Chapter02 帰れない理由

 最初に目に入ったのは、眩しいくらいに白い天井だった。

 背中に柔らかい感触。俺はベッドか何かに横たえられているらしい。鼻を利かせると、薬品の香りが鼻腔をくすぐった。

「あ、れ?」

 状況を把握できず、俺はゆっくりと上体を起こす。首の下までかけられていた掛け布団がへその辺りまでずり落ち、水色一色のシンプルな寝間着が露わになる。いつの間にか着替えたんだったか。

 そもそも、俺は何をしていたんだっけ。

「ぐぉ……」

 思い出そうとすると、頭の奥の方がズキズキと痛みを訴えた。

 休日に昼過ぎまで眠ってしまった時の寝起きに、確かこんな感じの頭痛に悩まされたような気がする。

 だが、痛みのおかげで朧気ながら思い出せたことはあった。


 傷ついた少女。

 迫る変異体。

 それを撃ち抜いた閃光の雨。

 想像を絶する頭痛。

 俺じゃない、誰かが見た映像。


 そこから先の記憶はない。

 元の世界からこの世界へ来た時と同様、都市のストリートからベッドに寝かせられるまでの過程が抜け落ちている。まさか今日一日だけで二度もこんな経験をするとは……ってちょっと待て。

「あの子はどこだ……つーかどうなった?」

 気を失うまでは側に居たはずの、少女の姿が見当たらない。

 頭痛に悩まされた俺は別として、あの子は相当に危険な、一刻を争う状態だったじゃないか。

 慌てて俺は周囲に視線を巡らせ、


「やぁ」

「うわぁぁぁあ!?」

 その人物と、目が合った。

 学者然とした白衣に身を包んだ、二〇代後半と思しき女性。彼女はベッドのすぐ横で部屋の出入り口を背にし、キャスター付きの質素な椅子に座っていた。タイトスカートからスラリと伸びた細い脚が組まれ、眩しいくらいの太ももを晒している。

 男として非常に魅力を感じるところなのだろうが、手放しで喜ぶ気分になれないのは気のせいじゃないだろう。

 興味深そうに細められた紫紺の瞳はギラギラと妖く光っており、普通にしていれば美人なのだろう顔一杯に見る者を不安にさせる笑みを浮かべている。

 ベッドに寝かせられているはずなのに、何故か実験台に縛り付けられている気分だった。

 壁に背中を預けたまま警戒心を解かないでいると、おもむろに女性の方から話しかけてきた。

「ようやくお目覚めかい、友柄晴近君。中々起きないから、あと少しでこちらが眠ってしまうところだったよ」

「な、何で俺の名前を?」

「勝手ながら着替えのついでに学生証とやらを拝見させてもらった。何しろ君は血みどろだったからね。着ていた服と荷物は洗って返すから安心したまえ」

「そ、そうでしたか……えっと、あの」

「おっと! 自己紹介がまだだったね。私の名前はフューリー・バレンタイン。見ての通り研究者だ。訳あって医学も多少は齧っているが、専門の医者ではないのであしからず」

「は、はぁ」

「ちなみにここは病院じゃなくて、私が室長を務めるラボの一室だ。管理局……まあ一般的には『塔』と呼ばれているんだが、そこの一区画を丸ごと占有させてもらっている。少し広すぎる気もするが、それなりに有効利用させてもらっているよ」

「な、なるほど」


「そして気になっているだろう私の研究テーマなんだが、言ってしまうと次元に関する全てだ。これは一九六〇年に提唱された真次元理論に基づき最大情報によって次元をカテゴライズし更に人類史において最も偉大とされる情報量そのものを定義する次元エネルギーの発見により情報量を直接操作することで従来の物理法則に捕らわれない全く新しい技術である次元技術が誕生し近年では我が祖父ローグ・バレンタイン博士による零次元圧縮が革命的な――」

「ちょ、ストップ! ストーップ!!」

「ん?」

 変なスイッチが入ったのか、爛々と目を輝かせながら物凄い勢いで捲し立て始めたフューリーさんを、俺は必死で止めにかかった。

 どうやらこちらの声は届いたらしく、可愛らしくこてんと首をかしげてくる。

 もしかしてこの人、意外とポンコツか?

 何だろう。最初は得体のしれない恐怖があったのに今はそれほどでもない。

 良くも悪くも、研究者として純粋なのかな……。

 ともあれ、向こうが話を聞くポーズをとってくれたのは僥倖だった。

「あ、あの! 質問、いいっすか?」

「一向にかまわんよ。現在一般的に利用されている次元技術から、目下研究中の最新技術まで私なら全て答えられる。何しろ私が最先端だからな。何だったら次元技術に関して始まりの真次元理論から順番に――」

「いや、その次元なんちゃらとは全く関係ないです」

「……それだと自信はないが、まあ答えられる限りで答えよう」

 非常に残念そうな顔をしているのは、多分気のせいじゃない。

 不貞腐れていながらもようやく話を聞いてくれそうな状態になったので、まず一つ目の質問をば。

 これを聞かなければ、何も始まらない。

「えっと、フューリーさん」

「さんはいらない。フューリーでも室長でも、好きに呼んでくれ。あと、敬語はむず痒くなるからできれば止めて欲しいかな」

「じゃあ、フューリー室長。ここは……いや、この世界は一体、何なんだ?」


「ふむ、いきなり核心を突いて来たな」

 変化は劇的だった。

 質問を受けたフューリーの目に、再び怜悧な輝きが戻る。

 直前の緩んでいた状態とのギャップに思わず気圧されそうになったが、負けじと相手の視線を見返した。

 すると何が面白いのか、フューリーはまたも小さく笑う。

「既に感づいているようだが、多分君の推測は正しい。この都市の全てが、多かれ少なかれ日常と異なるものだったんじゃないか?」

「あ、あぁ……最初は夢か悪戯かと思ったが、あんな目にあった後じゃ今はもう疑っちゃいない。ここはやっぱり、異世界なんだな」

「君からすればだね。春近君のような存在を我々は転移者と呼び、現象そのものは世界移動と呼称される。原理などの難しい話はまだわからないだろうから簡潔にまとめると、元いた世界とは別の平行世界へランダムに転送される現象だ」

 パラレルワールド。

 単語自体は聞いたことはあるが、意味を正しく理解できているかは不安だった。

 一応確認をしておくべきだろう。

「平行世界って、時代やそこにいる人物とか地名とかは同じだけど、微妙に関係性とかが違ってたりするあれ?」

「概ねその通り。より一般化して言うならば、可能性によって分岐した異なる歴史を持つ世界といったところかな」

「異なる歴史か。例えば、ある時点で一気に技術革新が進んだとか?」

「その様子では、春近君の世界では真次元理論が提唱されなかったのだろうね。この世界、少なくとも都市の人間で次元技術そのものを知らない者などいない。ここでは電気やガスと同じ、生活インフラの一部だ」

「……その次元技術というのがいまいちまだピンと来ないんだよなぁ」

 今のところパッと思い浮かんだのが、路面に思い切り倒れた時にあんまり痛くなかったのと、宙に浮かぶ謎の映像技術。あとは例の≪アブゾーバー≫くらいか。

 さっきのマシンガントークの中でちらっと情報量を直接どうたらとか言ってたような気もするが、具体的に何ができるかさっぱり想像がつかなかった。

 まあいい。次元技術云々はあとで余裕があったら聞くとして、少し気になったことがある。

 というか、割と重要事項かもしれん。

「ここが平行世界ってことは、この世界には日本もあって、俺の知ってる人とかもいるんだよな」

「こちらの世界では主に東京と呼ばれることの方が多いが、まあ日本と言ってもいいだろう。そこになら、多分春近君の知人友人もいるかもしれないね」

「じゃ、じゃあ――」


「先に行っておくが、この世界の友柄晴近という人間は存在しない。だからもう一人の自分と出会うなんてことはないから安心したまえ」

 文字通り回答を先回りされ、俺は二の句が継げなくなった。

 まさか、心を読まれた? いやいやそんな馬鹿な……。

 困惑している様子がおかしかったのか、フューリーは少しだけ笑みを深めた。

「別に特別なことをした訳じゃない。文脈から次に来るであろう質問を予測したまでだ。脳から思考を直接読み取るなんて、専用の設備を用意しなければ出来ない」

「用意すれば出来んのかよ……ってそうじゃなくて、この世界に俺がいないっていうのはどういうことだ」

「そのまんまの意味さ。この世界の歴史において、友柄晴近という人間は生を受けていない。即ち、最初から存在していないんだ」

 フューリーは脚を組みなおしながら、先の言葉を続ける。

「これは零次元の基底情報……存在情報にかかわる問題でね。詳しい理論を話すと日が暮れてしまうからこれも簡潔に言うと、一つの世界に全く同じ存在は複数いられないという至極単純なものだ。よって春近君が世界移動してきた時点で、この世界の友柄晴近が存在しないことは観測するまでもなく証明される」

 ちなみにこれは都市の高等教育プログラムで習うことだよ、と。

 そうフューリーは締めくくった。

「難しい話はわからないが、要するにもう一人の僕はいないということか」

「斬新な表現だが、そうなる。満足のいく回答だったかな?」

「ああ、充分だ」

 別に自分から会おうと思って話を聞いた訳じゃないが、万が一こっちの世界にも俺がいたとして、この都市に来ていたとしたら色々と問題になりそうだと思ったのだ。

 ドッペルゲンガーの逸話があるように、自分と同一の存在と言うのは往々にして不吉なものである。遭遇しないならそれに越したことはない。

 それにこっちの知人友人にしたって、元の世界と同じ歴史を辿っていない以上そもそも見知らぬ他人である可能性の方が高いだろう。わざわざ会う必要もなさそうだ。

 したらば、次の質問に移るとしよう。

「俺と一緒に、酷い怪我をした女の子がいなかったか?」

「……春近君と一緒に保護された少女なら、別室で療養中だよ。ここに運び込まれてから既に一時間経つけど、意識はまだ回復していないみたいだね」

 少しだけ考えるような素振りを見せたのち、フューリーは虚空を見やりながらそう答えた。目線だけが左右へ移動して何かしら読み取っているようだが、俺には何も見えない。口ぶりから察するに、別室の様子をモニタリングしているのだろうか。

 だが、一時間も意識がないっていうのは相当に危険な状態なんじゃないか?

 俺が発見した時点でもだいぶ出血が酷かったし、その後の処置だって素人のうろ覚えだ。多少持ち直した気配はあったものの、危篤状態には変わりなかったはず。

「そう心配しなくていい」

 焦りが表情に出ていたのか、こちらへ視線を戻したフューリーが苦笑した。

「意識は戻っていないが、命に別状はないよ。君が眠っている間に私が処置しておいた。目が覚めさえすればすぐに退院できるくらい、体はすこぶる健康だ」

「え、マジで?」

「医療も日々進歩しているからね。あの程度なら傷跡一つ残らんさ」

「そ、そりゃまた」

 告げられたことの衝撃に、俺は言葉が出なかった。

 常々未来に生きている都市だと思っていたが、まさか医療まで非常にハイレベルとは。あんな致命傷でも一時間足らずで治っちまうのか。

 もう死にさえしなければ死ぬことはないんじゃないだろうか。自分で何言ってるのかわからなくなるけど。

 つーかこの人、専門の医者じゃないとか言ってたけど充分凄いな。

「むしろ面倒なのは目覚めた後かな。不幸にも彼女……シア・フリーゼは今回の騒動で両親を失っている。彼女には両親以外の親族がいないらしくてね。しばらくは管理局の預かりになるが、里親が見つからなければ施設行きだ」

「し、施設!?」

 こういう場面で出てくる施設には良いイメージが全くない。

 この人も科学の発展には犠牲がつきものだとか平気で言っちゃいそうな雰囲気醸し出してるし……。

 はっ、もしかして俺もヤバい?

 ヒャッハー貴重な転移者のサンプルだーとかならない!?

「そう身構えなくていい。別にモルモットにしようとか思っていないから」

「本当に? 頭に電極刺したりホルマリン漬けにしたりしない?」

「晴近君は私を何だと思っているんだ」

 これにはフューリーも呆れた様子を隠さなかった。

 流石に考えすぎだったかな。

 でも時々、俺を見る目が何かを観察するような感じになってるような気がして恐いんだよなぁ。知的好奇心に由来するものと、好意的に受け止めるべきか。

 まあ、少なくとも悪い人ではなさそうだ。今のところはこっちの質問にもきっちり答えてくれているし。

「施設と言っても、都市が運営する列記とした養護施設だよ。好ましい表現ではないが、シア君のような事例はこの世界ではありふれている。対応も板についたものさ」

 諸行無常だね、とフューリーは肩を竦めた。

「衣食住は保証され、望むなら教育プログラムも受けられる。巣立った後の身の振り方はそれこそ本人次第だ。まあ、彼女の意識が戻ったら一度挨拶くらいはしてもいいんじゃないかな」

「そう、だな。そうさせてもらうよ」

 とにかくあの子――シアが無事でよかった。あそこで諦めず、命を張った甲斐があったというものだ。

 後顧の憂いがないと言えば嘘になるが、これからは俺がどうこうできる問題でもないだろう。部外者である以前に、完全なよそ者だからな。

 せめてシアという少女の未来が明るいものであることを祈るばかりである。

「最後に一つ、聞いていいか」

「ああ、何でも聞きたまえ」

 それじゃあと、口を開きかけた時。


「失礼する」

 ノックと共に、フューリーの背後の扉が開く。

 断りを入れながら部屋に入ってきたのは、四〇歳手前くらいの男性だった。背筋の伸びた佇まいや引き締まった表情が、一部も隙の無い印象を与える。年は近くてもうちの父親とは大違いだ。

 しかし何よりも目を引くのはその服装。

 赤い鼻緒の草履に、藍の着物と黒い袴。帯を締めた出で立ちはまさに侍といった感じで、とても自然なレベルで着こなしている。

 それだけに、この未来感あふれる都市においては凄まじく浮いて見えた。

 フューリーにとっても予想していないことだったのか、若干驚いている様子だ。

「やあ秀一君、その恰好はどうしたんだい?」

「戦闘や事後処理後の汚れた格好で研究室には入れんだろ。それに、予めそこの少年が日本人であると聞いていたからな。少しでも馴染みやすいよう、なるべく日本的な服装を選んだつもりなのだが」

「私の言えたことではないが、君も大概ずれているな」

 何か間違っているだろうかと言いたげな表情の彼にジトッとした視線を送りつつ、「まあいいや」とフューリーが再び俺に向き直る。

「紹介しよう。彼の名前は久道秀一。都市が誇る脅威のテクノロジーで、現代に蘇った侍だ。最近のマイブームは生類憐みの令で、特技はハラキリ――あだっ」

「聞きかじった知識を適当に並べるな」

 あ、やっぱり適当だったんだ。

 現代に蘇った侍辺りまでならまだ信じられたが、続いた単語が滅茶苦茶だ。

「改めて、俺は久道秀一。この都市でガーディアンを務めている者だ」

 フューリーをチョップで制した久道さんが、改めて自己紹介をしてきた。

 ガーディアンが人間なのは予想していたが、あの時俺らを助けてくれたのは女の人だったような気が。

「あの、もしかしてガーディアンって何人もいるんですか?」

「都市の外へ出回る者たちを含めれば結構な人数になるが、都市に常駐するガーディアンは俺を含めて七人いる。君らを救助したのは私とは別の者だ。……そうだな、先に言っておこう」

 久道さんはそう言うと、フューリーと並び立つように前へと進み出て来た。

 近くで見ると身に纏う覇気がハンパない。見た目は日本人だし体格もそこまで厳つくはないのに、滲み出ているオーラが尋常じゃなかった。平凡な現代日本に生きる俺ですら、それをひしひしと感じる。

 ガーディアンをやっているということは、あの化け物ともう何度も戦っているということ。久道さんはその中でも百戦錬磨の部類になるのだろう。一挙手一投足が全く無駄を感させない達人のそれだ。

 下手に動けば斬られかねないという錯覚に陥り、身を強張らせる。

 これから何が起こるのかと息を飲む中、久道さんが動く――


「君の働きで一人の少女が救われた。都市を代表し、心より感謝する」

 腰から深く四五度。

 見事なまでに堂にはまった、最敬礼だった。

「……え?」

「本来、市民の救助は我々ガーディアンの職務だ。にもかかわらず、世界移動の直後で一も二もわからない人間に生存者の探索ならびに救助を一任するなど、言語道断」

「え、いや、ちょっと」

 あれ、この流れさっきも――


「そればかりか、非戦闘員である君を鉄火場に立たせてしまった。全ては全体を指揮した俺の不徳の致すところだ。本来なら責任を取ると共に働きに報いるべきなのだろうが、俺の権限で可能なことなどたかが知れている。フューリーの冗談ではないが、やれと言うなら今から腹でも切って見せて――」

「ちょ、ストップ! ストーップ!!」

「む?」

 頭を下げたまま段々と不穏なことを口走り始めた久道さんを、俺は必死で止めにかかった。

 どうやらこちらの声は届いたらしく、顔を僅かに上げて眉根を寄せている。

 何というデジャヴ。

 この人ら、ベクトルは違えど似た者同士か。

 とにかく責任だとかで切腹されても俺が困る。スプラッタ―な展開はもうさっきので懲り懲りだ。ここに来て変な武士道を発揮しないでいただきたい。

「感謝とか責任とか、俺は全然気にしてませんから! あれは結構なり行きな部分もあってですね、見つけちゃったのを見捨てるのは根目覚めが悪かったというか……それにほら、結局命を拾ってくれたのはガーディアンの人ですし、シアちゃんを治療してくれたのもフューリー室長ですし!?」

「実際同じ場面に遭遇すれば、誰もが一度そう考える。大半は悩んだ末に己を優先するし、それは恥ずべきことではない」

 久道さんはそこで一度言葉を切り、真っすぐに俺の目を見て、

「あの状況下で他人を優先できるのは本当に一握りの人間であり、君は紛れもなく一人の命を救った。それもまた人として正しく誇るべきことだろう」

「そ、そんなこと言われましても」

 どうしよう、ここまで手放しで褒め讃えられると非常に照れくさい。これがいわゆる褒め殺しというやつか。

 実際、俺自身どうしてあそこまでムキになったのかわからない。

 少なくとも、世界移動をする前の俺だったら自分の命を優先していたはずだ。死んでしまっては元の子もないのだから。

 でも変異体に迫られたとき時俺は確か……うーん駄目だ、よく思い出せん。

 まあこんだけ考えて思い出せないってことは、やっぱ大した理由じゃないんだろう。

 何となく嫌だったてとこか。

 でもこれをそのまま言うのってどうなんだ?

「……ふっ」

「っ!」

 答えに窮していると、元のように背筋を伸ばした久道さんが困ったように微笑んだ。

 この人の笑ってるとこ、初めて見た。

 でも気のせいだろうか。

 一瞬だけその笑顔に、物凄く悲しそうな翳りがあったのは。

「君は謙虚だな、友柄君。もし君のような人間が世界の大半を占めていれば、世界のしがらみも少しはなくなるというものだ」

「それはー、ちょっと大げさなんじゃないですかね」

「大げさなものか。君の爪の垢を煎じて飲ませたい奴が世の中にはごまんといる」

 そう言いながら久道さんはふと目を細め、フューリーへ鋭い視線を向けた。

「そうだろう、フューリー」

 放たれた声に含まれているのは、明確な怒りだった。

「おいおい秀一君、その意味ありげな視線はなんだい?」

「わかっていないとでも宣うつもりか。彼と会話をするさ中で確信したぞ。この様子では、最も重要な情報を開示していないな?」

「……あぁ、そのことか。まだ聞かれていなかったからね」

「も、最も重要な情報?」

 突然剣呑な雰囲気になった久道さんに面食らっていた俺だが、聞き捨てならないことを耳にしたので思わず聞き返してしまう

 もしかして、俺が今一番気になっているあれのことなのだろうか。

「しかしこれを春近君に伝えるのは少々荷が――わかった。私からきちんと話すからチョップはやめたまえ」

 フューリーは渋る素振りを見せたが、無表情で静かに手刀を構えた久道さんを前にしてあっさりと陥落した。

 やり取り自体はそこそこ微笑ましいのだが、何より久道さんが発する怒気が全然収まっていない。依然として緊張した状態であることには変わりなかった。

 室内で唯一余裕を失っていないフューリーが殊更異端であるとも言える。

「あー、先に知っておきたいんだが」

 だがその話題について触れるのはやはり気が進まないようで、若干躊躇いがちな切り出しだった。

 

 ざわりと、胸の中で何かが蠢いた。


「色々と事が落ち着いたら、晴近君は元の世界へ帰るつもりかい?」

「そりゃまあ、当然だろ。ていうか俺も丁度、どうやって帰ればいいのか聞こうと思ってたとこだよ」

 元の世界への帰還方法。

 これぞ正しく俺が求めていた、最後に質問しようと思っていたことだ。

 フューリーの説明から察するに、世界移動はそこそこ原理の解明された現象であると推測できる。ならば、こちらの世界へ渡ってきたように元の世界へと帰る方法だってあるはずだ。

 これが転生だったら死体が残っているだろうが、転移である以上向こうでの俺の扱いは完全に行方不明者である。

 家を出てから時計を見てないので大まかな時間感覚になるが、もう既に授業は始まっているだろう。無断欠席となれば親へ連絡がいき、そこから連鎖的に俺へと電話なりメールが来るのも想像に難くない。

 いくら繋がりやすさ業界一を謳う俺のスマホでも、流石に異世界間での通話は無理だろうし。西暦自体は同じでも、俺の世界の文化レベルはごく最近3Dテレビが流行り始めた程度だ。

 それもとも、こちらからなら連絡は取れるのかな。帰る準備や帰還そのものに時間がかかる場合は事情を説明するのが面倒くさそうだが、その間連絡なしになるよりは両親や友人たちを心配させずに済むか。

 出来れば俺を助けてくれたガーディアンの人に改めてお礼をしたりとか、シアちゃんが目覚めるのを見届けたりしたい気持ちもある。この辺のことは、必要な手続きとの兼ね合い次第だ。

「隠しても仕方のないことだ。単刀直入に言おう」

 だからきっと、この妙な胸のざわつきだってフューリーの返答を聞けば収まる。

 彼女が俺を見る目にある種の哀れみが混じっているのも気のせいだ。俺はそこまで相手の気持ちを推し量るのが得意じゃないし、今回も見当違いに決まってる。

 そうだ。もし時間がかかるようなら、諸々の用事を済ませた後に軽く観光させてもらうのもいいかもしれない。土産の一つでも持ち帰れば異世界にいた証明にもなるし、しばらく話題には尽きないんじゃないか?

 まあ俺含めて友人たちは割と飽きっぽいとこがある。いいとこ三日天下だろうが、別にそっからはいつもの日常が続いていくだろう。

 全部、元に戻るだけ。何も恐ろしいことなんてない。


 だってそうだろう?

 俺はただ、これから元の世界に帰る方法を聞くだけじゃないか。

 何をそんなに不安がっている。

 どうして体が震えている。

 どうしてこんなにも汗が冷たく感じる。

 どうして呼吸が荒くなる。

 どうしてフューリーは笑っていないんだ。

 どうしてどうしてどうしてどうしてどうして――――


 彼女はただ、淡々と。

 厳然たる事実であるかのように、告げた。


「君は元の世界には帰れない。理論上、不可能なんだ」


 ――――。


 思考が空隙で満たされていた。

 目の前が真っ暗で何も見えない。言われた言葉の意味がわからない。理解できない音の並びだけがひたすらがらんどうな頭の中で反響している。

 だがそれも何度も響いている内に心へ浸透し、侵食していく。

 ――帰れない。

 意味を理解していくにつれて、胸中で蠢いていたナニカが本性を露わにしていった。

 これは、恐怖だ。

 ――元の世界には帰れない。

 深い闇に捕らわれた体から熱が奪われ、血が凍り付いていく。凍えた心が、アイスピックで穿たれたようにひび割れていく。皮肉にもそれは、俺がこの世界へ来る直前に見た空と似ていた。

 ――俺は元の世界には帰れない。

 いっそこのまま壊れてしまえば楽になるのだろうか。

 全てを失った今、残された最後の一つ。

 自分自身さえ失えば、この恐怖からも解放され――


「落ち着け」

「――ぁっは!?」

 肩を強く握られた痛みによって、俺は恐怖の闇から引きずり出された。

 止まっていた呼吸が遅れを取り戻すように繰り返され、大きく胸が上下する。復活した視覚は病室めいた室内を正しく認識し、徐々に解凍されていく神経が肩に置かれた大きい手の存在を訴えている。

 長い眠りから覚めた直後の緩慢な動作で、俺は手から腕へと伝うようにその人物へと顔を向けた。

「久道、さん?」

「過酷な現実を突きつけておきながら、言えた義理でないのは委細承知している。だが、頼むから壊れるな。君が壊れてしまえば取り残された君の家族にも、未だ眠り続けているあの少女にも顔向けできない」

「……随分と、勝手なんですね」

 カラカラに乾いた喉から、辛うじてかすれた声が出た。

 言葉が荒んでしまったのは殆ど無意識だ。

「自覚している。その点で言えば俺もそこの女と同じ、汚い大人の一員だな。恨んでくれても構わない」

 真っすぐに俺を見据える、強い意志の籠った瞳。

 そこに僅かな揺らぎ――弱さを見たような気がして、俺は頭に上りかけた血が降りていくのを感じた。

「……いえ、大丈夫です。久道さんたちが悪くないのはわかっていますから」

 結局、俺が壊れ損ねたのは久道さんたちの都合だ。残された親のためだとか、救われた女の子のためだとか、綺麗な言葉を並べたところでそれは変わらない。

 全部わかっているからこそ、この人は取り繕わないのだろう。罵られ、謗られるのは覚悟の上だったのだ。恐らく、フューリーも。

 いっそ下手な言い訳でもしてくれれば悩むことなく恨めるのに、彼らは忌々しいまでに潔かった。

 これで怒ろうものなら、ただの八つ当たりだ。かっこ悪すぎる。あれだけ錯乱しておいて今更な気もするけど。

「……そうか」

 久道さんはただ一言だけそう呟くと、俺から離れ壁際へと後退した。

「一応、帰れない理由とかを聞いても?」

「それについては私から説明しよう」

 沈黙を保っていたフューリーが、自分の専門分野だからか会話を引き継ぐ。

「少し長くなる上、難しい話かもしれないが」

「構わないよ。自分のことだし、全部聞いた上で納得したい」

 詳しい話を聞かないまま下手に希望を見て、また失うのが恐いから。

 或いは、彼女の妙に頭へ入りやすい説明を聞いていれば少しは気が紛れるかもしれない。

 言葉の裏には後ろ向きな成分が多分に含まれていたのだが。

「ふむ、それはいい心がけだ」

 その答えが満足のいくものだったのか、フューリーは微笑みながら頷いた。


「君の帰還が不可能であると私が断じた理由は大きく分けて二つだ。まずは一つ目から紐解いていこう。先ほど私は、世界移動は別の平行世界へランダムに転送される現象だと説明した。ところで、この平行世界は一体どれだけ存在していると思う?」

「……説明するだけじゃないのか」

「ディスカッション形式の方がより理解が深まると思うがね。さあ、一〇秒以内に答えたまえ」

 突然質問を振られた上に時間制限までかけられ、思わず顔をしかめてしまった。

 その一方で、フューリーはすっかりいつもの飄々とした調子で秒読みを開始している。三〇分にも満たない短い付き合いだが、彼女の人柄はもう大体わかっていた。

 ここは俺が折れるしかないのだろう。

「平行世界が可能性で分岐するってことは、そんなの数えきれないんじゃないか? 可能性は無限大ともいうし」

「正解だ。例えば今朝、私はソックスを右足から履いた。そして可能性の分岐により、私が左足からソックスを履いた平行世界も最低一つ以上存在する。どうだ、どうでもいいだろう?」

「びっくりするほどな」

「そんなどうでもいい違いで、平行世界は鼠算式に増えていくのだよ。もちろんその違いが大きなイベントであるほど、世界の在り様も大きく変わる」


 もし旧人類が火を得ていなかったら?

 もしクレオパトラの鼻があと少し高かったら?

 もし織田信長が天下を取っていたら?

 もし人類が月に到達していなかったら?

 エトセトラ……。

 

 フューリーが挙げていく例はその影響に大小はあっても、実現すれば歴史に変化をもたらすであろう可能性だった。

 そして実際にそれが起きた世界が、俺たちが済む世界とは異なる別世界――すなわち平行世界として存在するのだろう。

 同じ時を刻みながら、遥かな発展を見せているこの都市のように。

「我々は未だ、平行世界を直接観測することに成功していない。本来交わらないからこそ平行と呼ばれているのだからね。そして仮に観測する目途がたったとして、果たして無限に漂う世界の中からたった一つの世界を任意に探し当てられるだろうか?」

「多分、無理だと思う」

「私もそう思うよ。有限であればどうとでもなりそうだが、無限様相手では少々というか、かなり分が悪い。あれは科学者の天敵だ。大きければいいというもんじゃないよ全く。秀一君もそう思うだろ?」

「俺に話を振るな」

 最後の方は妙に力強く語り、唐突に相手をスイッチするフューリー。

 壁に寄りかかって静かに話を聞いていた久道さんは、酷い頭痛を患ったような顔で呻く。

 如何なる偶然か、俺は彼の視線が一瞬だけ彼女のとある場所へ向けられたのを見てしまった。

 

 良く言えば、スレンダー。

 悪く言えば、起伏に乏しいそれに。


 ……この人も、普通に胸の大きさとか気にするんだな。

 てっきり科学に身を捧げた系の人だと思ってたし間違った認識ではないのだろうが、少々意外な一面であると感じた。

「次は二つ目の理由について解説するが、その前に前提条件を設定しておこう。ついさっき観測は不可能とした平行世界の観測手段が確立され、無限にある世界の内からこれまた偶然にも春近君がいた世界を特定できたとする」

 いやちょっと待てや。

「それができないから無理って話じゃなかったのか?」

「まあ聞きたまえよ。先ほど述べた理由は言わば、〝実現する可能性はあるにせよ途方もない時間を要する〟ということだ」

「……どれくらいかかる?」

「そうだな。現代技術の進化スピードと、将来的なブレイクスルーも視野に入れて大雑把に計算すると……」

 数秒間フューリーは瞑目し、

「どんなに軽く見積もっても千年以上だな」

「わかってたけど長ぇよ! 老化を通り越して風化するわ!」

「お互いに寿命が尽きているのは間違いないね。君を冷凍睡眠装置クライオスリーパーに放り込んで未来に託すというのもありかもしれないが、帰れるようになった頃にはもう元の世界にも居場所はないだろう」

「だ、だろうな、うん」

 さらりと恐ろしい仮定を示すフューリーだったが、それについては俺も同意だ。

 千年も経ってしまえば、いくら同じ世界だとしても俺を知る人間なんていないし、俺の大切な人たちだってみんな死んでいるだろう。最悪なケースだが、人類が存続しているかすらも怪しい。

 そもそも、自分を冷凍して保存するなんてゾッとしない話だ。

「ちなみに聞くけどさ、その冷凍睡眠って使われた事例あんの?」

「技術としては確立してるが、あんなもの世界が滅亡にでも瀕しない限り使われんよ。今なら記念すべき第一号となれるが――」

「いやいいです遠慮しときます!」

「賢明な判断だね。話を戻すが、仮に全ての条件をクリアし、いざ君を元の世界へ送る段階になったとする。実は、この世界から別の世界へ生物を転送すること自体は可能なのだよ」

「できるのか!?」

「送り先の平行世界を観測できない以上、理論上になるがね。この理論にも無視できない問題があるのだが、それを説明するにはまず『次元軸説』について理解してもらう必要がある」

「じ、次元軸説?」

 本日何度目かもわからない新しいワードが出現し、頭上にクエスチョンマークを浮かべてしまう。

 如何にも学術っぽい感じの単語だ。ただでさえ情報過多な今、あんまり専門的な話をぶち込まれるといよいよ脳がパンクしそうなんだが。

 メーターが振り切れる寸前ですという表情を作っていると、フューリーはやれやれとでも言いたげな顔で小さく息を吐いた。

「ならば表現を初等プログラム並みのレベルに落とそう……ミルフィーユというケーキを知っているか? 君の世界に存在しなければ別の例えを使うが」

「ミルフィーユなら知ってるし、食ったこともあるぞ」

 あまり目にする機会はないけど、結構美味いよなあれ。

「ならこのまま続けよう。率直に言うと、世界はミルフィーユのようなものだ。このケーキは生地とクリームが折り重なって複数の層を作っている訳だが、この一枚一枚の層が次元だ。一番下の層を基底次元、または零次元とし、そこから一つ上の層になる度に一次元、二次元、そして我々が住まう三次元へとシフトしていく」

 フューリーによって説明されたことを、何となく頭の中で反芻する。

 要は、エレベーターの階層のようなものなのだろう。階数が上がれば、表示される数字も変わるといった感じに。

 地上を一階ではなく零階としている点で微妙に違うが、認識そのものに致命的な齟齬はない……はず。

「そして一番上の層が次元の果てであり、正式には最終次元と呼ばれている。次元軸説とは、零次元と最終次元に挟まれた次元の連なりを軸と見立て、世界はこの一本の軸によって形作られているという説なんだ。ここまではイメージできているかい?」

「えっと、つまり世界は棒状のミルフィーユってことか?」

「実に初等生らしい解答だな」

「おい、今ちょっと馬鹿にしただろ」

 初等生がどれほどのもんかは知らんが、ニュアンス的には小学生並みと言われたような気がする。

 しょうがないだろ。

 俺は知識がゼロで、今の説明はレベル的に初等プログラムだったんだから!

「まあ棒でも柱でも何でも構わない。世界の上下には端があり、層状になっている。そして果てのない平面に次元軸が直立し、無数に生えているのが平行世界の構図だ。一本一本が世界で、平行に直立しているから交わらない」

 一度言葉を区切り、再び脚を組みなおして再開。

「ここからが本題なのだが、過去にとある人間がこの次元軸をひん曲げようとした」

「ひ、ひん曲げる?」

「そうだ。比喩でも何でもなく次元軸を強引に曲げて、その上端を別の平行世界に接続しようと試みた者がいたのさ。もっとも彼のいた世界では次元軸なんて考え方はなく、ただ単に時空歪曲実験と称して行われたそうだがね」

「……彼のいた世界?」

 世界をひん曲げるやら時空歪曲やらとんでもないスケールの話になってきたが、そんな中で一際俺の注意を惹いたのはその部分だった。

 彼という存在も気になるが、それよりも彼のいた世界という表現に引っかかる。

 まるで、この世界で行われたものではないとでもいうような。

 それこそ、いやまさか――

「お察しの通り、時空歪曲実験はこことは違う平行世界で行われたものさ」

 はっと顔を上げた俺を見て、フューリーが悪戯を成功させた子供のように笑う。

「そして実験を主導した彼……ライト・シェーファー教授こそ、この世界で確認された一人目の転移者。言うなれば君の先輩だな。彼の出現により時空歪曲の技術がこちらの世界へ流入し、他世界への干渉に一歩近づいた。しかし、問題はその成功率だ」

 ここに来て、フューリーの表情に初めて暗澹たるものが降りて来る。

 思い出すのも嫌だと、そう顔に書いてあった。

「ライト教授曰く、彼らの世界は既に生命が存在できる状態にあらず、新たな安住の地を求めて世界移動を敢行したらしい。資格を得てしまったライト教授を含む一〇億人もの人々が、一斉にこちらの世界を目指した。だが――」


 ――まともな状態で現出したのは、ライト教授ただ一人だったよ。


 フューリーは意図せずしてか、額に手を当てて天井を仰いでいた。

 少し離れたところで耳を傾けていた久道も苦虫を噛み潰したような表情になっている。

 彼もまたフューリーと同じものを見て、今それを思い出しているのだろうか。

「大半はこの世界に現れすらしなかった。十中八九、こちらの世界に同一の存在がいたんだろうな。世界そのものに拒絶されて元の世界に帰れたのか、はたまた今もなお世界と世界の狭間を彷徨っているのかは確認のしようがない。まあ、消滅したと考えていいか」

 消滅。

 下手をすれば死よりも恐ろしい響きがあるその言葉に、背筋が冷えた。

 一歩間違えれば、俺もそうなっていた可能性があったのだ。

 俺が生まれていなくてよかったと、ある種矛盾した理由で安堵してしまうのも仕方のないことだと思う。

「そしてこちらの世界に出現した人間は、ライト教授を除いて全員死亡した。都市の外壁付近で彼は発見されたんだが、その周囲には原型を留めていない死体がざっと一〇万人単位で散らばってたよ。あれは酷かった。流石の私も、その日は何も食べれなかったよ」

「ど、どうしてそんな……ただ世界を移動しただけじゃないのか?」

「春近君や彼らが考えていたほど、世界移動は単純なものではなかったのさ。彼らの間違いは、捻じ曲げて接続した世界をただのパイプと勘違いしたことだ。彼らは移動の過程で通過する次元について、一切考慮していなかった」

 ぎしっ、と。

 背もたれを鳴らしながら、フューリーが姿勢を直す。

 未だ表情は優れていなかったが、話す調子に変化はない。

「次元にはそれぞれ最大情報という、その次元が司る情報がある。零次元は『存在』。一次元は『質量』。二次元は『平面』。三次元は『空間』といったようにね」

「ああ、何となくわかる。よく『二次元の嫁』とか言うよな」

「……さっきといい、君の世界の表現は中々エキセントリックだな」

「そうかな?」

 まあ、俺の世界にあったゲームとかアニメとかの文化がこっちにあるとも限らない。慣れ親しんだネットスラングはこっちの世界ではあまり使われていないのかも。

「三次元より上はどうなってんだ?」

「勿論これより上の次元にも最大情報は存在しているが、今もなお四次元の『時間』以降の特定はされていない。ただ、時空歪曲実験による転移者の出現から、最終次元は『可能性』。世界の在り方を司っているとされている。彼らは最終次元の情報を操作することで異なる可能性を持つ世界に接続し、移動しようとしたわけだ」

 世界の在り方ねぇ。

 つまり、「この世界はこのような世界である」という情報ってことか。

 俺の知識に当てはめるなら、ふしぎなポッケから出てくる例の公衆電話で「もしも○○だったら」と言う際の○○がそれに該当するのだろう。

 あれはそれこそ自由自在に平行世界を移動していたことになるのだが、現実はそう甘くないらしい。

「いざ世界移動しようと元いた世界を旅だった彼らを待ち受けていたのは、無数の次元からなる層だ。ここで質問だが、春近君は宇宙に放り出されて生きる自信があるかい?」

 ふっ、何を聞かれるかと思えばそんなことか。

 考えるまでもない。

「無理に決まってんだろ!」

「それは何故?」

「だって空気もないし重力もないし……とにかく、人の生きれる環境じゃ――」

 言いかけて、俺はフューリーの言わんとしていることに気づいた。

 宇宙に放り出された人間は生存できない。人間が生きるために必要なものが存在していないからだ。

 それがもし、三次元より上の次元にも言えたら?


「ふむ、もう随分と頭が回るようになったようだね。安心した」

「え?」

 ふとフューリーが小さく頷きながら、ほっとしたように笑んだ。

 藪から棒に言われた言葉の意図を計りかねてつい見つめ返していると、彼女は極まりが悪そうに目を逸らす。

「秀一君も言っていたが、それなりにショックを与えた自覚はあるのだよ。放っておけば飛び降りかねない顔をしていたしな。だから、私との対話で多少なりとも気が紛れてくれたようなら何よりだ」

「……」

「何だねその目は」

「あ、いや。フューリー室長も一応そういう気遣いは出来るんだなーって」

 正直言って、かなり意外だった。

 解説一辺倒ではなく適宜俺に話を振ってきたのも、彼女なりに頭を使わせてショックから遠ざけようとしていたのか。

 なるほど、そういう意味でなら確かによく効いた。

 帰れない理由をきっちりと説明されていく内に、何となくそれを受け入れ始めている自分がいるのだ。

 もうさっきのように、自暴自棄な思考へ陥ることはないだろう。

「ハッハッハ、何を言うんだい春近君は。私ほど他人に気を使っている人間なんて、都市どころか世界全体でも希少な部類だよ?」

 俺の返答を聞いたフューリーは、調子を取り繕うかのように嘘くさい笑い声を上げる。

 部屋のどこからともなく、「嘘つけ」と小さく呟く声がした。

「では説明に戻ろう。もう気付いているだろうが、四次元以降は根本的に人間が本来いるべき三次元空間とは全く異なる理が働く。とは言え、高次元に晒されたからと言ってすぐに死ぬわけではない。上の次元へ行くにつれて、存在自体が歪んでいくのさ」

「歪むと、どうなるんだ?」

「どうもならない」

「は?」

「少々表現が悪かった。歪むというよりは、その次元に適応するんだ。四次元を通過する際には、四次元の生物として再定義される。以降も同様に、適応を繰り返しながら最終次元を通過し、こちらの世界の三次元空間へと吐き出されるわけだ」

「……話が見えてこないんだけど」

 それが原因で大勢死人が出たという流れじゃなかったのか。

 ちゃっかり適応しちゃってるんですが。

 今の話を聞く限りでは、何か全員生き残りそうなんだが。

「では簡単な物理の話をしよう。位置エネルギーは知っているかな?」

「それくらいなら知ってる。一応高二なんで」

「高二? ああ、高等教育の二年目か。なら問題ないだろう」

 一応、こっちの世界にも普通に高校とかはあるのか。

 でもさっきは初等プログラムとか言ってたし、学校に通う形式ではなく通信教育的なものなのかもしれない。

「物体は高い位置にあればあるほど、大きな位置エネルギーを持つ。そしてこれは次元でも同じことが言え、私たちは次元における位置エネルギーに該当するものを、次元エネルギーと名付けた」

 次元エネルギーという単語そのものは、最初の方にチラリと聞いた気がする。情報量を直接どうたらするとか、そんな感じだったかな。

 まだあれから一時間すら経っていないというのに、随分と久しぶりに感じるのだから不思議だ。

「高い次元にある存在ほど、大きな次元エネルギーを持つ。では高所にある物体を落下させると、物体はどうなる?」

「ものにはよるけど、大抵壊れて……って、まさか」

「そのまさかだ。物体自身が持つ位置エネルギーによって物体が破壊されるのと同じように、最終次元から三次元へ急激に落とされた存在は、自らがもつ次元エネルギーに殺される。発生する現象は落下ほど生ぬるくはないが、死ぬことには変わりない。君が帰れないと断ずる、第二の理由がこれだ」

「なら、ライト教授はどうして生きていたんだ?」

「諸説あるが、もっとも有力なのは彼が発生した次元軸の歪みの中心にいたということだな。物質にも言えることだが、歪みというのは中心に行けば行くほど小さくなる。次元の影響力からして僅かにでも中心からずれれば死んでいただろうし、正しく奇跡の産物だ」

「そうか……なぁ、フューリー室長」

「何かね」

 

「俺は、どうしてここにいるんだ?」

 フューリーは沈黙した。

 流石に言葉が足りないと思い至り、加えて述べる。

「俺の世界じゃ、時空歪曲実験なんて大それたこと出来ないんだよ。技術的にも、多分法的にも」

 もしそんな技術が開発されていたら今頃世間は大騒ぎになっているし、あったとしても一般市民が暮らす住宅地で許可なく使うなんてことは不可能だろう。。

 だとすれば、こっちの世界から干渉されたと考えるのが自然だ。

「それに俺、ここに飛ばされる直前に変な叫び声を聞いて、しかも空を見たらガラスみたいに割れてたんだ。これって何か関係あるのか?」

 どうして突然こんなことを聞こうと思ったかと言えば、彼女の言う奇跡という言葉が自分に当てはまるとは到底思えなかったからだ。

 ライト教授は実験を主導する立場にいた。だからこそ自然として歪みの中心にいれたことも想像が付き、ある意味生き残ったのは必然だったのではないかという気すらしてくる。

 対して、俺はどうだろう。

 その辺を探せば履いて捨てるほどいる高校生。特別な技能はなく、強いて言うなら他人より少しだけ前向きなくらい。

 もし俺がその時空歪曲とやらに巻き込まれたら、それこそ一〇億回死んだって生きたままゴールにたどり着くことは出来ないだろう。所詮、凡百の人間だ。

 そんな俺が五体満足?

 絶対に、何らかの意図が働いているに違いない。

 というか元より、神とか奇跡とかはあんまり信じない質なのだ。

 そして目下一番怪しいのが、あの叫びと亀裂である。

 専門家のフューリーなら、何かしら心当たりがあるんじゃないかだろうか。

「叫びに、亀裂か」

 そう誰にでもなく呟きフューリーはしばらく考えてから、

「まず、現行の技術でこちらから平行世界の人間を狙って連れ出すことは不可能だ」

 ハッキリと、そう断じた。

「え、そうなのか?」

「勘違いしているようなら訂正しておくが、時空歪曲によって行えるのは元の世界から別の世界へ生物や物質を一方的に送ることだけだ。君が言わんとしているのは、それこそビルの屋上から手を伸ばして地上にいる人間を捕まえろと言っているようなものだぞ」

 一瞬それが可能そうな海賊が頭に浮かんだが、奴は実在する人物ではない。

 そういえばあくまで繋がるのは元の世界の最終次元と、対象となる世界の三次元だったっけ。なるほど、理にかなっている。

 物は高い所から低い所へ勝手に落ちるが、その逆はあり得ないからな。

「時空歪曲技術自体も、危険性が高すぎるから国際的に禁止されている。それ以前にだ。私は最初に平行世界を観測し、干渉する術はないと言ったはずだが?」

「え、でもさっき出来るって――」

「それも二つ目の理由を説明するための前提条件だと言っただろうに」

「あー……」

 やっべー。

 ナチュラルに忘れてたわー。

 そういえば一つ目の理由がまさにそれでしたわー。

「春近君はあれだな。三を聞いて二を忘れるタイプと見た」

「うぐぐ、割と的を射ているだけに何も言い返せない……!」

「まあ出来の悪い生徒というのもそれはそれで教え甲斐があるものさ。私は気にしていないよ」

 はい、俺はたった今フューリー先生に出来の悪い生徒認定されました。

 あー、時間巻き戻らねえかなぁ。

「それで君が聞いて、見たという叫びと亀裂についてだが」

「そ、そうだ! そっちについては何かわかります?」

「さっぱりわからない」

「え」

 何かどっかで聞いたようなセリフだ。

 もしかしてこの後、「実に面白い」とか言って床や壁に方程式とか書きまくる展開なのか。

 壮大なBGMが脳内に流れ始めるが、今はそんなことをしている場合ではない。

「えーっと、わからないっていうのは?」

「そのまんまの意味だよ。私はこれでも次元技術に関しては最先端を自称できるし、件の時空歪曲についてもライト教授が存命している間に吸収できる限りの知識は吸収したという自負がある」

「……お亡くなりになってたのか」

「もう随分と前の話さ。そしてそんな私ですら、晴近君が話してくれたことに該当する現象を特定することができなかった。これがどういう意味かわかるかな?」

 えーっと、うーんと。

 ……うん。

「手詰まり!」

「その通り!」

「何だそりゃぁ!?」

「完全な推論になるけど、既存の技術では説明できない全く新しい現象に巻き込まれたとしか言いようがないね。もしかしたら、転移者とカテゴライズすること自体が間違っている可能性もある」

「ぐぬぬ……」

 腑に落ちないが、フューリーが嘘をついているとは思えない。

 しかしそうだとすれば、俺ってばとんでもなく不幸なんじゃないだろうか。

 ちくしょう、こんなことになるなら異世界に飛ばされる前に彼女の一人でも作っておけばよかった……ん、待てよ。

 別に彼女ならこっちの世界で作ればいいじゃん。別に死んだわけでもあるまいし、俺もまだ一七歳。充分に可能性はあるんじゃないでしょうか。

 むしろ下手に元の世界で彼女とか作ってたら余計に悲しませることになってたろうな。良かった、俺のために悲しむ女の子はいなかったんだね。

 ああでも悲しむといったら親とか友達がいるか。でもこれに関してはマジでこっちからじゃどうしようもない。所詮一世代前のスマホでは、次元の壁なんて越えられないのだ。

 俺も前を向いて生きるから、父さんと母さんにも強く生きてもらいたい。


 つまり、俺が今から考えなければいけないのは――

「君が返れない理由についてはこれで以上だ。ここからは、春近君の今後の処遇について話させてもらおう」

「おぉ、俺も丁度それについて聞きたかったんだ」

 フューリーが出した話題は、実にタイムリーだった。

 この人、実は本当に俺の心読んでるんじゃないか?

「とは言ったものの、転移者というのはこの世界にとってかなりのイレギュラーでね。特に春近君の場合は特殊なケースであることも考えて、非常に扱いが難しい」

「それはまあ、何となくわかる気がする」

 これが漫画やゲームの場合は何らかの目的が設定されている訳だが、俺にそんなものはない。異世界に放り出されるだけ放り出されて、後はご勝手に状態だ。

 よって当面の目標は、取りあえずこの世界で生活していくことになる。

 しかし俺には生きていくのに必要な金がない。

 財布の中身は小銭を除けば、英世さん五人に虎の子の樋口様が一人。全員の力を合わせてようやく諭吉神に至るといったところ。でもこの世界で通貨として使えなきゃケツを拭く紙にすらなりゃしない。

 やっぱり就職するしかないか?

 だが今の俺は、身元不明の高校中退おまけに常識知らずという数え役満だ。

 ……こんなプロフィールの男を雇ってくれる会社なんてありますかね?

 教育を受けるにしたって金がいるし、金を稼ぐために金が必要という良くわからないが絶望的なことだけは伝わる状況。

 あかん、いきなり人生ハードモードや!

「随分とお悩みの様子の春近君に、私から二つの提案をしよう」

 あれでも駄目これでも駄目と唸り続けている俺を見かねてか、フューリーはそう切り出してきた。

 垂らされた蜘蛛の糸にしがみ付くが如く全力で振り返ると、今では天使の微笑にすら見えるニヤニヤ顔で指を一本立てて来た。

「まずは一つ目。研究室の職員としての雇用……と言うよりは実質私個人の助手だな。給料は普通市民よりも良いし、必要な知識は私が手ずから授けよう。授業料は無料だ」

「おお!」

 食いついた一方でどんなブラック案件が言い渡されるかと思っていたが、随分と気前のいい条件だ。今の詰みっぷりを考えたら渡りに船と言っていい。

 もはや二つ目を聞く必要なんて――

 

「ただし、管理局からは出られない」

「ファ!?」


「晴近君は都市の正式な市民として登録されていないから、どうせ都市に繰り出したところで何も出来ないよ。市民として登録しようにも、君の身元を保証する人間も品もこの世界には存在しないしね」

「そ、そこはフューリー室長の権力とかでどうにかなったりは?」

「これでも管理局での地位はそれなりに高いはずなのだが。研究以外の全てを他人に放り出してるからか、こういう時にあまり強く出られないのだよ。いやはや、世知辛い世の中だね」

「覚えておくといい友柄君。普段の行いが悪いとこうなる」

 口を挟んできた久道さんの言葉は、中々に含蓄があるものだった。

 態度とかから薄々感づいてはいたけど、どうやら久道さんもこの人に散々振り回されてきたタチらしい。

「まあそれ以外にも、君を目の届く範囲に留めておきたいという理由もある。転移者である晴近君の存在はなるべく他国に知られたくないのだよ」

「その心は?」

「さっきチラリと言ったが、転移者の扱いは非常にデリケートな問題だ。君の先輩であるライト教授は持ち込んだ技術によってこの世界の発展に貢献した訳だが、他世界の人間として生物的な価値も高かった」

「新種の生き物みたいなもんだよな、確かに」

「彼の場合は持っている知識に価値があったからこそ、こっちでも学者をやれたんだ。とても残念なことに、三を聞いて二を忘れるような君にはその方面で期待はできない。しかしサンプルとしての希少性で言えば、それこそ新種の生き物にも勝る」

「……もしバレたら、俺ってどうなっちゃいます?」

 もうだいぶ予想はついているのだが、確認の意味も込めて聞いた。

 でもほら、相手も同じ人間だし、ね?

 命に関わるようなことは流石に――

 

「市民ではない者を保護する制度はこの都市にないからね。見つかって連れ去られそうになっても手の出し様がないし、他国の腕の悪い科学者に弄ばれてしまえば良くて一生モルモット生活、悪くて解剖されて標本コース――」

「ギャー!?」

 途中から余りの恐ろしさに、耳を塞いでしまった。

 つーか想像を超えて悪かった!

 人道も減ったくれもねえ……おのれマッドサイエンティスト共め、てめえらの血は何色だー!


 俺が落ち着くのを待ってから、フューリーは話を再開した。

「君を管理局の外に出さないというのは、そうならないための処置さ。研究室は私に管理が一任された、一種の治外法権だ。私の管理下にいる限りは、安全で安定した生活を約束しよう。ちょっとした検査などはするが、君を傷つけることはまずない」

「……一応、二つ目の方を聞いてもいいか?」

 話を聞く限りでは、身の安全を考えた場合もう管理局の中で一生を過ごすことがほぼ確定っぽい。ただしそれには自由が伴わない。

 管理された生活は、果たして生きていると言えるのだろうか?

 それに最初からその方法しかないのならば、わざわざ「二つの提案」なんてしないはずだ。

 俺が待つ中、フューリーが二本目の指を立てる。

「もちろん。二つ目の提案だが、もしこちらを選択した場合、君はこの都市における身分が証明される。市民と同じように都市のサービスを享受することが出来るし、給料も管理局の職員と比べても高い。望むなら住む場所だって提供できるし、今なら豪華特典として私の授業を無料で受ける権利をあげよう」

「そのために、必要なことは?」

 フューリーが語ったそれは、一つ目の提案と比べても破格の条件だった。

 給料は良いし、住む場所もくれるし、おまけに勉強も見てもらえる。ていうかどうあがいても勉強は見てくれるのか。

 何より重要なのは、身分の保証――この世界における、自由だ。

 ただしここまで話を聞いた俺には、それが決して理想的な選択肢でないことがわかっていた。

 往々にして、自由とは責任を伴うものである。


「君がガーディアンとして、都市に雇われること」

 ――この場合、引き換えになるのは身の安全だ。


「ガーディアンというのは通称で、正式には臨床技術試験員……つまり結局のところ私の管轄下なのだが、その扱いは通常の研究員とは全く異なる。主な職務は研究室が開発した次元兵器の実地試験。即ち、変異体との戦闘だ」

 変異体。

 異形の怪物。

 都市の一画を地獄に変え、俺自身も殺そうとしたその存在は、未だ記憶に新しい。

「変異体は大体月に一度、どこからともなく世界中に現れては人のいる場所を目指して侵攻してくる。何のためかはもう見ただろうから言うまでもないね?」

 わかり切ったことの確認に、俺は静かに頷いた。

 つい一時間前に、身をもって体験したばかりだ。

「奴らの厄介な所は、外壁の内側にまで直接出現するということさ。時期が近づけば外出の自粛を訴えるが、市民にも自分の生活があるし、長期間引きこもる訳にはいかないものだっている」

「だから都市を出歩いてる人が少なかったのか」

「そこまでしても不定期なことに変わりはない。人的被害は一割以下とはいえ出てしまうし、運が悪いときは最初の出現から三日後なんてこともあった。あの時は安全な局内も阿鼻叫喚の騒ぎだったよ」

 今日のあれですら、取りうる限りの対策を取って臨んだ結果だったらしい。

 あれで最小限の被害と言うのなら、当時の惨劇は計り知れないものだ。

 どうしてこんな危険な場所に住む人間がいるのかと一瞬考えたが、フューリーが「世界中に現れる」と言ったことを思い出す。

 恐らく変異体の脅威は都市特有のものじゃない。どこにいようが、等しく襲い掛かる天災なのだ。

 ともすれば、少しでも安全な場所――ガーディアンに守護された都市に人が集まるのも自然なことなのだろう。

「それに直接現れる奴以外にも、外壁に接近してくる変異体の駆除もしなければならない。我々は市民が捧げた血税の分、実際に血を流して報いるという訳さ」

「なるほど、結果的に都市を防衛してるから『ガーディアン』と」

「単に戦力として部隊を編成してしまうとうるさい外野がいるのでね。あくまで技術試験の体で変異体に立ち向かっているというわけだ。普通に考えて侵略なんぞ欠片もメリットはないのだが、そこは大人の事情ってやつさ」

 大人の事情という言葉は、万国ならぬ万世界共通らしい。

 実際さっきのレーザーは凄かったし、あんな兵器を大量に所持する軍隊なんて存在したらそりゃ警戒するし、介入もするだろう。

「危険な義務を背負う分、ガーディアンのライセンスは普通市民よりも強力だよ。身分証明としても申し分ないし、ガーディアンだけが利用できる特権もある。何より、研究室の所属だから雇用も評議会を通さず私の独断で可能だ。役得だね」

 ただし、と。

 フューリーは笑顔を引っ込めて付け加える。

「この選択肢は君の安全を保証するものではない。他国からの干渉は避けられても、直接的な命の危険に曝され続けることになる。今でこそ減ってきてはいるが、殉職者もそれなりに発生する職業だ」

 語るフューリーの顔は、直前とは打って変わって真剣そのものだった。

 確かに、笑って話すような内容ではない。

 ある意味――いや、紛れもなく俺の今後の人生がかかった選択である。

「最終的な決定権は春近君にある。別にここで今すぐ答えを出せとは言わないし、何だったら日を改めるかね?」

「いや、もう決めた」


 自由を捨てて、確実な安定を取るか。

 命を懸けて、この世界を全力で生き抜くか。

 答えはもう、決まっている。

 

「ガーディアン、やってみるよ」

「それは、本気で言っているのかい?」

 ――撤回するなら今の内だぞ。

 俺を見るフューリーの目は、きっと最後通告だ。

 しかし俺の決定は変わらないし、今更撤回する気もない。

 確固たる意志を込めて、見返してやった。

「折角新しい世界で生きていくなら自由にやりたい。管理されて生かされていくよりは、自分の力で生きていきたいんだ」

「君は元の世界ではただの学生だったのだろう? 今朝は運良く生き延びたようだが、あんな幸運は何度も続かない。何より、あれを一度目の前にして恐怖はないのかい?」

「……そうだな」

 実のところ、変異体に対する恐怖心は驚くほどなかった。

 恐ろしい存在であるということはわかっている。奴らは人を襲い、喰らう。現場を目撃してはいないが、その残骸は腐るほど見た。自分もああなるかもしれないと考えたら気分が悪くなる。

 悪くなるが、その程度だ。

 どうしてだろう。一度極限状態に置かれたことで、恐怖を感じる機能が麻痺してしまっているのだろうか。

 結局、素人の俺がいくら考えてみてもわからないことだ。


 でも、仮に一つだけ。

 明確にこれだと言える決断材料があったとするならば。

「久道さんにお礼を言われた時、正直どう反応していいかわからなかったんだ」

「む?」

 唐突に名前を呼ばれた久道さんが、眉根を上げてこちらを見て来た。

 さっきの恥ずかしい気持ちがぶり返してきたが、構わず続ける。

「正直言って、あの時どうしてあんな無茶が出来たのか今でもわからないし、最終的な治療も人任せになったから自分で助けたって実感も薄くてさ。なのにべた褒めされるもんだから、恥ずかしかったり困ったりで……」


「でも、やっぱり嬉しかったんだ」


 この世界に飛ばされて、最初に成したことを伝えられて。

 心の底から感謝されて。

 そんなの、嬉しくない訳がない。

 自分の行ったことに意味があったと認められて、喜ばないはずがなかった。

「何の理由もなくこの世界に来ちまった俺だけど、少なくとも来た意味はあったって思えたんだ。俺がこの世界に来たからこそ、一人の女の子が救われたって考えるとさ」

 或いはこれも、元の世界に帰れないという事実から目を逸らすための方便なのかもしれない。綺麗な言葉で飾って、辛い現実を押し隠そうとしているだけなのかもしれない。

 ――なんだ、久道さんたちと一緒じゃないか。

 それでも構わない。

 全てを失って、それでもたった一つ残った自分の命だ。

 これくらいは、俺の勝手に使っても文句はないだろう?

「俺は俺の意思で、元の世界に置いて来た人たちに胸を張れる生き方をしたい。そのためだったら変異体だろうが何だろうが、幾らでも相手してやる」

 真っすぐにフューリーの目を見て、俺はそう言い放った。


 言葉を真正面から受け止めた彼女は数秒間黙り込み、おもむろに手のひらを上に向けて。

「……左腕を出したまえ」

「え?」

「左腕だ。ほら、手首が上を向くように」

「えっ、こ、こう?」

 無表情なまま要求するフューリーの圧力に困惑しつつ、俺は言われるがままに左腕を前に差し出す。

 

 直後、俺は眼前の人物から確かに「ニヤリ」という擬音を聞いた。

 彼女の左手が閃き、認識するよりも早く俺の手首を掴む。

 目の前で豹変したフューリーが、いつの間にか白衣のポケットに突っ込んでいた右手を高速で引き抜き、

「ちょ――」


「えい」

 カチッ、プシュー。

「ホワァァァァァァアア――!?」


 流し込まれた!

 左手首から変なの流し込まれた!

 痛くも痒くもなかったけど血管の中を何かが流れていったー!?

「おいおい、男の子が無針注射器程度で泣くんじゃない」

「泣いてねえし! つーか何だよ今の! 俺に何をした!?」

「まあ落ち着きたまえよ」

「落ち着けるか!」

 俺の抗議を無視し、空になった水鉄砲みたいな注射器を片手で弄びながらフューリーは虚空に視線を走らせていた。

「ナノマシンによるBCブレインチップ形成進捗八割、九割……完了。生体コード生成。室長権限によりガーディアン・ライセンス発行。ならびにライセンス情報を用いて友柄晴近の市民データを作成、登録」

「お、おぉ?」

 何やら物凄い勢いでブツブツと呟きながら目をキョロキョロ動かす絵は、中々に凄まじい。少なくとも、俺の追及は勢いを失った。

「≪リンカー≫とライセンス、並びに生体コードを紐づけ――完了。……これで良し。春近君、ちょっと瞬きしてみてくれ」

「え、こう――ってうわ!」

「その様子なら、滞りなく終わったようだね」

 フューリーの声は、既に届いていなかった。

 それほどまでに、瞬きした直後の世界は一変していた。

「左端に映ってるこれはデジタル時計で、反対側にあるのはメール、なのか? てか情報だらけで前が見えねえ! どうなってんだこれ!?」

「不必要な情報は意識すれば消せる。各アプリケーションの詳細は後で右下のメニューでも見てくれればいい」

「……本当に消えた」

 視界の半分以上を占拠していた地図っぽい何かとか、上の方で流れていたニュース的なもの等は「消えろ」と念じれば視界から消失した。ひとまず時計とスペースを取らないメールボックスっぽいものだけを残し、視界を確保する。

 突然の変化に興奮しっぱなしだが、原因はハッキリしていた。

「これって、さっきの注射のせい?」

「ガーディアン専用のナノマシンだよ。普通市民に投与されるものとは違って、形成されるBCにガーディアン・ライセンスの情報が付加される。晴近君用の≪リンカー≫も登録したし、これで晴れてガーディアンの仲間入りだ」

「……って待て待て待て」

 この際、勝手に頭の中身を改造されてたっぽい話はスルーしてやる。

 一番聞き捨てならなかったのは、

「今ので終わり?」

「うむ」

「手続きとかそういうのは!?」

「今この場で終わらせたよ。なぁに、専用ナノマシンと私さえいればいつでもどこでも、手軽にガーディアンを造りだせるのさ」

「久道さん、これって越権行為にならないんですか!?」

 あまりにも横暴が過ぎると思って、一連の出来事を静観していた久道さんに意見を求める。

 しかし、彼もどこか諦観に近い面持ちでポツリと。

「科学者としてフューリーの存在は唯一無二だ。故に管理局内での権力も実質的な最高峰であり、正直に言うが彼女に意見できる人間なんぞこの組織にはいない」

「いやぁ、秀一君は嬉しいことを言ってくれるじゃないか」

 わざとらしく喜ぶフューリーを、久道さんはひたすら苦い顔で見ている。

 ふむ。つまりこの人を止められる人間なんて誰一人いなかったと。

 ほーん、ふーん。

 

「――って、それじゃあ俺の市民登録についてもどうにかなったんじゃないか? 別にガーディアンにならなくても」

「まあ、そうともいうな」

「悪びれることなく言い切りやがった!? 何が治外法権だ、無法地帯の間違いだろっ!」

「おっと、これは一本取られてしまったな。ハハハ!」

「おあとがよろしいようで!!」

 くそっ、何て女だ。

 専用ナノマシンなんて特殊な物を常日頃から持ち歩いているとも思えないし、幾らなんでも準備が良すぎる。

 どうせ≪リンカー≫とやらも――

「そしてこれが君の≪リンカー≫だ。ガーディアンには一人一機贈呈しているから、大切に扱ってくれたまえ」

「ほーらやっぱりあった! 最初からガーディアンやらせる気満々だったよこの人!」

 それは無針注射機が入っていたのとは逆のポケットから取り出された。

 一瞬腕時計のように見えたが、文字盤にあたる部分には青い結晶のようなものがはめ込まれている。ガラスのように透き通っているそれの下には、幾何学模様のように光のラインが刻まれた金属板。

 どこかで見覚えがあるかと思えば、確か都市の路面がこんな感じだった。

「最終的に君は自分でこの道を選んだのだから、まあ細かいことは気にするな」

「騙くらかした本人が言うことかよ……別にいいけどさ」

 文句を言いながらも、俺はフューリーから≪リンカー≫を受け取る。

 若干誘導された感が否めないとは言え、確かに最終的な決断は自分でしたし、選択に後悔もない。多分今から数分前に戻って同じ選択を迫られても、同じ道を選ぶだろう。

 受け取った≪リンカー≫を左手首に着けてみると、中々様になっているような気がした。気のせいか、着けたと同時にちょっとだけ光ったような。

「生体認証もクリア出来たようだな。これで正式に、お前はガーディアンとなった」

「久道さん……」

 こちらへ歩み寄ってきた久道さんの左手首にも、よく見ると俺のとは色違いの≪リンカー≫が装備されている。

 久道さんのは茶色と言うか、質感的には琥珀に近い色合いだった。

「友柄にはこれから同僚として、より一層市民のために尽力してもらう。これからは呼び捨てにするが、構わんな?」

「全然OKです!」

「それと最初に言っておくが、ガーディアンの間に上下関係はない。雇用主であるフューリーを除けば、全員が同じ地位にある」

 だから、と。

 久道さんはちょっとだけ逡巡してから、


「俺のことも呼び捨てにして構わんぞ?」

「それは流石に無理です」

「……そうか」

 大人しく引き下がる久道さんは、ちょっとだけ寂しそうな顔をしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る