幕間 再会

 ――あれは、よく晴れた日だったのを覚えている。


「じゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃ……ふぁ」

「こら、ちゃんと起きて食べなさい」


 母さんが用意してくれた朝食を食べながら、一足先に仕事へと向かう父さんを欠伸混じりに見送った。


「行ってきまーす」

「行ってらっしゃい。夕飯までには帰ってくるのよ」

「わかってるって。もう子供じゃないんだから」


 その三〇分後に俺も朝食を食べ終えて制服に着替え、軽口を叩きつつ母さんに見送られながら家を出た。


 毎日繰り返してきた、飽きる飽きない以前に当たり前な日々だった。

 特別なことなんて無くても、充分に充実した日々。


 どうして今、思い出すんだろう。

 目の前で起きているのは、そんな穏やかな日常とはかけ離れた物なのに。

 ……それとも、これが走馬燈ってやつなのだろうか。


 俺へと迫ってきていた変異体の体から、音もなくそれは生えていた。

 爪。鎌。或いは――剣。

 生物的でありながら、人工的に鍛え上げたかのような金属の輝きを放つ黒刃が、四本。

 一か所からまとめて生えて来たそれは蕾が開くように外側へと広がっていき、文字通り真っ赤な花が咲き乱れる。

 無造作に四分割され、鮮血と共にばら撒かれる変異体の死骸。

 死肉と血の雨が晴れたその向こう側から、奴は現れた。

 大きさはたった今葬られた変異体と殆ど変わらない。全長三メートル強で、体形も比較的人間に近かった。

 ただし、本来腕が一本ずつ付いているべき肩には二対四本の腕が生えていて。

 その先端には手の代わりに、あの変異体を惨殺するのに使った剣があった。

 全身は艶のない漆黒の外骨格に覆われていて、顔までのっぺりとした覆面のようになっている。口や眼は見当たらない。


 ……暫定的に、こいつを『黒』と呼ぶことにする。

 こいつは何かが異質だ。

 今まで見て来た変異体は一貫性のない、とにかく図鑑で目についた生き物をブレンドしたようなデザインをしていた。

 だが目の前にいるこいつの姿には、無駄を一切排したような統一感がある。凶器を備えた腕に、口のない頭。あたかも、ただ殺すことに特化したような肉体だ。

 まるで、最適な形にデザインされたかのように。

 それにルナリアに勧められて過去の戦闘記録を漁ってみたりもしたが、変異体が変異体を襲う例なんて一つもなかった。奴らは人間しか襲わなかったはず。

 

 ――いや、それ以前に。

 これはいつ、どこから現れた?

 俺はさっきまで、向かってくる変異体から一度も目を離さなかった。例え瞬間移動だろうがあんな目立つ姿をした存在が後ろに現れれば即座に気づいただろうし、常にこちらの様子を遠くから見ているノインから弾丸よりも早く警告が飛んで来たはず。

 なのに。

 あの『黒』がこの場に現れて、あの変異体を後ろから刺す瞬間を俺は認識できなかった。

 まるでフィルムのコマが抜けてシーンが飛んだビデオのように。

 接近し攻撃するという過程を、まとめてすっ飛ばしたかのように。

 過程……時間?

 まさか、こいつは――!?


 驚きの声を上げようとした俺は、それが叶わなかったことに一層驚愕した。

 声が出ない。

 と言うより、先程から一切音が生じていなかった。

 変異体が殺される瞬間も、肉片が地面へと落下した時も、総じて無音である。

 それどころか、体が全く動かない。

 恐怖で身が竦んでいるのではなく、ただ体が彫像のように動きを止めている。どれだけ必死に動けと命令しても、俺の体は真っすぐ『黒』を凝視したまま微動だにしない。

 思い返してみれば、殺された変異体も奴に貫かれてから引き裂かれるまでの間、抵抗する素振りは全くなかった。

 あれも抵抗しなかったのではなく、出来なかったのだとしたら?

 そもそも、自分が殺害されたことにすら気づいていなかったとしたら――!?


 間違いない。

 これは、時間停止だ。

 あの黒い変異体は止まった時の中を動いて、俺に接近していた変異体を殺したのだ。

 ノインが本気で居眠りをしていなければ、この事態に気づかない訳がない。即座に全体へ連絡が飛ぶなりして、本当の意味で瞬間移動を使える久道さん辺りが応援に来てくれるはずだ。

 それが無いということは、今この状況で意識があるのは俺だけと言うことになる。

 思考だけは正常に働くという状態も、初めて……正確には二度目に能力を発動した時と似ていた。

 あの時と違って視線は動かせないし、変異体が殺された時に至っては気付くことすら出来なかったが、これは恐らく認識の問題だ。

 奴が現れた時は完全に認識外で能力を使われたから対応が出来なかったのであって、目視範囲内にいる今はギリギリ意識だけを保持することに成功したのだろう。

 だとしても、今の状況は非常に不味い。

 先出しで能力を使われた上に、元来から備わったものと後付けの差なのか『黒』の時間操作は俺よりも強力だった。フューリーとの実験で一度も時間を止められなかったことからも容易に推測できる。

 奴が干渉した物体はしばらく停止の呪縛から解き放たれるのか、止まった空間の中にあって変異体の死骸は地面へと落下した。

 殺されるまで身動きが取れないのではお話にならない。

 どうすればいい。

 俺は、どうすれば――!


「――――」

『黒』が動き出す。

 何の解決策も浮かばない俺を嘲笑うかの如く、ゆっくりと。

 己が生み出した惨劇の跡を踏みつぶしながら、一歩ずつ。

 たった五メートルの距離は奴の長身にとっては目と鼻の先。

 三歩目で、『黒』の間合いに入った。

 腕を伸ばせば、俺の体など軽々と貫くだろう。時間が止まっている以上、≪アブゾーバー≫でどうこうなる問題でもない。

 シアに行ったような逆行による蘇生は可能かもしれないが、ろくに練習もしていない力をこの土壇場で、即死級のダメージを食らってから使う?

 仮に成功したとして、待っているのはあの時と同等レベルの頭痛。意識を保てないのでは、また殺されるのがオチだ。

 万事休す。

 諦めに近い言葉が、脳裏をよぎる。


 …………?

 ……何だ、こいつ。

 突っ立ったまま、何もしてこないぞ。

 軽く腕を振るえば俺の首を刎ねることだって容易いはずなのに、俺を見下ろすような姿勢のままピクリとも動かない。

 この距離まで近づいて初めてわかったことだが、覆面のような顔はのっぺらぼうという訳ではないようで、目蓋のようなものが存在していた。数は腕と同様に四つ。今は閉じられたままで本当にこちらを見ているのかすら怪しい。

 全てが静止した世界の中で、睨み合いとも言えない状況が続く。

 変化が生じたのは、接敵から二〇秒経過した頃だろうか。


 唐突に、『黒』の閉じられていた四つの瞳がスッと開いた。

 露わになったのは、紛れもない人間の目だった。資料や実物で散々変異体を見て来たが、人間のようなパーツを持つタイプは殆どいない。いたとしても複眼になっていたり、皮膚の材質が変わっていたりとまともな状態ではなかった。

 俺を見つめる四つの目は、どれも人間のそれと全く同じだった。上下で僅かに色味の違う二対の目からは変異体には無い知性の光が垣間見え、より不気味さを際立たせていた。

『黒』の瞳が、俺の瞳を真っすぐに見つめきて――


 不意に、あらぬ光景がフラッシュバックした。


「行ってくる」

 ――何で。

「行ってらっしゃい」

 ――何で今、思い出す……?


 この既視感は何だ。

 俺はこんな変異体知らない。こいつとは今日初めて遭遇した。過去のデータにも存在しない、未知の敵だろ。

 得体のしれない不気味な存在だ。仲間であるはずの変異体を喰うでもなくただ殺し、その次に俺を殺しに来た、正真正銘の化け物だろうが。

 なのに、どうして。


 どうして俺は。

 奴の目を見て、懐かしさと親しみを感じている――?


 駄目、だ。

 これ以上、あの目を見てはいけない。

 頼む、動いてくれ。

 嫌だ。もう見たくない。

 冗談にしても質が悪すぎる。

 ふざけるな。

 あり得ない。

 こんなの嘘だ。

 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ――――ッ!

 

 見れば見るほど、その目は懐かしくて。

 もう二度と、その目に映ることはないだろうと思っていて。

 諦めていたからこそ、その目が俺へ向けられていることが嬉しくて。

 ――それが、この上なく恐ろしくて。


 目を逸らすことは許されなかった。

 微々たる変化である。

 赤の他人が見たところで気付かないだろうそれは、きっと一七年間側で暮らしてきた俺にしかわからない感情の表れだった。

 

 慈しむように、僅かに細められた四つの目が。

 かけがえのない二人の家族と、決定的に重なった――


 ――――ぅぅぅううううあぁぁぁぁぁぁぁぁあぁあァアァアアアアァァアアァアァアアアアアァアあああああああ――ッ!!」


 響くはずの無い慟哭が、音の失せた世界に響いた。

 大よそ人間一人が抱えるには大きすぎる嘆きに満ちたそれが、自分の喉から発せられたものだとは信じられなかった。

 いつの間にか声が出せるようになっている。

 体が動くようになっている。


 ……だから、何だというのか。

 力の抜けた手から、向ける場所を失った武器が滑り落ちる。

 膝から崩れ落ち、ただ茫然と目の前に佇む『黒』を見上げた。

 襲い掛かってくるはずがなかったんだ。

 向こうは最初から、俺のことを知っていた。

 あの変異体を殺したのは、俺を守るためだった。

 今ならわかる。

 何故『黒』と対峙した瞬間、元の世界での記憶を思い出したのか。

 シアの時と同じだ。

 俺に対する時間へ『黒』が干渉した結果、最も近しい共通の記憶が励起されたのだ。

 そして向こうにも同じことが起きたと仮定すれば。

 俺が俺であるという確信を得て、近づいて来たのだとすれば。

 ……嗚呼、そうか。

 二人はただ、会いに来てくれただけなんだ。

 

 カチリと、外れた歯車が再びかみ合うような感覚が脳に走った。

 ――――――何だ、これは。

 

『消えた、だと!? 奴はどこだ!』

『瞬間移動……ですがそのような素振りはなにも!?』

『総員警戒態勢! 敵の反応をロストした!!』

『馬鹿な……その場から即時離脱しろトモノエ・ハルチカ! ハルチカ!!』

『ちょっとノイン、何が起きてるの!? 春近、聞こえてる? ねぇったら!?』


 嵐のような無線が耳朶を打つ。

 今のは、時間の流れが戻る前兆だったのか。

 内容を聞くに、やはり他のガーディアンたちは今の今まで気づくことが出来なかったようだ。全員が全員、これまで見せたことのない焦り方をしている。

 必死に呼びかけてくる声もあったが、返事をする気力すら残されていなかった。

 何もかもが遠く、他人事のように感じた。

 時間が動き出してからも身じろぎ一つしなかった『黒』が、凶器と化した腕の一本をそっと差し出してきた。

 まるで迷子の子供へ手を差し伸べるような、優しい手つき。

 この手を取れば、俺は取り戻せるのだろうか。

 あの日失った。失ったと思っていた日常の、ほんの一部でも。


 俺はゆっくりと、引き寄せられるように。

 掴めば指が落ちてしまいそうな鋭さを放つ切っ先へ、手を伸ばす。

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