を上げながら後ずさる。今までになかった反応だ。

 その様子があまりにもおかしくて、つい笑みが零れた。

「ルナリアだけじゃない」

 みんなの顔を、順々に見ていきながら。

「ラッドもノインもフィーダも、久道さんや瑞葉さん、ミハイルさんのことも……俺は、みんなのことが好きだ」

『おいおい、私をのけ者にするのは止めたまえ』

「フューリー室長のことも、まあ嫌いじゃないよ」

『むむ、何だろうなこの扱いの差は』

「普段の行いのせいだろう」

 本気で疑問に思っているような素振りのフューリーへ、久道さんから冷静なツッコミが入った。

 これを機に、彼女には常から他人への気遣いというものを意識した言動を心がけていってもらいたい。そうすれば久道さんの心労も多少は減るだろう。

「まだ、質問する時間はあるか?」

『ミハイル君は……もう左手か。あとどれくらい持ちこたえられそうかな?』

「今のペースでは、五分前後が限界でしょう」

『なら、なるべく手短に応えようか』

 時間がないならないで、特に問題はなかった。

 俺が今、フューリーに聞きたいことは二つだけ。

 一つは、

「俺と俺の両親が世界移動に巻き込まれたのは、本当に偶然なのか?」

『……現在明らかになっているのは、変異体は平行世界から渡って来た存在であるということだけだ』

 曰く、同時に出現した変異体の一部に共通して、この世界で発見されていないバクテリアを体内で飼っていたことからそう推測されているらしい。

 実際に確かめようにも、変異体として出現した生命体には知性も自我もなかったため仮定の域を出ていなかった。

 俺が現れるまでは。

『君が世界移動をする直前に見たという亀裂は、ライト教授の事例とは一致しない現象だった。これも所詮は推測に過ぎないのだが、晴近君を襲った現象は世界移動を無差別に、より広い範囲で引き起こすものだったのかもしれない』

「具体的な範囲はわからないよな」

『一地域に留まるのか、世界規模での災厄か……今の段階において、検証する術はないと言える』

「無理も、ないか」

 結局の所、他に例がないからわからないという結論だった。

 もしかしたら、こっちの世界へ両親以外の知人や友人が来ていて、同じように変わり果てた姿で現れるかもしれない。

 可能性がゼロでない以上、覚悟は決めておくべきだろう。

 この後、俺がしなければならないことのためにも。

「二人は……あの変異体は、時間を止める能力を持っている」

『そのようだね。瑞葉君たちの方にいたその個体が消えたのと全く同時に、君の方にいた変異体がバラされていた光景には不覚にも驚いてしまった』

 やはり、止まった時間を認識できない人間からすればそのように見えていたのだろう。改めて驚異的な能力だ。『黒』がその気になれば、あの場で瑞葉さんたち三人を殺害することだって可能だった。

 だが、それをせずに俺の方へ向かって来たということは。

『どうにも黒い変異体は君に強い執着を見せている。時間拡張でルナリア君に斬りかかったのも、君を奪われると思ったからだろうな』

「じゃあ、俺が今この場を離れようとしたら」

『時間停止後、君を除いた全員が殺される』

 もはや自明の理であると。

 逃げることは許されないと。

 フューリーは断言する。

『優先順位として、最も上にいるのが春近君。その次が自身の生命維持と見た。君が比較的近くにいる今は≪マスハンドラー≫への対応に専念しているが、大きく距離を放そうとすれば即座に時を止めるだろうね』

 ここまでは、俺自身でも確信していたことだ。

 俺が彼女に聞きたい、もう一つは。

「……もし時間を止めたとして、その時点での損傷はどうなる?」

『すぐに元通りだよ。図らずもシア君で実証済みだが、時間遡行による再生は絶対――』

 言いかけて、フューリーは無線の向こうで固まったようだった。


 疑問には思っていたのだ。

 どうして『黒』はルナリアの攻撃を受けた直後、さっさと時間を止めてしまわなかったのか。

 時間遡行で即死級のダメージすら完治できるなら、まずこちらの動きを止めてしまえばいい。それから回復するなり、邪魔者を解体するなり自由にすればいい。

 なのに、どうしてそれをしない。

 二人は俺を友柄春近として認識しているのだろうが、変異体である以上最終的な行動は本能によるものなのだろう。力の出し惜しみなんて器用な真似は出来るはずがない。


 もし、あの奇襲によって受けたダメージが致命的なものであったとしたら。

 生存を優先した結果、時間停止を行えなかったのだとしたら――

「時間停止を使っている間は、時間遡行が使えないんじゃないのか?」


『……充分にあり得る。単純に能力のリソースを割けないだけかもしれないが、そもそも固定された時間流の中で新たに時間の流れを生み出すこと自体が不可能なのかもしれん』

 つまり、時間を止めている間奴は再生能力を使えない。フューリーの推測が正しければ、他の時間操作に由来する力すらも封じられる。

 止まった時間の中に限定して、『黒』はただの変異体に成り下がるのだ。

 己のみが行動を許された世界でのみ、唯一の無防備を晒す。

 こんなの反則じみている。弱点なんて、あって無いようなものだった。

 ――本来ならば。

「なら、あれを倒すには」


『時間停止中に殺すしかない。そしてそれが可能なのは、同じ時間操作能力を持つ春近君だけだ』


「……やっぱり、そうなっちゃうんだな」

 時間停止中に生まれる弱点を突き、討伐する。

 普通に考えて不可能であるように思えるそれを成せるのは。

 同じ能力を持ち、時間停止中に動ける可能性がある俺しかいない。

 

 俺は、落としてから今まで放置しっぱなしだった正宗を拾い上げ、手のひらの中で柄の感触を確かめる。今日手にしたばかりなのに、本当に手に馴染む。フューリーの腕は確かなようだ。

 これなら、こいつに秘められたあの機能にも期待が持てた。

 ……これなら、きっと苦しませることもない。

「仕方、ないよな」

 俺は脚に力を込めて、立ち上がった。

 随分長いこと地面に膝を着いていた気がする。脚一本分地面が遠くなり、空が近づいた。既にだいぶ日が傾き始めていたが、雲一つない空は始まりの朝を思い出させる。

 大きく息を吸って吐き、未だに重圧から抜け出さんとしている『黒』を見据えた。


「ハルチカ!」

 背後からかけられた声に、振り返る。

 そこにはルナリアがいた。ラッドがいた。フィーダがいた。

 三人は、どこか迷っているようだった。

「どうしたんだよ、ラッドまでそんな顔して」

 敢えて気が付いていないふりをして、問いかけてみる。

「お前よぉ……自分が何をしようとしてんのか、ちゃんとわかってんのか?」

「当たり前のことを聞くなよ。変異体を倒すのが、俺たちの仕事だ」

「んなこと聞いてねえよ! あそこにいるのは、お前の親なんじゃねえのかよ!?」

 耐え切れなくなったのか、叫び出すラッド。

「らしいな。最悪なことに」

「だったら何でそんな……いや、悪い。平気な訳、ないよな」

「……気を使わせてごめんな」

 勢いを失った彼に対し、俺はただそれだけしか言えなかった。

 気は進まない。だが、これは俺にしか出来ないことだった。俺がやらなければ、みんなが殺されてしまう。それだけは看過出来ないのだ。

 それがわかっているからこそ、ラッドは引き下がってくれた。

「き、きっと他に良い手がありますよ! わたしは頭良くないから時間稼ぎくらいしか出来ませんけど、フューリーさんやみんなが知恵を絞ればきっと――」

「たぶん、そんな時間もない。今でこそ行動を予測出来てるけど、いつイレギュラーな行動をされるかもわからないんだ」

 もし、本気の本気で『黒』が生命の危機を感じたとして、再生ではなく驚異の排除を優先しようとしたら。

 二人の匙加減次第で、俺たちなんかあっという間もなく全滅する。時間をかける訳にはいかない。

 まだフィーダは納得がいっていないようだったが。

「で、でも!」

『そこまでにするべき。既に決は下された。彼の決断に対し小官らが口出しをする権利はない』

「うぅ……」

 無線から発せられた声は、これ以上食い下がることを許さなかった。

 彼女のどこまでも作戦へ忠実な態度は時に冷徹とすら感じるが、今はその誠実さが身に染みる。

「ありがとう、ノイン」

『ハルチカ』

 これには、少々驚いた。

 いつもはフルネームで呼ぶのに、どういった風の吹きまわしだろうか。

『小官は、貴官の決断に敬意を表する』

「それ、初日にも聞いた気がする」

『これは冗談ではない。本意』

「わかってるよ。ありがとう」

『……ご武運を』

 短く淡々としたやり取りではあったが、彼女らしい激励だった。

 しかしああは言っても、やはりノインもまた割り切れてはいないのだろう。最後の方の声は、僅かに震えていた。


 そして、

「顔が赤いけど、大丈夫か?」

「だ、誰のせいよ誰の!? さっきは紛らわしいこと言ってくれちゃってもぉ!」

 指摘されたルナリアは憤懣やる方ないといったご様子だった。怒り方に全然いつもの勢いがなく、全然恐くない。寧ろ可愛いくらいだ。

 からかうような言い方になってしまったのは否定できない。別に意図してやったのではなく、彼女を見ていたらつい口を突いて出てしまったのだ。直後のラッドたちに向けた言葉は若干誤魔化しにも近かった。

 どうしてかはまだはっきりと言葉にできない。でも結果的に面白いものが見れたから良しとしよう。

「あなたって、ああいうことは言わないタイプだと思ってたのに」

「そりゃ偏見だ。まあ、昔から草食系っぽいとはよく言われてたけどさ」

「何よそれ……はぁ。言いたいことが色々あったはずなのに、全部忘れちゃったわ」

「じゃあ思い出してからでいいよ。全部終われば、いくらでも時間はあるんだからさ」

「……そうね」

 ここで長々と話す必要はないと思う。

 ルナリアと――彼女たちと話す時間は、これから幾らでも作れるんだ。

 今、この局面を乗り切ることさえ出来れば。

 ルナリアの瞳が、いつかのように真っすぐ俺を射抜いている。

 俺もまた、それを真っすぐに見返して。

「戦えるの?」

「戦うしかないだろ。俺にしか、出来ないんだから」

「後悔はしない?」

「たぶん、めっちゃすると思う。今度こそ泣いちゃうかもしれない」

「その時は……笑ってあげるわ。この泣き虫って」

「ひでえなおい」

「さっきのお返しよ。私すっごく恥ずかしかったんだから、これだけで済むとは思わないことね。だから――」

 優しく背中を押すように、彼女は笑って。


「行ってらっしゃい」

「行ってきます」


 ◇


 少し離れた場所では、春近が都市の近い仲間たちから様々な言葉をかけられていた。

 それは叱責であったり、慰留であったり、鼓舞であったり。

 全ては彼らが心から、彼へと送っている言葉だった。

 美しい光景だと、久道は思う。

 この世界に来て彼にもたらされたのが不幸な現実ばかりでは無かったということに、心の底から安堵している。

 久道は初めから知っていた。

 彼だけではない。瑞葉もミハイルも、都市の中心に近い人物であれば全員が知っていた。

 自分たちが討伐し、言い換えれば次元技術の実験台としている変異体という存在は、他の世界からこちらの世界へ引きずり込まれた被害者でもあったのだと。

 この情報が明かされない理由は様々だ。士気に関わる問題でもあるし、国際的に見れば変異体に対する仕打ちへ難色を示す団体も現れるだろう。それを足掛かりに、都市へ敵対行為を起こす国家が現れないとも限らない。

 今でこそ変異体という共通の脅威があって人間同士の争いは鳴りを潜めているが、本質的に人間は争う生き物である。競争によって発展した歴史を持つ以上、避けえない事実だ。

 久道個人の意見を言うならば、やはり知って欲しくなかったというのが本音だった。

 何も知らなければ。ただ敵であるとだけ認識していれば罪悪感に苛まれることもない。剣を振るうのに迷いが少なければ少ないほど、生き残る確率も高くなる。久道は、若者たちの心を傷つけたくなかったし、その命を最大限尊重したかった。


 だが。

 フューリーによって真実を突きつけられた彼らは、久道が思っているよりもずっと強かった。

 一番辛い立場にある春近が、あんなにも穏やかな表情を出来ている。

 それを送り出す彼らが心配こそすれ、最終的には晴れやかな表情をしている。

 彼らを見くびっていたのは、他でもない久道自身であったことを思い知らされた。

 このようなものを見せられたら、否が応でも自分がお節介焼きな大人になってしまったことを自覚せざるを得ない。

 ――全く、年は取りたくないものだな。

 自嘲するように、久道は苦笑して。

『彼は、強いね』

「急にどうした」

 オープンチャンネルではない、久道個人向けの回線で話しかけて来たフューリーに眉をひそめる。

 その声に、いつもの余裕は感じられない。

 久道でなければ耳を疑うほど、彼女は弱り切っていた。

『私は彼に、自分の親を殺せと言ったんだ』

「ああ、そうだな」

 直接命じた訳ではない。

 ただし、フューリーが彼に与えた知識が。導き出した結論が、春近から逃げ場を奪ったという事実は厳然たるものだった。

 誰もが、フューリーらしいやり口だと思ったことだろう。

 普段の彼女を知る者であれば尚更だ。圧倒的な知識量を持つ科学者たるフューリーは、徹底した理詰めをもって自らの意思を通す。その場における最適解を示すことで、反論の余地も他の選択肢も与えない。


 それがフューリー・バレンタインという人物であると誰もが納得していた。

 他ならぬ、彼女自身を除いて。


『子が親を殺すなんて、あってはならないことだ。それでも私は、彼を脅し焚きつけた。必要なことだったからだ』

「……ああ」

 お前がやらなければ全員が死ぬ。

 お前にしか出来ないことだ。

 全ては事実である。

 だが、事実なら何を言ってもいいのか?

 体よく利用しても許されるのか?

 彼の心を踏みにじる権利なんて、誰にあったのだろうか。

『これじゃあ、本当に化け物なのはどっちなのかわかったものではないな』

「それが俺たちの選んだ道だ。大切な仲間を……家族を、守るために」

 フューリーの言葉を否定するつもりはなかった。

 初めて、この世界に変異体が現れた日。

 かつてライトが現れた時に見た、悪夢のような光景よりも更に悪辣な地獄へ叩き落された日。

 ガーディアンという組織が生まれた瞬間から、久道の道は決まっていた。

 例え相手が何者であろうと、その血に染まってでも愛する者を守ると。

 一度は捨てるつもりだった剣を再び握り、そう誓ったのだ。

 だから。

「全てをお前に背負わせるつもりは毛頭ない。事が落ち着いたら、一緒に謝ってやる」

『得意のハラキリでかい?』

「蒸し返すな。だがお前のためなら俺は、腹を切っても構わない」

『…………秀一君は、ズルいよ』

「知っているとも」

 拗ねたように呟く彼女へ、久道は微笑む。

 こうしてフューリーを言い負かすことが出来たのは、果たしていつ以来だろうか。

 良い機会だ。久しぶりに、家族三人で集まって話をするのもいいかもしれない。

 それこそ、腹を割って。


 ◇


「久道さん」

「友柄か」

 誰かと話していたらしい久道さんへ、会話が終わったっぽいタイミングで声をかけた。

 誰とどんな話をしていたのかはわからないが、彼もまたどこか清々しい表情をしていた。

「待たせてすみません」

「いや、こちらも家庭のことで少々立て込んでいた所だった」

「え、久道さんって結婚してたんですか?」

「もう一八年は経つな。忙しくて中々会えないが、娘も一人いるぞ」

「ま、まじっすか……」

 意外というか、初めて知った。

 全然そんな様子を見せてこなかったし、誰もそういう話題を出さないからてっきり独身なのかと思っていた。

 あとでラッドたちにも知っていたか聞いてみよう。

「覚悟は決まったか?」

 激励は充分に受け取ったと見たか、久道さんはただ短く是非を問う。

 俺の答えも、決まっている。

「やれます。あの変異体は……あの二人は、俺の手で楽にしてやりたいんです」

 これは、一つのケジメなのだろう。

 元の世界に本当の意味で別れを告げ、この世界で新たな人生を歩みだすための。

 これは、最初の一歩なんだ。

「……そうか」

 俺の意思を確認した久道さんも、これ以上何かを問うつもりはないらしい。

 閉じた瞳を、次の瞬間には見開き。

「――これより、作戦要項を通達する!」


 誰もが、彼の声に耳を傾けた。

 一つたりとも聞き逃すまいと、意識を集中させた。

 地面が軋み、『黒』が暴れる音すらも遠くへ置き去りに。

 ただ力強い言葉が、無線と肉声の両方で俺たちへと伝わってくる。


 そして、最後の一句まで全員が聞き届け。


解除リリース

 ミハイルさんが自ら、≪マスハンドラー≫を解いた。

 空気が正しい重量へと戻され、大地が泣き止む。

 重力の軛から解き放たれた『黒』が、ベキべキと音を立てながら元の姿へと戻っていく。

 肉体を完治させ、その怒りを表すが如く四つの剣を打ち鳴らしたのを合図に、


「作戦開始!!」

 最後の戦いが、幕を開ける。


 作戦は至極単純。

 端的に言うならば、『黒』が時間を止めた瞬間、俺の正宗に搭載された次元兵器を使って倒す。

 言葉だけで言い表せばこれ以上なく簡単そうだが、現実はそう甘くない。実際にはいくつかの段階を踏む必要があった。

 まずは、第一段階。

「充填開始」

 コマンドの発令と同時に、正宗が反応。刃の表面に刻印された光学回路が俺の≪リンカー≫と同じ淡い青色の輝きを放ち始める。更にBCへインストールされた制御ソフトが連動し、視界へ一本のゲージとカウントが表示された。


『充填完了まで、残り一分』


 いつもなら短いと思える一分は、この戦場において永遠にすら感じる一分だ。

 従来の次元兵器はそもそもチャージする必要なんてない。その時その瞬間に、必要な分の次元エネルギーを消費して機能するのが主だ。

 しかし、フューリーの最新作であるこいつだけは予め必要な量の次元エネルギーをチャージしてやる必要がある。リスクに見合うだけの威力はあるらしいが、如何せん隙が大きすぎる。

 他の近接武器と同様ノーチャージで使用できるのが理想的であり、フューリーも今日という日を迎えるまでに徹夜で試行錯誤したらしいが、こればかりはクリアできなかったようだ。しかも充填中は全てのリソースを正宗が持っていくので、他の補助装備も使えない。

 詰まる所、チャージが終わるまで俺は素っ裸の無防備だ。

 当然、それを『黒』が待ってくれるはずもなく。

「――――ッ!!」

 完全な復活を遂げた変異体は声なき雄叫びを上げるように全身を震わせ、その直後には動き出していた。

 三メートル越えの巨躯から出るとは思えない初速と加速。まるで≪アクセラレーター≫を使用したかのような急発進の種は既に割れており、かと言って容易に対処できるものでもない。

 時間拡張。

 何倍にも引き延ばされた一秒を生きる『黒』が、俺との直線状に立ち塞がる久道さんへなりふり構わず突っ込んでいった。

 素人目に見ても、技術の欠片もない滅茶苦茶な太刀筋の剣であったが。

 それが四本となり、通常の倍速で振るわれたらどうなるか。

 一息の間に百を超える斬撃が、質量を持った嵐となって久道さんへと襲い掛かる。上下左右、三六〇度全方位を埋め尽くす刃に逃げ場はない。

 どれを取っても致命的な連撃が、彼を飲み込み――

「甘い!!」

 弾き返す。

 抜き放った一刀が。返す刃が。翻る鉄鞘が。

 四方八方から迫る死の刃を一つずつ、的確に打ち返す。舞踊のように洗練された所作で嵐の中を躍る彼の肉体は、残像がチラつく程の超スピードで動作していた。


 ≪アクセラレーター≫によって至るもう一つの極致。

 人類を超越した『黒』の世界へ、人類の英知の結晶を携えた久道さんが踏み込む。


 殺陣を繰り広げる両者の周囲で無数の火花が飛び交い、星のように瞬いた。得物の強度は拮抗しているようで、≪ディバイダー≫が働かない以上このままでは千日手か。時間稼ぎとしては申し分ない。

 ……だが、恐らく先に限界を迎えるのは久道さんだ。

 あそこまでの加速による負荷は、いくら訓練を積もうとも耐え切れるものではない。あの状態で戦闘を継続できている久道さんがいよいよ人間を辞めている気がしたけど、さっきの大技の直後に息を切らせていたことから彼の体力にも限りがあるのを知っている。

 もし久道さんが一人で戦っていたとしたら、いずれ敗北していただろう。


『充填完了まで、残り五〇秒』


 無論、最初からそんな心配はしていない。

「私たちの存在を!」

「忘れて貰っちゃ困りますよ!」

 激しい打ち合いの左右に、瑞葉さんとフィーダが陣取った。

 フィーダの両腕には多数の銃身が円形にズラリと並ぶ、大口径のガトリング砲がホールドされている。物々しく黒光りする二門が構えられ、その射程圏に『黒』を収めるや否や獣のような唸りを上げて回転を開始。

 刹那の判断で斬り合いを強引に打ち切った久道さんが後退し、

「全・弾・斉・射!!」

 割れんばかりの咆哮を伴い、鋼の猛獣が牙を剥いた。

 眩しいくらいのマズルフラッシュを後光のように受けて吐き出された無数の弾丸が、横向きの豪雨となって『黒』へ降り注ぐ。

 押し寄せる弾幕に、『黒』は斬りかかった。

 彼らの拡張された時間の中では、音速で飛翔する実弾の一つ一つを目で追うことも出来るだろう。現に、放たれた弾丸は高速で振るわれる剣によって火花を散らしながら切り落とされていく。

 でも、長くは続かない。

 フィーダによって展開されたのは、秒間四ケタにも迫る圧倒的な数の暴力。それら全てが、驚異的な制動によって寸分違わず『黒』の肉体を捉えるコースへと導かれているのだ。

 どんなに速く認識しようが、動けようが。

 たった四本の腕で対処しきれるほど、甘い弾幕ではなかった。

 防ぎ損ねた一発が、『黒』の右肩を抉る。ダメージはすぐに再生するが、僅かに生まれた防御行動の隙間を縫うように次々と後続の弾丸が漆黒の外骨格を食い破り、肉を削り取る。

 そこから先は負の連鎖だ。まともな防御すらままならなくなった『黒』は、文字通りハチの巣にされていった。

「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ぁ!!」

 頭のネジが数本飛んだようなテンションで、果てのない連射を続けるフィーダ。

 あれだけの速度で、あれだけの弾薬を消費しているにもかかわらず、一度もリロードをする気配がない。銃自体は次元兵器ではないようだが、やはり何かしらの細工が施されているのだろうか。

 何にせよ、今この瞬間。

 作戦開始から絶え間なく動いていた『黒』が、初めて動きを止めた。


『充填完了まで、残り三五秒』


 生まれた隙を、彼女は見逃さない。

「瑞葉・ベイカー、推して参る!」

 己を奮い立たせるように、武者のような名乗りを上げながら瑞葉さんが『黒』へ向けて駆け出した。

 彼女自身が一振りの刃になったかの如く、鋭い機動で肉薄。接近を察知した『黒』が辛うじて動かせたらしい左腕の一本を横薙ぎに振るうが、瑞葉さんは地を這うように姿勢を低くしてこれを回避する。

 一気に懐へと潜り込んだ瑞葉さんだが、彼女のワイヤーは『黒』に通じない。他に武器を持っているようには見えないし、一体どうするつもりなのだろうか。

 俺の抱いた疑問は。

「破ァ――ッ!!」

 裂帛の気合と共に放たれた蹴りによって『黒』諸共ブチ砕かれた。

 瑞葉さんの細く引き締まった脚が空気を大砲のように爆ぜさせ、治りかけていた外骨格を粉微塵に粉砕する。真下から垂直に蹴り上げられた巨体は嘘のように浮き上がり、そのまま一〇メートルほどゲインした。

 まさかの物理で殴るだった。いや、蹴ったんだけども。

「……嘘だろ」

「……嘘ですよね」

 奇しくもフィーダと意見が被る中、『黒』の上昇が頂点に達する。

 そのまま地球の引力に引かれて落下するかと思ったのも、束の間。

「ミハイル!」

「はっ!」

 落下地点から素早く離れた瑞葉さんの求めに、ミハイルさんが即応。

 短い返事と共に、敢えて温存しておいた左手――≪マスハンドラー≫を構え、

「加重」

 起動し、質量を増加させられた『黒』の身体が一気に地面へと引き付けられる。

 先程とは違い、直接適用したため効果は即座に無効化され、僅かな間しか発揮されていない。

 ただし、その分かかった荷重は先の足止めよりも強烈で。

 質量増加に伴い副次的に発生した、次元兵器に由来しない爆発的な重力加速を無効化することは出来なかった。

 姿をぶれさせた『黒』が、次の瞬間には地面へ激突する。ただでさえボロボロになっていた肉体は凄まじい衝撃を受け、水風船のように弾け飛んだ。

 流石は主従と言った所か。寸分の狂いもない見事なコンビネーションだ。

 普通の変異体であれば、百回以上は死んでそうな火力の応酬だったのだが。

「まあ、そうはいかないよな」

 放射状に撒き散らされた血や肉片はしかしながら、すぐさまその中心へと集まり、元の姿へと戻らんとしている。

 時間遡行による再生は絶対である。例え何度、今の流れで即死級のダメージを与え続けても、彼らを殺すことは叶わない。

 ここまでは、予定通りだ。


『充填完了まで、残り二〇秒』


「総員、奴から離れろ!」

 久道さんの合図で、今まで攻撃に参加していたメンバーが『黒』から距離を取る。

 作戦の第一段階は、読んで字の如く時間稼ぎだ。

『黒』に再生を余儀なくさせるレベルのダメージを継続して与え続け、時間停止を封じると同時に正宗のチャージを進める。

 残り二〇秒前後になった時点で久道さんたちの役目は終わったため、万一に巻き添えを食わないためにも彼らには安全な場所にいてもらう必要があった。

 今、俺と再生中の『黒』との間には、十数メートル程度開いた距離以外に隔てるものは存在しない。

 ここからが、第二段階だ。

「安全運転でよろしくな、ラッド」

「大船に乗った気でいな。代わりにオレの命はハルチカに預けるぜ」

 軽口を叩き合いながら、俺はラッドの≪グラビティボード≫に乗り込む。一枚の板状になっている車体はそこそこ面積があり、二人くらいならスペースに余裕があった。

 なのに、若干窮屈に感じるのは。

「なぁルナリア、やっぱ狭えんだけど」

「……だったらラッドが降りれば?」

「何でそうなる!?」

 憮然とした表情で、俺の隣にルナリアが乗り込んでいるからだろう。

 作戦上、本来彼女が俺と行動を共にする必要はないのだが、どうしてもと固辞されてこのような配置となった。

 どうしてかと理由を問えば。

「春近がまたつまらない弱音を吐いた時に突き落とすためよ」

 などと、ツンとした態度で恐ろしいことを言われてしまった。

 相当ご立腹な様子だ。やはり誤魔化したのが不味かったのだろうか。

 全部終わったら、俺はルナリアのご機嫌取りに奔走することとなるだろう。

 それはそれで、まあ悪くない未来だ。


『充填完了まで、残り一〇秒』


 カウント一〇秒前。

 驚異的なスピードで元の姿を取り戻しつつあった『黒』が、完全には治り切っていない体で俺の方へと駆け出そうとし、


『――――捉えた』

 両膝が、突如として撃ち砕かれた。


 つんのめるように転倒する『黒』。その後方の地面には、拳大程の深い穴が並んで穿たれている。全ては一瞬の内に、徹頭徹尾無音を貫いていた。

 都市の外壁にいるノインによる、針の穴を通すような精密射撃。認識可能な範囲外からの長距離狙撃と着弾時にすら音を生じない≪無音弾サイレンサー≫が合わさることで、時間拡張で反応・回避することすら許さない必中の足止めとなった。

 これが再生し切るまでの僅かな時間が、勝負を決める。


『充填完了まで、残り五秒』


「行くぜ――発進!!」

 ラッドの合図で三人を乗せた≪グラビティボード≫が浮上し、発進した。

 反重力による移動は摩擦とは無縁で、氷の上を滑っているかのように急加速する。三人を乗せているとは思えないほど、大きさに反して力強い走行だ。

 特に難しい軌道は描かず、ただひたすら真っすぐに『黒』との距離を離していく。単純な操舵に見えるが、反重力飛行のマニュアル操作はセンスによるものが大きいらしい。ラッドは都市全体でトップクラスの才能を誇るだけあり、機体に揺れ一つなかった。

 正宗のチャージは殆ど終わっていた。これなら間に合うだろう。

 第二段階は、俺が『黒』から離れること。

 傷が治り、その時点で俺との距離が遠ければ。あれは必ず、時間を止めて追いつこうとしてくるはずだ。

 俺に迫っていた変異体を殺した時と同じように、止まった世界で確実にラッドやルナリアたちを殺すために。

 それこそが、俺たちの狙いであることも知らず。


『充填完了。待機シークエンスへ移行します』


 ――来た!

 表示された文字列に、胸が湧きたつのを覚えた瞬間。


 ガコン、と。

 聞こえないはずの音が。

 どこかで歯車が一つ外れるような音が、耳を打ったような気がして。

 世界は再び、静止した。


 音が消える。

 風が消える。

 全ての動きが、止まる。

 ≪グラビティボード≫が巻き上げた砂埃が雲のように固まり。風に靡くルナリアの髪が不自然な位置で停止し。ただ前だけを見て操縦し続けていたラッドも彫像のように動かなくなっていた。

 先の遭遇で時間停止が解除された時とはまるで逆の感覚。

 俺はそれらの事象を、ハッキリと認識出来ていた。

 意識は……正常だ。指先にも、感覚がある。試しに正宗の柄を握りなおしてみたが、問題なく手は動いた。

 停止した世界への適応。

 たった一回。それも激しく混乱していた状況であったため本当に成功するかは賭けに近かったが、どうやら俺たちは賭けに勝ったらしい。押し寄せてくる安堵感に、大きく息を吐いた。

 これで最後の条件はクリアした。

 作戦は、最終段階へと移行する。

「……あそこか」

 遠方から徐々にこちらへと近づいてくる『黒』の姿を視認した。

 巨体であるが故に一歩の歩幅が大きく、素の移動速度も下手な乗用車より速そうだ。でも時間拡張を使えばより早くここまで辿り着けるだろうに、それを一向に使う気配がない。やはり時間を止めている間は、他の時間操作を行うことが出来ないのだろう。

 今ならやれる。

『黒』を倒せる。

 二人を――父さんと母さんを、殺せる。

「やれないことは……いや」

 さっきも同じように、自分へ言い聞かせていなかったか。

 その後、どんな結果になったか忘れてやいないか。

 これでは少々縁起が悪い。

 言い聞かせるなら、こうだ。

「必ず、やってみせる」

 一言、自らの決意を表明し。

 チャージ完了に際して使用可能になった≪アクセラレータ―≫を起動した俺は、次第に大きくなっていく『黒』へ向かって、


 一歩目を、踏み出すことが出来なかった。


「あ、れ」

 体が動かない。

 指先から感覚が失せていく。全身の体温が失われていくような錯覚に陥り、意図せずして膝が笑い始める。地平線まで見通せるほど澄んでいた視界が、急激に翳り始める。

 何なんだよこれは。

 一体、何が起こっている!?

 体は動かせた。意識も未だハッキリしている。時間が止まる前と止まった後で、特に変化はなかったはずだ。適応には成功したはずなんだ。

 なのに、このタイミングで俺の言うことを全く効かなくなるってどういうことだよ!?

 最初に動けるようになった時には、こんなことは起こらなかった。精神的なダメージは別として、体は何とも無かった。

 それが今になってどうして――

「……まさ、か」

 思考が荒れ狂う中、俺の脳内で一つの答えが出つつあった。

 第一に、これは時間停止ないし時間操作による副作用ではない。時間への如何なる干渉に対する反動が全て頭痛として現れることは、フューリーとの実験で確認済み。時間停止に関しては未知数だが、適応だけならば何も起こらないことも既に実証された。

 第二に、これは『黒』が隠し持っていた能力ではない。本能に従う変異体に出し惜しみなんて思考回路は存在しない。使える力があったのなら、先の久道さんたちとの死闘を乗り切るのに使っていたはずだ。

 よって、他に原因があるとして。

 それが他ならない、俺自身にあるとするならば。

「おいおい、本格的に笑えねえぞ」

 唯一動く口から、あまりの酷さに乾いた声が零れ出た。

 何のためにここまでお膳立てしたと思っている。

 何のために、みんなが体を張ったと思っていやがる。

 なぁ、友柄春近よ。


「どうして今になって、躊躇してんだお前は……!」


 それは拒絶反応だった。

 普通の家庭で、当たり前のように愛を受けて育った人間であれば誰もが持つもの。

 常識。倫理観。呼び方は数あれど。

 今、俺の体を雁字搦めに縛り付けているのは。

 自分の肉親を手にかけるという行為に対する、感情の離反であった。

 理性は殺せと命じた。

 感情は殺したくないと抗った。

 目には見えない内面の膠着状態が、身体の麻痺となって俺を拘束している。

「ふざ、けんなよ」

 どこまで醜態を晒せば気が済む。

 こうならないために覚悟を決めたんじゃなかったのか。

 俺自身の手で二人を楽にして、別れを告げるんじゃなかったのかよ。

「動け」

 こうしている間にも『黒』は着実に距離を縮めてきている。

 このまま動けなければ、俺をここまで運んで来たラッドやルナリアはどうなる?

 二人は俺を信じて命を託したんだぞ。二人だけじゃない。みんなが俺なら乗り越えられると信じてくれたからこそ、今の状況が出来上がったんだぞ。

「動けって、言ってんだろうが!」

 時間操作に対抗できるのは俺だけだ。俺がもし無事で済まなかったとしたら、次に標的になるのは久道さんたちか、それとも都市か。どちらにせよ、全員なす術もなく殺される。俺に関係ある人もそうでない人も、大勢死ぬ。

 俺が、腑抜けだったせいで。

「動け、動け動け動け、動け動け動け動け!」

 何度言い聞かせても、凍り付いた手足は震えるばかりでびくとも動かない。

 ラッドが全速力で稼いだ距離は既に三分の一も無かった。あと一分と経たず『黒』は俺たちを間合いに収め、最初の犠牲者が出るだろう。

 殺される順番に意味はない。時の流れが戻った瞬間、手にかかった全員が同時に死ぬこととなるのだから。

 何も出来ないまま、接敵まで残り三〇秒を切る。

 あれほど長く感じた一分が、今ではほんの一瞬のようだった。


 本当に、これで終わりなのか?

 信じてくれたみんなを裏切るのか?

 最後の最後で、残されたちっぽけな人間性にしがみ付いて。

 俺は、

「く、そぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおお!!」


 ――ほんと、馬鹿ね。


 ドンッ、と。

 何か温かいものが、俺の背中を強く叩いた。

「ん、なっ――!?」

 想定外の強い衝撃につんのめり、五〇センチほど浮上していた≪グラビティボード≫から堪らず落下する。

 反射的に体が動いたおかげでどうにか足から着地できたが、バランスが悪く数歩ほどたたらを踏んでようやく停止した。

 迫り来る『黒』に対して致命的な隙を作らずに済み、ほっと一息ついて。

 ――あれ?

「体が、動く……いや、それ以前に」

 今、誰かが俺の背中を押したような。

 それに朧気ながら、声のようなものも聞こえた気がする。

 あり得ない。ここは時間が止まった世界なんだぞ。

 でも、確かにあの時俺は。

 信じられないと思いながら、俺は後ろを振り返った。

 そこには。


「……は、ははは!」

 あんなに絶望的な状況だったのに、腹を抱えて笑ってしまうのは何故だろう。

 目の前に移る光景が常識をぶっちぎっているから?

 世界の法則が乱れているからか?

 何だって構わない。

 俺にとって何よりも重要で、大切で、嬉しかったのは。


「時間まで止まってんのに、本気で突き落とす奴があるかよ……!」

 大きく手を前に突き出した状態で停止している、ルナリアの存在に他ならないのだから。


 理屈で説明することは可能だ。

 恐らく、必死に動かそうとして震えていた体の一部が彼女に接触したのだ。時間停止に適応した存在が触れた物体が一時的に呪縛から解き放たれるのも、この目で見た事実である。

 触れ合ったほんの一瞬で全てを理解したルナリアは、約束通り俺を突き落とした。

 有言実行とは、まさにこのことだろう。


 ついでに彼女の凛とした表情は、こう語っていた。

 とっとと行きなさい馬鹿、と。


 ……最後まで、背中を押してくれるんだな。

「最高だよルナリア。君は……最高に、いい女だ」

 俺から離れたことで再び停止したルナリアへ向けて、俺は恥ずかしげもなく告げた。どうせもう聞こえていないのだから、何を言おうが構いやしない。

「フューリーも言ってたじゃないか。所詮、俺が何者かなんて主観の問題だって」

 この世界で出来た仲間を守るために、両親を斬る。

 こんなの人の所業ではない。それこそ、化け物と言われても仕方のない。

 だけど、ここにはそんな俺を受け入れてくれる人たちがいる。

 化け物なんかじゃないと、声の限りに叫んでくれた子がいる。


「俺は選んだんだ」

 みんなとこの世界で生きることを。


「俺は決めたんだ」

 大切な仲間たちと戦うことを。


 だから――!!


「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 声の限り叫んだ。

 最後の迷いを振り切るように、一歩目を踏み出して。

 ただ正面に斬るべき敵を見据え、走り抜ける。

 急激に『黒』との距離が縮まるさ中、俺は正宗の柄に取り付けられたトリガーを人差し指で思い切り引き込んだ。

 瞬間、視界が情報の瀑布で覆われた。

『マスターコマンド受理>エネルギー充填率一〇〇パーセント>起動シークエンス開始>物理ブレード展開>>2Dフィールド形成>>>>フィールド範囲にホロブレードを投影>>完了』


『≪アブソリュートエンド≫――起動』


 変化は劇的だった。

 初めに、正宗の刀身部分が真ん中から左右に割れた。刀身そのものが鍔に沿うように展開され、その断面からにじみ出るように青白い光のラインが伸びていく。星座の如く結びついたラインによって描かれたのは、元の刀身の倍近い幅と長さを誇る仮想刀身だ。

 重みも物理的な破壊力も持たないホログラフに過ぎないそれを右肩へ担ぐように構えて、俺は一気に加速する。

 ≪アクセラレータ―≫がある以上、通常の速度でしか動けない『黒』では俺の動きに追いつけない。

 急接近された『黒』が驚愕に目を見開き、身を強張らせたように見えた。


 懐かしい視線だ。

 二度と見れないと思っていた瞳だ。

 かけがえのない、眼差しだった。

 それでも、俺は――!

 

「だッ、ラァァァァァァァァアアアアア――――!!」

 袈裟に一閃し、返す刀で水平にもう一閃。

 すれ違いざまに二度。

 久道さんに何度も叩き込まれて覚えた、基礎の二連撃。一太刀目で心臓を裂き、二太刀目で首を刎ねる必殺の型が『黒』を捉えた。

 仮想刀身はホログラフであるが故に、外骨格を一切の抵抗もなく通り抜ける。斬った手応えなど感じるはずもなく、ただ空中に刃が横切った軌跡だけが残る。

 交錯し、互いに数メートルほど進んだところで俺たちは同時に静止した。

 全エネルギーを吐き切った正宗が仮想刀身を消滅させ、刀身も元の状態へと回帰する。特に汚れてはいないが師匠譲りの手癖で刀を一振りしたと同時に、『黒』が勢いよくこちらへと振り返り、


 その頭部が、ボトリと地面へと落下した。

 一呼吸遅れて『黒』の左肩から右腰へ掛けて赤い線が滲み、重力によって上半部が斜めにスライドし、落ちる。断面は鏡面のように鮮やかで、刀を振り始めて一週間弱の若輩によるものとは思えない見事な切り口だった。

 ホログラフでは到底引き起こせない現象は、ホログラフによって可視化された範囲に存在した2Dフィールド――限定的に生成された二次元の刃によるもの。

 厚みゼロの刃自体に切断力は存在しない。そもそも、これは切断と言う現象にすら当てはまっていないらしい。

 フューリーの言を借りるのであれば。

 厚みのない二次元であろうと空間としては確かに存在し、三次元物体へ差し込むことで分子間の繋がりは断たれるという。

 難しい理論を抜きにして、俺が理解しているのは。

 正宗に仕込まれた本来の機能――≪アブソリュートエンド≫は、この世に存在している全てを断つ絶対切断であるということだけだ。


 ――カチリ。

 この感覚には、覚えがある。

 時間停止が解除される前触れ。

 止まった時間が再び流れ出す前兆だ。

 これが発生したということは、つまり時間を止めていた『黒』がその状態を維持できなくなったということ。

 即死だったのだろうか。苦しまずに、死ねたのだろうか。

 俺は自らが落とした頭部へと歩み寄ろうとし――


「ぐっ――!?」

 頭痛。

 激しい頭痛。

 頭が内側から割れるような痛みが押し寄せ、目の前が赤く発火する。

「まさか、これは……!」

 明滅する意識の中、思い当たる節が一つあった。

 最初に時間停止が解かれたのは、『黒』自身によるものだった。

 だが、今回の場合は俺が時間を止めた『黒』を殺害したことにより、半ば強制的に解いたと言っていい。

 つまり、時を止めたことによるしわ寄せが全て俺へと降りかか――っ!?

 もはや思考すらままならない熱が脳を支配しつつあった。シアを直した時とは比べ物にならない痛み。きっとこのまま俺は意識を失うのだろう。酷ければ死ぬかもしれない。

 ――それでも、最後に。

 何度も膝を着きそうになりながら、俺は全身を引きずるように前へ進む。

 頭痛のみならず、≪アクセラレータ―≫の使用と極限の集中状態から来る疲労が合わさり、既に心身共に限界を迎えていた。

 今の俺を突き動かしているのは、たった一つの執念だ。

 ――最後に、一つだけ。

 辿り着く。

 足元には人より二回りほど大きい、黒一色の頭部が転がっていた。顔面は仮面を着けているかのようにのっぺりしていて、その表面には頭の大きさに比して分不相応に小さい目が四つ。

 霞む視界で、俺はその目を覗き込み。

「……あぁ――」

 よかった。

 最後の言葉は声にならず、俺はその場に崩れ落ちた。

 もうこれ以上は持たない。激痛に苛まれる中、俺を構成する全てが深い眠りを欲していた。

 目蓋が落ち、世界が闇に閉ざされる。遠くから誰かの声が響いてくるが、何もかもが遠い。だけど、悪い気分ではなかった。

 きっと今の俺は、安らかな表情をしているだろう。

 静かに眠るように閉じられた、二人の瞳のように。

 

 ――さようなら。父さん、母さん。

 体が地面に倒れる感触を最後に、俺は意識を手放した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る