Chapter01 手荒過ぎる歓迎

 ――俺は、悪い夢でも見ているのだろうか。

「ここは、どこだ?」

 自然と小さく漏らしたその言葉に答える者はいない。

 広い通りは閑散としており、人通りもまばらだ。誰もが心なしか早歩きで、道のど真ん中に突っ立っている男子高校生に何か目もくれていない。

 というか、視界に映る街並みがそもそもおかしい。

 少なくとも、まずご近所ではないのは確かだ。

 見たままを一言で言い表すとすれば、未来都市だろうか。

 道はコンクリートではなく金属質なタイルで覆われていて、その隙間を縫うように時折光のラインが奔っている。所々でスクリーンもないのにコマーシャルのような映像が宙を漂っていて、試しに近くを通ったものに触れてみるが何の手ごたえもなくすり抜けた。

 道沿いに並ぶ建物も見慣れた民家とは全然違い、道路と似たような質感の壁には窓が殆どついていない。何かの店らしい建物のショーウィンドウには、どのように使うのか皆目見当のつかない道具が飾られている。

 極めつけは遠くに臨む巨大な塔のようなもの。そこらの高層建築が可愛く見え、てっぺん辺りは霞んで殆ど見えない。あそこがこの都市の中心なのだろうか。

 見れば見るほど俺の知る、ちょっと時代の波に乗り遅れたレトロ感溢れる景色とは乖離した光景だった。少なくとも俺の地元はこんな、その辺で耳のない猫型ロボットが歩いてそうな場所ではない。

 じゃあ、ここは一体どこなんだ?

 ……落ち着いて、一つずつ思い出してみよう。

 今日は水曜日で、俺は通学途中だったはずだ。学校での話題に思いを馳せながら歩いていたのは閑静な住宅地で、一年以上歩き倒した通学路を間違えるわけなんてない。それ以前に、これは道を間違えたなんてレベルじゃない景色の変わりようである。

 それから、変な叫び声みたいなのを聞いたんだ。凄まじい音量だったのに、何故か鼓膜が痛まなかった。明らかに異常で、ただ事ではないと思って声が聞こえてきた方を――空を見上げて。

 そこには、確か――

「ぐっ……」

 蜘蛛の巣のような亀裂が広がった空。

 現実的にあり得ないその光景が脳裏に浮かぶと共に、頭の奥が疼いた。堪らず頭を押さえるが疼きはあっという間になりを潜め、嘘のように消え去ってしまう。

 不可解ではあったが、ハッキリしたことが一つ。

 丁度、俺の記憶は空を見上げた時点で途絶えていて。

 意識が戻ったときには、既に見知らぬ未来都市にいたのだ。

「ますますもって、訳がわかんねえぞ……」

 思い出してみたはいいものの、ここへ至るまでの過程がすっぱりと記憶から抜け落ちていることを再確認しただけだった。

 この状況を説明できる仮説は、パッと思いついただけで三つ。

 一つ目は最初に疑問に思った通り、これは悪い夢である説。俺は起きて学校に行く途中のつもりだったが、実はまだ家で惰眠を貪っているのだ。一番現実的で、今のところ最有力候補。

 二つ目はこの都市が巨大なセットで、俺が壮大なドッキリ企画に放り込まれている説。ぶっちゃけ色々と無理があるような気がするが、三つめと比べればまだ現実味があると思われる。

 何を隠そう、三つ目は俺が何らかの異常現象に巻き込まれ、未来にタイムスリップあるいは高度な文明を持つ世界へと送られてしまった説。そう、巷で流行りの異世界転移ってやつだ。

 俺自身はあまりそういう小説や漫画は読んだりしないんだが、友達の一人にやたらとハマっている奴がいる。そいつから聞きかじった程度の知識しか持ち合わせていないが、今のシチュエーションは正にそんな感じじゃなかろうか?

 もしそうだとしたら、俺はこれからこの世界を守るために壮絶な戦いへ身を投じたり、個性豊かなヒロインたちとキャッキャウフフなやりとりをしたりするのだろうか!?

 と一瞬だけテンションの上がってしまう健全ボーイな俺だったが。

「いや、ないわ」

 夢のある話ではあるが、それは現実でないからこそ夢があるというのであって。

 速い話、ただの高二――ステータス的には村人Aの男に突然、

「世界がヤバい! 助けて!」

 と縋ったところで返せる返答は、

「ごめんなさい、無理です!」

 所詮、現実なんてそんなもんである。

 漫画の主人公とかならご都合主義に凄い能力を得たりするのだろうが、生憎と俺にそんな気配は無さそうだ。試しに野菜な戦闘民族が如くオーラを出そうと全身で力んでみるが、体温がちょっと上昇しただけに終わった。

「うん、やっぱないわ」

 と言うわけで、仮説3は却下された。

 あと残っているのは1と2な訳だが、手っ取り早く確認できるのは1か。

「試しに頬でも抓ってみますかね」

 これで痛けりゃ、業腹だがこの突発的ドッキリ企画に付き合わなければならないだろう。

 だとしたら、今日は学校に行けそうにないなあと。

 俺は小さく溜息をつきながら、頬に右手を近づける。


 けたたましいサイレンが鳴り響いたのは、その時だった。


「な、何だ!?」

 尋常じゃない雰囲気に頬を抓る動作を止め、俺は周囲を見渡す。

 どこからともなく大音声でサイレンが鳴り響いた瞬間、どこからでもなく悲鳴が上がり、通りを歩いていた人々が一斉に走り出したのだ。

 その表情には一様に恐怖が張り付いており、何も知らない俺でもこれから良からぬことが起きるのだと理解できた。

 かといって急な展開に行動を起こすこともできず立ち尽くしている俺を更に混乱させるかのように、新たな音声が流れ始める。

 

『警告します。都市内にて変異体ヴァリアントの出現を確認しました。安全のため全建造物の出入口を強制的にロックした後、≪アブゾーバー≫を展開致します。屋外におられた市民の皆様はルートガイドに従い、最寄りのシェルターへと早急に避難してください。これより、ガーディアンによる掃討を開始致します』


 予め録音したものを流したかのような、朗々とした女性の声。

 知らない単語が次々と出てきたが、要するにこれは避難勧告なのか?

 今必死の形相で走っている人たちは、その都市に現れたヴァリアントとかいう何某から逃げている最中で、あんなに必死になってるってことは相当ヤバい状況ってことで?

「つまり、俺も逃げなきゃヤバいってことなんじゃ……!」

 その判断に至るには、少し遅かった。

 即座に邪魔になると判断した鞄を放り捨て、とにかくみんなが向かっている方へ走りだそうとし、

 

 踵を返した直後、背後で空気が爆発する。

「ぐぁ――!?」

 暴風に全身を打たれ、バランスを崩した俺はなす術もなく路面に転がされた。

 金属質な見た目の道は見た目に反してクッションのように衝撃を吸収し、数メートルほど派手に吹っ飛ばされた割には体に痛みは少ない。だが、痛いことには痛かった。

 痛みがあるということは夢ではないし、ドッキリにしたって素人相手にやり過ぎだ。

「んだよこれ……一体、何が――」

 一層混乱を極めながらも、手をついて立ち上がり。

「――は?」

 俺を着地の風圧で吹っ飛ばした存在の姿を見て、言葉を失った。

 球状の肉塊から四方に伸びた、甲殻に覆われた節足動物の脚。更に肉塊から生えている胴体は全身に鱗を纏っており、その両腕は蟷螂のような棘付きの鎌。三メートル近い体躯に比して小さな頭は山羊のそれで、俺を見下ろす三つの目は複眼だった。

 バラバラになった動物のフィギュアを滅茶苦茶に組みなおしたような造形。大よそこの世の物とは思えない外見をしているそれには確かな息遣いがあり、全ての起点となっている肉塊は不気味に脈動し続けている。

 生き物だ。

 これは間違いなくこのような姿をした、生物なのだ。

 キメラという単語が、ふと脳裏を過った。

 RPGの敵キャラとしては比較的ポピュラーなモンスターで、名前と漠然とした見た目なら記憶にある。実際それらは複数の生き物を掛け合わせた姿をしていたが、目の前にいるこれのように生理的嫌悪をもたらす外見はしていなかった。

 そもそも、キメラなんて現実には存在するはずがない。あれはあくまで空想上の存在だ。

 なら、目の前のこいつは何だ。

「……変異体」

 確か、あの警報はそう呼んでいた。

 今目の前にいるこの化け物が、まさにそれなのでは?

 そして、俺の予想が正しければこいつは――

「人を、襲う?」

 確かめるように言ったそれがトリガーだったのか。


「ギィィィイイイィイィィイイイィイイ!!」

 黒板をひっかいたような耳障りな咆哮を上げながら。

 異形の化け物が、こちらへ目がけて猛然と移動を開始した。


 ◇


 サイレンが鳴り響いたのとほぼ同時期。

 都市の中央。

 市民からは『塔』とも呼称される管理局の作戦室内にて、久道秀一くどうしゅういちは集合したガーディアンたちに向けて矢継ぎ早に指示を出していた。

 変異体の出現が確認された以上、ことは急を要する。

「状況は既に開始された。カミカワとマイヤーズはA、B区の避難が遅れた市民を救助しつつ変異体を排除、クラッツァはその援護に回れ」

「はい!」

 ルナリア・カミカワは威勢よく応え。

「うぃーっす」

 ラッド・マイヤーズは余裕を含んだ笑みを浮かべ。

了解ヤー、隊長」

 ノイン・クラッツァは鋭い光を瞳に湛える。

「ベイカーとグッドマンはCとDだ。レティエは二人に付いて防衛戦に慣れろ。可能だと判断したなら戦闘に加わってもいい」

「承知した」

 瑞葉みずは・ベイカーは気負う様子もなく。

「畏まりました」

 ミハイル・グッドマンは厳かに一礼し。

「い、いえっさー! ……あの、ちなみに残りの二区画は?」

 フィーダ・レティエの躊躇いがちな問いに、時間が惜しいので手短に回答。

「俺が片づける。総員出撃!」

 各々が三者三様の返事を返してから退出していくのを見送る。

 最後の一人が出て行ったのを確認してから久道は大きく溜息をついた。

 何故、自分がこんなまとめ役のようなことをしているのだろうか、と。

 ガーディアンは管理局が抱えている正規の軍隊ではなく、対外的にはあくまで研究室付きの臨床技術試験員という体だ。都市の持つ技術力を恐れる国家は数多く、それらを無用に刺激しないための肩書でもある。

 軍隊ではないのだから、それを構成している人間に身分の差など存在しない。個々の実力差や年期といった要素から自然と序列が発生すること自体は仕方のないことだと思うが、だとしても全体に指示を出すなんて仕事は本来久道の管轄外だ。

 なのに最近は、一部の職員から〝隊長〟と呼ばれる始末である。

「『適材適所』とは、よく言ったものだな」

 聞こえの良い言葉を用いて雑務を押し付けて来たときの上司の顔を思い出し、久道は大きく顔をしかめた。

 彼女は研究者であり技術者であり、合理主義者だ。戦闘の指揮は戦闘の専門家に投げる――もとい任せるという判断は至極真っ当なものであり、間違っているとも思わない。

 ただ、先の言葉に続いたのが「面倒なことは全て君の仕事だろう?」でなければ、もう少し前向きに自らの立ち位置を受け止められていたに違いない。

「少々愚痴が過ぎたか」

 彼らを叩きだした手前、自分が何時までもぐずぐずしていては世話無い。

 上司に対する不満は一度片隅に置き、久道は視線を上げる。

 見据えるのは、作戦室の白い壁の向こう側。管理局の外壁を超えて、中央区を抜けた更に先。F区にてうごめく、人口が集中するA区へ向かおうとする気配の一団を捉え。

 

連結開始リンク・オン


 左腕に装着した≪リンカー≫を起動。

 空間に僅かなノイズを残し、久道の姿が掻き消える。

 彼の肉体と意識は指定座標――A区とF区の境界へと全く同時に遷移し、遠くに気配を感じる程度だった変異体の集団が、今や眼前へと肉薄していた。

 数にして五。

 殺到してくる速度はビークルを用いれば余裕で逃げ果せる程度のものだが、走って逃げる人間よりは速い。このままこれらがA区に流れ込めば、避難の遅れた市民が犠牲になるだろう。

 そして久道もまた、多分に漏れず人の身である。

 変異体の基本にして最悪な習性。必ず人間に襲い掛かるという性に従い、道に立ち塞がる彼へ向けて異形の爪と牙が殺到する。


「ジェラァァア――――」

「遅い」


 瞬間、颶風が吹き荒れた。

 異形共の奇声は、音速を超える踏み込みから発生した衝撃波に飲まれて消える。獲物を狩らんとする躍動は凍り付いたようにピタリと止まり。狂気に染まった瞳からは、既に生の光が失せていた。

 疾風の如く駆け抜けた久道の右手には、先ほどまでは存在していなかった一振りの刀が握られていた。少量の血液が付着した、機械的な柄から伸びる曇りない刀身を一瞥。無造作に振り払い、左手に持っていた鞘へと納刀する。

 

 キンッ、と鋭い鍔鳴りが静寂を刺した直後。

 自重に耐えかねた五つの肉塊が、全身に刻まれた線に沿ってバラバラに崩れ落ちた。


「装置の補助があるとはいえ、まだまだ動けるものだ」

 一体につき七閃。

 計三五の斬撃を一息に放った久道は、四〇を目前にして存外自身の能力が衰えていないことに僅かな満足感を覚えた。

 だが真に驚くべきは、彼を未だ最強のガーディアンたらしめている装備たちにある。

 特に久道個人向けにチューニングの施された刀は彼の手によく馴染み、技の冴えに一切の翳りを与えない。思考と各種アシストとの間にも煩わしいラグはなく、全てが思い通りだ。

 憎たらしいまでの完璧な調整。

『天才』の呼び名を欲しいままにする彼女の実力の一端であり、普段は不満ばかりが先行する上司の数少ない評価できる点であった。

 次なる獲物を探ろうと、視界を巡らせていると、

「向こうでも始まったか」

 管理局を挟んで反対側のC区辺りから複数の爆発と黒煙の狼煙が上がり、自分よりも先に出撃したガーディアンたちも開戦したことを知る。

 爆発と言うことは、フィーダを戦闘に参加させたのだろう。

 自分に次いでキャリアの長いミハイルや瑞葉の判断を久道は信用している。彼らの担当する範囲は主に実験や訓練に用いる地域であり一般市民は立ち入らないので、多少派手な立ち回りをしても問題ない。

 久道が一手に引き受けたE・F区もまた然り。

 プラントや発電所といった、無人で稼働する施設が集積しているこの場所に、人間は現在久道ただ一人。細かく入り組んだ地形が広がるため、障害物を無視できる自分こそが適任であると踏んでの配置である。

 そして、最も混乱が予想されるA・B区――市民たちの生活基盤となっている居住区画には三人の若手を派遣した。

 中・近距離での遊撃に長けるルナリアに、機動力に特化したラッド。遠方より狙撃でカバーするノインからなるバランスに優れた組み合わせだ。彼らの連携能力は高く、個性が突出しがちなガーディアンの中にあって貴重な柔軟性を持ち合わせていた。

 都市に残っていたガーディアンは久道の指示の下、現在取りうる最善の布陣で展開されている。緊急の報告もなく、この調子でいけば被害は最小限で収まる見込みだ。

「最小限、か」

 それが必ずしも良い表現であるとは言い切れないが故に、久道は自嘲気味に口にした。

 最小限の被害。成程、数字だけ見れば確かに好ましい結果に違いない。

 だが、奪われた命は数字で数えられるものでは決してないのだ。

 変異体が都市に直接出現するなど、そう頻繁に起きることではない。大まかな周期以外には予測不可能なそれはある種天災に近く、時期が近付けば外出を自粛するように促すものの、犠牲をゼロにするのは不可能とされていた。

 理不尽だと、久道は思う。

 その時犠牲になるのは、ただ穏やかな日常を送っていた市民なのだから。失われた命に対し、運が悪かったと割り切ることは難しいだろう。

 しかし一方で。

 自らが築き上げた死骸の山を見やり、ふと自らに問いかける。

 運が悪かったのは、一体どちらなのだろうか。

 本当に理不尽なのは、一体――

「……いかんな」

 思索に耽るのは、昔からの悪い癖だ。

 浮き上がりかけた雑念を脳の片隅へ押しやる。そのまま捨て去ってしまえば楽なのだろうが、それは出来ない性分だった。

 代わりに、今この瞬間。

 戦いに身を投じている間だけは、忘れることにしよう。

「往くか」

 どこまでも言い訳がましい自分をせっつく様に呟き、担当する全域にはびこる変異体を殲滅すべく久道は再び空間を飛び越える。

 フィーダに大見得を切った以上、相応な働きはしなければならない。


 E・F区の変異体が一匹残らず消えたのはそれから一〇分後。

 A区にてとあるイレギュラーが観測されたのと、ほぼ同時だった。


 ◇


 ――あ、死ぬわこれ。

 頭に浮かんだのは、他人事のような言葉だった。

 実際、現実感が湧かなかった。

 気がついた時には、見慣れた通学路とは月とスッポン以上にかけ離れた風景の中に一人佇んでいて。

 俺に向かって猛スピードで迫ってくる化け物は、それこそゲームにすら出てこなそうな、この世の物とは思えない造形をしていて。

 不気味に光を反射する両腕の鎌は、既に誰かを手にかけた後だったのか赤黒く染まっていて。

「くっ――」

 近づいてくる鉄錆のようなの臭いがツンと鼻を刺し、逃避気味だった意識が現実に引き戻された。

 このままでは不味い。

 今すぐ逃げろと本能が叫び、数歩後ずさるが。

「うぐっ!?」

 脚が縺れ、その場に尻餅をついてしまう。立ち上がろうとするが、間に合わない。感覚が引き延ばされ、何もかもがスローモーションのようだ。全ての音が遠く、ただ自分の心臓が早鐘を打つ音だけが煩いぐらいに体内で響いている。

 もう変異体との距離は、一メートルもなかった。

 ――駄目だ、殺される!

 決定的な死を予感した俺を、異形の陰が覆い尽くし――

 

 そのまま、後方へと通り過ぎて行った。


「……え?」

 起きたことに、理解が及ばない。

 小さくなっていく足音と姿を、ただ茫然と見送る。

 やがて変異体が曲がり角の向こうへ消えたのを確認し、迫る死への反応として拡張された感覚が正常に戻っていった。

「助かった、のか」

 気付かぬうちに荒くなっていた呼吸をどうにか落ち着かせながら、地べたに胡坐をかいて状況の確認に務める。

 まず、俺は生き残ったらしい。

 呼吸は苦しいし心臓は痛いくらいに鳴ってるし恐怖で今にも泣きそうだが、それらの感覚があるということは生きている証拠だ。

 こちら目がけて走ってきたあの変異体はもう視界内にいなかった。奴は俺の頭上をそのまま通過していったのだ。甲殻が路面を打つ音はあっという間に遠ざかっていき、今や無人となった辺りは静寂に包まれていた。

 俺に気づかなかったということはないだろう。あれはここに現れた直後、確実に俺を凝視していた。感情の籠らない複眼から注がれる無数の視線を、俺は確かに感じた。

 その上で、あれは俺を完全に無視していった。

 習性……あんなナリで、もしかして本当は人を襲わないとか?

 でもあの鎌みたいな前足にべったりついてたのって明らかに血だったし、危険な生物じゃなきゃあんな物々しいサイレンも警報もならさないだろうし。

 まさか俺だけ例外で攻撃対象にならないなんてことは……いや、そんな都合の良すぎる例外があるはずないだろ。流石にそこまでおめでたい頭はしていない。

 あと他に可能性があるとすれば気まぐれか、それとも好み? 男よりも女の方が(食べ物的な意味で)好きとか? うーむ、肉質の問題なのかな。

「……つか、意外と余裕だな俺」

 少なくとも、ふざけたことを考えられる程度には落ち着いるらしい。

 恐くて泣きそうと思いはしたが、むしろその程度で済んでいる。普通あんな化け物に殺されそうになれば、実際に泣き叫びながら失禁の一つくらいしてもおかしくなかったはずだ。念のため言っておくが、俺は漏らしてないぞ。

 その上、結局すっころんで失敗に終わったものの、すぐに逃げを打とうとする判断力すらあった。自覚している以上に、俺は心臓に毛が生えているのだろうか。これでも根は小市民のつもりだったんだが。

 まあ、思いの外俺が豪胆だったのは別に悪いことでもない。

 この状況において錯乱せず、冷静に次の行動を考えられるのは確実にプラスだった。

「取りあえず、移動しよう」

 自分にそう言い聞かせつつ、俺はよっこらせと立ち上がる。

 警報によると都市の各所にはシェルターなるものがあるらしく、そこへ行けば多分安全なのだろう。ルートガイドとやらに従えばたどり着けるようだが。

「それらしいもんは見当たらないな」

 路面や周囲に浮かぶ映像の一つ一つにまで目を凝らすが、ルートガイドのルの字も発見できなかった。もしかしたら俺がここの正式な市民ではないからだろうか。

 ここまできて、俺は今いるこの場所が元いた世界と同じとは微塵も思っていなかった。

 俺の知る地球にはあんなキメラも尻尾巻いて逃げ出す前衛的モンスターは生息していないし、こうして改めて都市を見ているともう技術水準とかが違い過ぎる。具体的にどう違うのかと問われると答えに窮するが、素人目に見ても進んだ文明であることは間違いない。

 どうやら、これは本格的に数奇な運命を辿ってしまったようだ。

「異世界転移、ねぇ」

 こういう時は、情報収集をするのがセオリーだろうか。

 飛ばされた理由。或いは呼ばれた目的。元の世界に帰る方法――

 欲しい情報は枚挙に暇がないが、目下手に入れるべきなのは。

「どこに避難するかだよな……」

 情報を集めるにしても、今死んでは元の子もない。

 試しに最寄りの建物のドアが開かないか試してみたが、予告通りロックされたドアは押しても引いてもうんともすんとも言わない。どころか、どんなに力を加えても手ごたえがなく、感覚的には暖簾に腕押しだった。ちょっと乱暴に叩いてみても、拳が痛まない。

 建物に展開された≪アブゾーバー≫とやらの効果のようだ。確かアブゾーブって英語で吸収するとか減衰するって意味だった気がする。てことは、これで外部の――変異体の攻撃から建物を保護しているのか。

 強制ロックじゃ中に人がいてもくれないだろうし、地道にシェルターを探す他ないのだろう。

 変異体を掃討するガーディアンとやらの存在も色々と未知数だし、端から助けを期待するのは軽率だ。人ならまだ話が通じるかもしれないが、もしキラーマシン張りの戦闘機械だったとしたら巻き添え食って死にかねない。

 折角拾った命だ。いのちだいじにでいこう。

「……気は進まないが、行くか」

 半ば諦めに近い心境で、俺は変異体が走り去っていった方とは反対の方向を見る。

 わざわざ同じ方向に行って鉢合わせるリスクは回避したかった。さっきのような偶然がそう何度もあるとは限らないし、出来れば二度と会わないのが理想だ。そうなると、自然と奴から離れる方向に足が向く。

 向かう先に広がっているだろう光景を思うと気が滅入るが、背に腹は代えられない。

 俺は覚悟を決めるべくニ・三度深呼吸をしてから、先ほど捨てた鞄を拾って肩にかけなおし、歩き出した。


 五分ほど道なりに移動すると、案の定というべきか。

 外れてればいいなという予想は見事に的中した。

「ごほっごほ! あぁくそっ、やっぱりか」

 場に漂う強烈な臭いにむせ返りながら、俺は毒づく。

 率直に言って、地獄だった。

 ある種の機能美を感させる街並みは数十メートルに渡って、蹂躙された市民たちの血で真っ赤に彩られている。道に転がる死体の殆どは人の形をしておらず、頭から齧り取られた形跡があったり胴体がいくつにも分割されていたりと散々な状態。

 血塗れの凶器を持った化け物が来た方向だったから薄々感づいてはいたが、やはりあれは人を襲う類の生き物みたいだ。

 死体の損壊が激しく散らばっているせいで詳細な人数は判断できないが、目につくだけでも犠牲になったのは三〇人前後だろうか。これをあの変異体がやったのだとしたら、俺が見逃されたのは単に奴の腹が一杯だったからかもしれない。

 ともあれ、いつまでも立ち止まっている訳にもいかなかった。迂回する時間も勿体ない。

「うえぇ、もうこれどこ踏んでも血みどろだよ……」

 ローファーの裏がべた付く感触に鳥肌を立てながら、俺は血塗られた領域を突き進む。

 路面には血だけではなく、切断された死体からこぼれた中身がぶちまけられている。昔恐いもの見たさで友達と借りたスプラッタ映画のような光景だが、実物と映像では比べ物にならない。視覚だけならともかく、嗅覚への打撃がキツい。

「うっぷ……こんなことなら朝飯抜いてくるんだった」

 言っても詮無いことだが、言わずにはいられなかった。

 口元を抑えて、朝飯を戻しそうになるのを必死に耐える。千切れて転がっている内臓や四肢を避けつつ時には退かし、乾燥しかけの血液が粘着してくる道を進むのは精神的にかなり堪えた。


 ところで、不可解なことがある。

 この都市は元の世界と比べて、随分と発展しているように見える。これだけ開発の進んだ都市ならば、少なくとも東京と同じくらいの人口はあるはずだ。逆を返せば、あの変異体による被害も大きいものになるということだが。

 実際はどうだろう。

 警報が鳴る前に道を歩ていた人の数は少なく、ここの犠牲者もどう数えたって五〇にも届かない。道の広さや立ち並ぶ建物の数からここがメインストリートっぽいのだが、だとすれば死体の数が少なすぎる。

「月曜の朝ならもっと人が……いや、この世界と俺の世界で曜日があっている保証はないか。でも休日にしたってもっと家族連れとかが外にいるんじゃ……って」

 ブツブツと考えを口にしながら歩いていると、ふと新たな疑問が湧く。

 いや。正確には新しくもなく、改めて疑問に思ったと言うべきか。

「俺、何でこんな冷静なんだ?」

 さっき変異体に迫られた辺りから兆候は見られたが、ここにきて顕著になっている。

 破壊し尽くされた死体が山を築き、死臭で満ちた道を俺は歩いている。気持ち悪いとか吐きそうだとか文句を言う一方で、死体を数えて都市の被害状況について思考を巡らせながら。

 まず、いつもの俺ならこの状況で吐き気を我慢するなんて無理だ。フィクションですら吐き気を催してたのに、現物を見て大丈夫な訳がない。どころか、足の踏み場がなくなっときにつま先でブツを退かした気さえする。

 そもそも気持ち悪いなら道を迂回すれば済む話なのに、血だまりへ一歩踏み出すこと自体には殆ど躊躇しなかった。あの時俺は時間の無駄だと思ったが、だとしても迷いがなさすぎる。

 不自然なほど冷静な頭で考えた結果、やっぱり今の俺はおかしい。

「どうしちまったんだ、俺」

 自分の知らない内に、自分の中で何かが変わってしまっている。

 言葉に出来ない気味の悪さに足取りが重くなり、思わず立ち止まる。


 そうしなければ、恐らく聞き逃していた。

「……ぁ、ふ」

「っ!」

 文字通り、蚊の鳴くような声だった。肺の中身を全部絞り尽くし、それでもなお息を吐こうとすれば出るような、か細い音。

 弾かれるように周囲を見渡す。血塗られた風景に別段変化はなく、新手の変異体が襲来した訳ではないらしい。

 だとすると、これは――

「誰か生きてるのか?」

 恐る恐る声をかけてみるが、返事はない。いやむしろ、返事が出来る状態に無いと考えた方がいいだろう。まともな返事が出来るのなら、あんな消え入るような声なんて発しないはずだ。

 声がした方向から、大まかな位置はわかっていた。無数に転がる死体を跨ぎながら、俺は正面右の、道の脇の方へと移動する。

 都市の隣同士の建物は大抵密着しているが、そこは数少ない隙間の一つだった。内装の都合なのか、片方の建物の一部がせり出しているせいで僅かに路地が設けられている。ギリギリ、子供が一人通れそうなスペースだ。

 その入り口を塞ぐように、一組の男女が折り重なって果てていた。道に転がっていた死体とは違って五体満足で、著しい欠損は見られない。視線をずらすと、互いの薬指にはめられていた指輪がチカリと陽光を反射する。夫婦なのだろう。

 二人には共通して胸の真ん中辺りに巨大な刃物で刺されたような傷があり、仰向けに倒れている。二人は正面から変異体の攻撃を受け止めて息絶えたのだ。

 きっと、この先にいる誰かを守るために。

「失礼します」

 一度手を合わせてから、俺はそっと二人を乗り越える。

 跨ぐのは気が引けたが、あの弱々しい声を聞いた後では時間が惜しい。

 非常に狭いが、体を横にして少しずつ先へと進む。

 薄暗い路地には夫婦の物とは別に、何かが這いずったような血痕があった。それはメインストリートから離れるように奥まで伸びていて、反対側の出口まで続いている。

 恐らく、彼らが守ろうとした誰かは手負いだ。

 あと一歩、彼らは守り切れなかったのだ。

 えっちらおっちらと、狭い路地を二十秒ほどかけて抜けた先。

 死体は幾つか転がれどさっきいた場所よりかは幾分かマシな光景が広がっている中に、その少女は倒れていた。

 背が低く、表情にはまだあどけなさが残っている。中学に上がるか上がらないかくらいの年の頃だろうか。どことなく入り口の二人の面影を感じさせ、この子は彼らの娘であることを確信する。自分の娘なら、体を張って守ろうとするのも頷けた。

 ただし、無事にとはいかなかったようだが。

「おい、しっかりしろ。俺の声が聞こえるか!?」

「……っ」

 体を下手に動かさないように、軽く肩を叩きながら浅い呼吸を繰り返す少女に声をかける。返事は出来ないようだが代わりに小さく身じろいだので、俺の声は届いているらしい。辛うじて意識は繋ぎ留められていた。

「だが、ヤバいことに変わりわないぞ」

 降ろした鞄から使えそうなものがないか探しながら、俺は少女の傷を見る。

 後ろから脇腹を一突き。犠牲の甲斐あってか傷の深さは両親よりも浅いが、とにかく出血が酷い。

「よし、ひとまずこれで!」

 程なくして、俺は鞄から一枚のタオルを引っ張り出す。

 今日の五限が体育でよかった。汗を拭くために持ってきたタオルは昨日選択したばかりだから、そこそこ清潔だろう。

「少し強めに押さえるけど、我慢してくれよ」

 声をかけながら、適当な大きさに丸めたタオルで傷口を塞ぐように押さえつけた。正しい止血の仕方なんてわからないが、何もしないよりは良いはずだ。我ながら不自然なまでに手際が良いが、今ばかりは助かる。

 しかし、無地の白いタオルは傷口に当てた部分からあっという間に赤く染まっていく。端の方からも血の雫が滴り始めた。持っている手にも湿ったような感触が広がり、ものの十数秒でグチャグチャになってしまう。

「嘘だろおい……くそ、止まれ! 止まれよ!」

 より一層強く押さえ込むが、出血の勢いは衰えない。如何に親より浅いとはいえ、小さな少女にとって化け物による一撃は充分に致命的だったのか。

 仮にここで暴れまわった変異体が俺を無視した個体と同じ奴だとしたら、少女が怪我をしてから十分前後は経っている計算になる。

 うろ覚えだが、人間は全身の血液の二・三割を失うだけで出血死するんじゃなかったか。今でさえ酷いのに、この子は俺が来るまでにどれだけの血を流したのだろう。呼吸音も、注意しなければもう殆ど聞こえない。

 もう、これは助からないだろう。

 さっさと見捨てて、自分が避難した方がいいんじゃないか?

 頭の中の冷静な部分の、至って現実的な提案を――

 

「んなこと知るか黙ってろ!」

 

 声に出して、ねじ伏せた。

 言うに事欠いて、見捨てろだ?

 非常事態だからと、気持ち悪い冷静さでも役に立つだろうと放っておけば、何をふざけたことを考えたこの脳みそは。

 確かに少女の意識は危ういし、今にも血の最後の一滴まで流れ尽くそうとしている。

 それでも、まだ生きているんだぞ。

 それを見捨てるなんて、それこそ化け物と変わりない。

 あまりにも、人間離れした合理性でしかないだろうが……!

「絶対に、助けてやる」

 その合理性を否定するように、俺は呟く。行動へ移すまでに時間は必要なかった。

 ズボンのベルトを外し少女の体の下をくぐらせて、傷口のタオルを縛り付けるように固定する。そして極力刺激を与えないように、ゆっくりと抱き上げた。

 これ以上尽くせる手がなく助けを待っている猶予もないなら、一か八かこの子を治療できる場所へ向かうしかない。

 可能性があるとすれば。

「あの塔か」

 大きさからして、あれは都市の重要な施設なのだろう。

 治療が可能かも不明な上、方向的に来た道を引き返すことになるが知ったことじゃない。場所が明確な分、少なくとも闇雲にシェルターを探すよりは長く連れまわすリスクも抑えられる。

 ――どうして見知らぬ他人のためにそこまでする?

 またも邪悪な合理性が顔を出しそうになるが、無視した。

 こういうのは多分、理屈じゃない。

 俺にとってそこは、人として譲れない一線なのだ。

 それを言葉にするのももどかしく、俺はただ行動で示す。

「待ってろよ、今すぐあそこに向かって……!?」

 腕の中にいる少女へ励ますように声をかけ、俺は驚愕した。

 さっきまで力なく閉じられていた少女の目が、薄く開いている。

 そこにはまだ、命の灯が消えずに残っていた。

「いいぞ、気をしっかり持つんだ! まだ間に合う……絶対に諦めるなよ!」

 真っすぐ目を見て、強く呼びかける。どうやら最初に発見した時よりも意識がハッキリしているようで、少女は俺を見返しながら小さく頷いた。

 この子にもまだ生きる意志がある。

 それが確認できただけでも充分だった。

 ただ、これが燃え尽きようとする命の最後の輝きであるかもわからない。

「とにかく、さっさとここを――」

 塔がある方角へと向き直り、

 俺は一瞬、呼吸の仕方を忘れた。


 一度見たら二度と忘れない。

 そう誓えるほどに、異常で異質な異形が。

 塔へ続く道から感情のない三つの複眼が、俺へと向けられていた。


「犯人は現場に戻るってか……ハハッ、マジでふざけんじゃねえぞ」

 あまりにも馬鹿馬鹿しくて、思わず笑ってしまった。

 化け物が何を考えているなんてわからない。取り残しがいないか探しに来たのか、それとも俺のことを思い出して戻ってきたのか。

 どちらにせよ、奴は数多の死体を踏みにじりながらそこに立っている。

 最悪だ。

 俺と奴との距離は、精々十メートル程度。あれの足の速さはさっき見たから知っている。少女を抱えていようがいなかろうが、直線で逃げれる相手ではない。今から踵を返して走り出そうが、二秒と持たないだろう。

 山羊頭が口を開き、草食動物とは思えない鋭利な乱杭歯が空気に晒された。四本の蟹脚と前腕の鎌が力を込めるようにたわめられる。

 先ほどは感じなかった殺意めいたものを今はひしひしと感じた。

 どうやら、今回は見逃す気がないらしい。

 ――この子を囮にすれば、もしかしたら助かるかもしれない。

 懲りずにそんな発想が浮かんでくるが、同時に成程とも思う。

 もしあの化け物が腹を空かしているのなら、少女を生贄にして自分は路地にでも隠れてしまえばいい。あの図体なら追ってこれないだろうし、満足して去ってくれれば本当に助かるかもしれない。

「……ハッ」

 我ながら人間とは思えない、悪魔的な発想。

 故に俺は一笑に付し、今度は答えてやった。

「いっぺん死んどけ、クソ野郎」

「ギィィイシャアアァァァアアア!!」

 真正面に見据えた変異体が、暴風を伴って迫り来る。


「ミラーポイント集中配置――連結開始リンク・オン!!」


 凛とした声が空に響いた直後。

 視界一杯に、閃光が瞬いた。

「うおおおおおおおおお!?」

 空気を焼きながら、流星群の如く降り注ぐ大量のレーザー。

 その一本がつま先を掠めていき、慌てて飛び退く。

 光線の弾幕に曝された変異体はと言えば、当然ひとたまりもなかった。

 鱗も甲殻も、まるで紙屑のように貫かれていく。光線一つ一つが凄まじい熱量を持っているのか、周囲にはあっという間に肉の焦げたような臭いが充満し始めた。

 レーザーはたっぷり五秒間ほど降り続け、やがてピタリと止まる。まるで通り雨のように過ぎ去っていったが、その威力は雨粒なんかの比じゃない。

 変異体は断末魔すら上げる間もなく、全身に焼け焦げた穴を穿たれていた。その全てからどす黒い血と煙を垂れ流しながら、糸の切れた人形のように力なく倒れる。

 何十人もの人間を殺し、さっきまで俺たちの命すら奪おうとしていた化け物の末路は、相応に悲惨なものだった。

「えっと、あー、何だ」

 目の前の危機が去ったということを理解するのに、俺はまたもや時間を要した。

 さっきのガンスルーもそうだったが、あまりにも突然すぎると脳の処理が間に合わない。

 まあ、ただ一つ言えることがあるとすれば。

「また助かったのか……俺も、この子も」

 再び瞳を閉じながらも、初めに聞いた時よりかは力強い呼吸をしている少女を見下ろし、ようやくその実感が湧いて来た。

 やれやれ、一時はどうなるかと思った。幾ら屑にはなりたくなかったからとは言え、あの場面で犬死上等とか別のベクトルで人間離れしてきてるのかもしれない。

 もっとも、逃げなかったこと自体は全く後悔していないが。

「つーか今のレーザーすげえな。もしかして、今のをやったのがガーディアンなのか?」

 あれが始まる直前、確か空の方から女の声が聞こえた気がする。とすると、ガーディアンは人間なのだろうか。

 確認するべく、俺は空を見上げようとして――


「――がっ!?」


 衝撃、痛み、熱。

 突如として脳内に吹き荒れる情報。頭の中で爆弾が爆発したかと錯覚するほどの激痛に目がくらみ、堪らず膝を着く。

 少女の体重を支えることすらままならず、せめて傷つけないようにそっと路面に降ろして、そのまま数歩離れて。

 限界が訪れた。

「ぁぁぐっ、かはっ、が、ああぁああああぁあああああああ!!」

 背中から倒れ、全身が血で汚れることすら厭わず転げまわった。頭を押さえていなければ、内側から頭蓋骨を割って何かが飛び出てきそうだった。

 視界が揺れる。神経が焼ける。脳が圧縮される。痛い。融けた鉄を流し込まれたかのように熱い、背中が。刺されたのか、一体誰に痛い。違う、これは俺じゃ熱い。俺じゃない記憶が流れて痛い。痛い熱い誰か、誰か助け痛い痛い熱い熱熱熱痛痛熱――――――!!


 ――――声。

「いいか、ここを真っすぐ抜ければシェルターまで近道できる。さあ行くんだ」

「やだ! シアもお父さんたちと一緒に行く!」

「ごめんね。私たちじゃ、この道を通れないから」

「僕たちもすぐに追いつく。だからシアは先に――!? 駄目だ、もうそこまで来てる!」

「もう時間がない。お願い、早く行って!」

「お父さん、お母さん!」

「走れシア! 絶対に振り返るんじゃないぞ!」

「私たちの分も、生きて……!」

 聞き覚えのない声。見覚えのない映像。

 これは、まさか――

 

 誰かの記憶を最後に、意識は闇へと飲まれた。


 ◇


 最後の一体を一刀の下に切り伏せ、久道は死にゆく変異体から早々に背を向けて通信を開始する。

 

「こちら久道。各エリアごとに、状況を報告しろ」

『こちらC・D区代表の瑞葉。C区の殲滅は完了。D区内の変異体も既に全体の二割を下回っている』

「随分と早いな。レティエがやったのか?」

『ああ。開けた場所で相手が多数ともなれば、間違いなく全ガーディアンの中でもトップクラスの破壊力だ。もっとも爪が甘いせいで、こちらにも流れ弾が飛んでくるがな』

『ひぃ~! 未熟者でごめんなさいですぅ!!』

 フィーダの悲鳴を聞き流しつつ、そこは改善点だなと久道は心の中のメモにそう書きとめる。事後処理などが落ち着いたら鍛えなおしてやる必要があるだろう。

『今は後方に下がらせて、私とミハイルで残党狩りの最中だ。終わったらまた連絡する』

「任せた。A・B区の状況はどうなっている」

『こちらA・B区代表のルナリアです。殲滅率は全体の五割弱。想定よりも数が多く、若干後手に回りました……犠牲も、想定より多いです』

 無線越しでもわかるほどに、彼女は落ち込んでいるようだった。

 ガーディアンの中でもそれなりに若手で、人一倍責任感を持って仕事をしているのがルナリアだ。いまいち真面目さに欠ける同期のラッドにも見習って欲しいところだが、責任感が強すぎる故に失敗を重く受け止めすぎる嫌いがある。

 久道自身にもそのような時期があったこともあり、ルナリアの気持ちはよくわかっているつもりだった。

「割り切れとは言わん。だが、全ての犠牲について責任を負おうとすればお前の身が持たなくなる。どれだけ後悔しても結果は変わらん。ならば、その失敗を次に活かすための努力をする方向にシフトしろ。なるべく早くな」

『……わかりました』

 不器用な久道なりの励ましだったが、それなりに有効だったようだ。

 返ってくるルナリアの声は、幾分か明るくなっていた。

『それと、あと一つ報告したいことが』

「何だ?」

『A区の三番ラインにて生存者を保護しました。二人とも意識不明。内一人は軽傷を負っていますが、命に別状はありません』

「ふむ、それは重畳だ。だが、それがどうかしたのか?」

 元より、ルナリアたちには逃げ遅れた市民を救助するように指示してあった。そこには単に生存者をシェルターへ避難させることだけでなく、負傷者を医療施設へ搬送する判断も含まれている。一々見つけるたびに許可を求めてくるようではキリがないのだ。

 なにより先ほどまでとは違い、報告するルナリアの声に困惑の色が強まっていることが不可解だった。

『あの、それが――』

『まどろっこしい。小官が説明する』

『ちょ、ちょっとノイン!?』

『データベースを照合した結果、軽傷者の少女の名前はシア・フリーゼと判明しました。五歳の時点で両親と共に合衆国から都市へと移り、通常市民として登録されています。今年で十三歳となり、都市公認の学習プログラムにて中等教育を受ける予定です。なお、両親のロイド並びにマリー・フリーゼは約一五分前に死亡していることを確認しました』

 会話に横入りしてきたノインが抗議に取りあうことなく、まるでカンペを読み上げるかのようにスラスラと情報を並べていく。

 聞いてみれば何てことはなく、久道流に言うならばこれから中学生になる年頃の、ごく普通の少女だった。それだけに両親の死は悲劇だが、世界的に見れば変異体によって家族を殺された事例など枚挙に暇がない。殊更シアという少女が特別であることはないだろう。

 つまり、問題があるのはもう一人の方か。

「成程、よくわかった。それで、もう一人の生存者に関する情報は?」

『不明です』

「……今、何と?」

『不明です』

「…………」

 念のため聞き直した久道だったが、どうやら聞き間違いではなかったようだ。

 シア・フリーゼに関する情報はあれほど詳しく出してきたというのに、どうしてもう一人の方は『不明です』の一点張りなのか。

 ノインは元軍人の血を引いているからか、仕事に関しては徹底的に無駄を省いてくる。それは報告についても同じで、一見長々としたシアの情報や『不明です』にも、ちゃんとした意味があるのだろう。

 例えば。

 片方は調べればいくらでも情報が出てくるのに、もう片方は何も出てこなかった。

 これが意味することは――

「もう一人は、この都市の市民ではないと?」

『はい。外見データを元に照合を行っても、該当する市民は発見できませんでした。ルナやラッド・マイヤーズとそう年齢は変わらない男性で、東京の学生服と思しき物を着用しています。隊長から通信が入る直前までは傷ついた少女と共に行動していたようですが、ルナが彼らを襲う変異体を駆除した直後に突然苦しみだし、意識を喪失しました』

「不法侵入……いや、この時期にはそもそも外部からの出入りは規制されているはずだ。そもそも一介の学生がリスクを負って行うメリットがない」

『尋問するにしても、あの苦しみ方からして脳に何らかのダメージを負っている可能性があります。ひとまずはラッド・マイヤーズで少女共々医療施設へ運ぶ予定ですが、念のため確認を』

『おいおいノインちゃん、その言い方じゃまるでオレが道具みたいじゃ――』

『黙れ移動足場』

『移動足場ぁ!? 流石にそれはひどすぎだろ!』

『ちょっとアンタたち、通信で喧嘩すんじゃないわよ全部久道さんに聞こえてんでしょうが!』

 ――お前の怒鳴り声も聞こえているんだがな。

 そうは思いつつも、口には出さない久道であった。

「そうだな、その判断でいいだろう。マイヤーズは生存者を施設へ搬送、クラッツァはその援護へ回れ。二人が抜けた穴は俺とレティエで埋める。D区のレティエを回収して向かうまで、カミカワはその場で待機だ。わかっているとは思うが、先走るなよ」

『うっす』

『了解』

『はい!』

「よろしい。では各自――」


『ちょっと待ちたまえ』


 声を聞いた瞬間、久道は眉間にしわが寄るのを禁じえなかった。

 突然の割り込み。

 それも仕事中には滅多に介入してこない人物の登場に動揺している様子の一同を代表して、口を開く。

「……どういう風の吹きまわしだ、フューリー。お前がこちらの仕事に口を出すとは」

『おや、秀一君はおかしなことを言うじゃないか。君たちガーディアンの直属の上司たる私が、仕事の内容に口を出すことがそんなに不自然かい?』

 不信感を隠さない久道の問いに対し、管理局では唯一彼を名前で呼ぶその女性はいけしゃあしゃあと答える。

 フューリー・バレンタイン。

 管理局の研究室長にして、実質的な都市の最高責任者。

 一般利用は不可能とされていた次元技術を日用化するに飽き足らず、個人携行の兵器レベルにまで昇華せしめた、紛れもない『天才』。

 ただし付き合いの長い久道から言わせれば、これ以上ない『自己中』である。

 何せ、ガーディアンに関する執務雑務を久道に散々押し付けておきながらこの口ぶりだ。言い訳のしようがないだろう。

「餅は餅屋じゃなかったのか?」

『餅? あぁ、東京で言うところの適材適所って意味だったかな。そうだね、そういう意味で言えば彼らは……いや、彼は私にとっての餅だ』

『えっと、フューリー室長のお知り合いなんですか?』

 おずおずと尋ねるルナリアに対し、フューリーは鷹揚に回答する。

『別に大したことじゃないよ。その少年は個人的な理由で特別に招待したんだが、どうも私の手違いでゲストコードの登録がされていなかったらしくてね。ノイン君が照合しても情報が出なかったのは多分そのせいだ』

『成程、そういうことでしたか』

 溜飲が下がったかのようなノインの声。

 個人的に外部の人間を誘致するなど越権行為も甚だしいが、フューリーの非常識さはガーディアンに就任して間もないフィーダ以外の全員が知るところである。ノインを含め、他のメンバーも彼女の言に納得したようだ。

 唯一、久道を除いては。

『まあそんな訳だラッド君。彼と……そうだな、ついでに怪我人の少女も一緒に私のラボへ届けてくれたまえ。二度手間になるし、軽傷なら私でも処置できるだろう』

『りょ、了解っす』

『良い返事だ。では、また後で』

 言うだけ言って、フューリーは一方的に通信から姿を消した。

 嵐が過ぎ去ったかのような沈黙がしばらく場を支配するが、仕事中であることを思い出した久道がそれを破る。

「聞いての通りだ。各自、己の職務を全うするように」

 慌てたような返事を幾つか聞いたのち、通信が切れる。

 聞く者が誰一人いなくなったのを確認してから、久道は今日一番の大きな溜息をつこうと息を吸い込み――


『溜息はやめたほうがいい。幸せが逃げるよ』

「っ!? ぐ、ごほっ」

 プライベートのチャンネルで差し込まれた音声に、盛大にむせた。

『ほら、さっそく不幸が』

 不幸であることには間違いなかったが、明らかに人災である上に確信犯だ。無線の向こう側でさぞ楽し気に笑っているだろう。

 言いたいことは色々あったが、ここはかねてよりの疑問をぶつけるべきである。

「一体、どういうつもりだ」

『ちょっとした茶目っ気さ。予測以上のリアクションに私はとても満足している』

「しらばっくれるなよフューリー。他の奴らは騙せても、俺を騙せると思うな」

 あくまで白を切るフューリーに対し、久道は無線越しに凄んだ。

 語調は他のガーディアンたちと会話する時と比べて多少崩したものになっているが、下手な人間ならその場で膝を折りそうなほどの迫力がある。フィーダなら泣き出しているだろう。

「何故、嘘をついた」

『彼らに聞かせられる情報じゃなかったからさ』

 その追及を真正面から受けておきながら、平然としているフューリーはさながら柳のようだった。

『流石に、私の独断で外部の人間を引き込むなんてできないよ。普段の行いが良いから、彼らは全く疑わなかったみたいだけど』

「悪いの間違いだな。つまり、端から俺を騙すつもりはなかったと?」

『だからこそ、こうして個別に通信をしている。仕事の邪魔はしたくないから、手短に要点だけ伝えるがね』

 ならさっきのふざけた前置きは省けよと声を大にして言いたかったが、相手は精神年齢が幼いまま大人になったような女だ。心身共に大人であることを自負する久道は一々突っかからない。

「……聞こう」

 それにこのような場面で、敢えて不必要な情報を伝えてくる相手でもない。

 彼女に人生の半分以上を振り回されてきた一方で、フューリーという人間を誰よりも深く理解しているのが久道秀一だろう。

『彼はそうだな、簡単に言うならば――』

 だがそんな久道をして、次に続いた言葉は再び咳き込まざるを得ない爆弾発言だった。


転移者トラベラー。極小の確立を勝ち抜いてこの世界に辿り着いた、とても幸運で、とても不幸な人間さ』

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