第8話 魔法公国はよみがえる
次の日の朝から、僕とジゼルは、きっかり二日歩き通した。風景が砂漠から、少しずつ草原になり、そして小麦畑になる。パニーニが食べたい、とジゼルは時折呟いた。
小麦畑の金色の中に、それが現れたのは、三日目の昼方だった。
「着いた……、のか」
僕は茫然とする心地で、そびえ立つ高い塀を見上げた。ジゼルも信じられないという顔で、地図とその灰色を交互に見る。僕たちは間違いなく、ラナンクルスの城下町の前にいる。
「……すごい」
考えるよりも先に言葉が出た。本当にすごい。奇跡かなにかのようだ。ラナンクルスは、かつて僕らが訪れた廃墟ではなくて、確かな一つの国になっていた。
「でも、こんなに城下町が大きくなっていると、ヴェンを探すのには一苦労しそうね」
「そうだな。地道に聞いて回るしかないだろう。任せた、ジゼル」
「もう!少しは人見知りをなおしてちょうだい!」
ジゼルに頭をこづかれた。彼女はそのまま、門のほうへと進んでいく。検問は特にないようで、僕も彼女のあとを追って、にぎやかな街へと一歩踏み出した。
本当ににぎやかだ。人がいる。たくさんいる。
「すごいわね。私たちにも頑張ったかいがあるってものだわ」
「そうだな」
人ごみの中を、ジゼルの後ろをついて歩く。彼女の美貌に大抵の人間はあとずさりしてくれるから、とても歩きやすいのだ。
いつもは。
「ねえ、ジゼル、どうしたのさ。君の美貌も廃れたか」
「呪い殺されたくなかったら、お口閉じなさい」
普段なら彼女の前だけ人っ子一人いなくなるところが、むしろ僕らの前だけ、やけに人が多い。僕ら同様に街の中心へと向かう人が大半のはずなのに、視線をやたらと感じるのも奇妙だ。
「ねえ、ジゼル、」
「あーっ!勇者のにいちゃんだ!」
「「え?」」
小さい、男の子だ。多分七歳か、それくらい。灰色の髪、黄色の目がきらきらして、僕がその中にいる。僕はあっけにとられて、大きな声で僕を指差した、剣を持ったことのなさそうな、やわらかな手を見下ろした。
勇者。いま勇者、と、君は言ったのか。
「――っ!?」
僕は頭に手を伸ばした。フードが取れて、髪が見えているのではないかと思ったからだ。指先には、確かな布の感触があった。
「……君、名前は」
「フィオだよ!フィオセール!」
「そうか……フィオ、悪いけど、僕は勇者じゃな」
「そんなわけないじゃん!だって、八百屋のじいちゃんも、そこで会った門番のアルだって、みんないってたぜ、勇者さまがかえってきた!って!」
「みんな」
「そう、みんな!おれは覚えてないけどさ、にいちゃんがみんなを助けてくれたんだろっ?だから、みんなわかるんだよ!にいちゃんのこと!」
にっ、と、フィオは笑う。それはまぎれもなく、本当に、幸せな子供の笑い方だった。
「よかった、あ……」
僕は石畳の上にへたり込んだ。子供が笑えるなら、間違いなくこの国は、見目だけではなくて、幸せも取り戻したのだ。
「わ、にいちゃん、へいきか!?ま、まって、今、おれのにいちゃん、つれてくる!教会まではこぶよ!」
「え、いや、だいじょ……!」
「……行っちゃったわねえ。大事はないかしら、勇者のお・に・い・ちゃ・ん?」
「君、自分のことを知ってくれていなかったことに怒っていない?」
「全然。ぜーんぜん!」
ジゼルはぷいっとそっぽを向いた。よく通った鼻筋がさすのはちょうど、フィオが走って行ったほうだ。
「―あ、来たみたい……え?」
「なに、どうしたのさ」
「え、いえ、勘違いかも、いやきっとそうだわ」
「だから、なにが」
「__本当に勇者が来ていたのか」
「だから言ったじゃん、にいちゃん!」
僕の顔に、にゅっ、とかかる影。小さなフィオの後ろにいても、その姿がよく見える長身だ。よく知っている、いや、知っているどころの話ではない……!
「「ヴェンッ!?」」
「ああ、久しいな」
うつくしい銀髪が、陽を照らしてまぶしい。ラナンクルスが変わっても、彼の笑顔はなにひとつ変わっていなかったのに、僕はまた腰を抜かした。
「教会もすっかり見違えたわねえ」
ジゼルがほう、と感心したように呟いたので、僕も改めて周囲を見渡した。普通の教会なら、華美なくらいのシャンデリアで明かりをとるところを、この教会はわざわざ窓をカーテンで閉めきっている。しかし、出された茶菓子の種類を判別して、ジゼルが気に入ったものだけ僕の皿から取っていく程度には手元が明るい。火の魔法でろうそくをつけているのかとも思ったのだけれど、そうではなくて、椅子やら壁やら、光るはずのないものが、少しずつきらめいているらしかった。光の魔法は難度が高い。ものに永続的に籠めるともなれば、相当だ。ラナンクルスの魔法大国としての誇りを感じる。それから、それを教会に注ぎ込む信心深さも。……信心深さ?
「あれ、ラナンクルスって魔法の国だから、世界信仰のほうだよね?神のことは意識もしてないんじゃなかったか?」
「まあ、歴史的にはそうねえ。でも、ほら、ここの復興を担当したのって、多分」
ジゼルがヴェンの方を指さす。
「ああ、そっか。ヴェン、教会育ちだったね」
彼はこくりと一つうなずいた。彼はラナンクルスが滅亡する以前から孤児で、教会の孤児院で育ったという。彼はあまりその話をしたがらないけれど、彼の方も、自分の誇りらしい教会を僕らに褒められて、今はさして悪い気はしないらしい。僕らのおこぼれにあずかるフィオを見る目も優しい。
「……あ、もしかしてだけど、フィオセール、って」
「俺の名からとった。本名はフィオで間違いないようなのだが、本人がそうしたいと言うものだから」
「あら、じゃあ、フィオくんはここの孤児院の子なのね?ヴェンにいちゃん、ってそういうこと。ふふん、それにしても、あの孤高の義賊が、いまやお兄ちゃん。へーえ」
「言いたいことがあるならはっきりと言え、シスタージゼル」
「ね、フィオくん、ヴェンお兄ちゃんって優しい?あーんとかしてくれる?」
「話をきけ、シスタージゼル」
「おう、してくれる!それに、ねる前にはみんなに絵本をよんでくれるぜ!」
「フィオ、おい」
「あらあ、すてき。私にも寝る前に学術書読んで、おにいちゃん」
「……お前、本当に何しに来たんだ……」
はは、と僕は空笑いした。
「ごめんね、ヴェン。これでも用事はあるんだよ」
「それを連れているのを見ると、どうせろくでもないのだろうな」
「まあ、話が早くて助かるよ。確かに結構、幸せな君にはろくでもない用事だな」
勇者探しに旅へ出るのだ、君も、と僕が言ったのを、ヴェンは心底驚いたという顔で見つめた。その目はすぐに、開けっ放しの扉のほうに向いた。フィオはお腹が膨れたのか、それとも空気を読んだのか、いつのまにか外のほうへ出ていた。
僕はその途端、なんだかとても、嫌な気持ちになった。彼は偶然、たまたま、僕の仲間になっただけなのに。たったそれだけで、あの少年を見守るという日常を捨てなければならないのか。
悩みはつきなかった。僕はしばらく考えた。目の前のヴェンを見て、おぼろげにしか分からないジークベルトを考えた。天秤にかけたなんてことはない。ただ、ヴェンともう一度歩けたら、その先にジークベルトがいたら、いいな、と思ったのだ。たったそれだけだったけれど、僕は口を開いていた。
「神さまのためでも、ジークベルトのためでもないよ。僕のためさ。僕が知りたいんだ。勇者というものを心底嫌う僕として、だのに勇者らしく世界を救ってしまったから、せめて、ほの暗い顛末で次の勇者を絶望させてやりたいのさ」
わかるだろう、と僕は続ける。
「ジークベルトは魔王城へ行った。君がいれば、あの場所の詳細が、あきれるほどよく分かるに違いない。そうすれば、僕は心底ぐっすりと眠れる。魔王の眼光を夢に見ない夜を送れる。知っているだろ、夜のおぞましい顔は」
しばらく経って、ヴェンはなんとも言い難いという顔であった。
「やっぱり、なにかまだ、ひっかかる?」
「ああ、孤児院の剣術指南を、誰に任せようかと」
それは肯定的な悩みだった。
「いや、あの戦いについて、そう言われてしまうとな。お前はとてもうやうやしく見るべきひかりだった。つまり俺は、一度お前に頼ったわけなのだから、そのお前に手をさしのべろと言われたら、ひざまずいてこうべを垂れるべきだろう」
僕は奇妙な心地でそれを聞いた。それは水の中の金魚を手でつかむような違和感だった。彼の献身を素直に受け取れないようでいて、弱みを握っていたことに、心の底から喜んでいるのがいやだった。僕は「ありがとう」とだけ返したが、果たして、この不快を表に出さずに済んだかどうかは、ついぞ自信がなかった。
「俺がいなくとも、ここはもう大丈夫だろうから、あまり気に病まないでくれ」
気分のいい笑顔に、僕はもう一度「ありがとう」と繰り返した。ヴェンはどうやら僕の吐き気を、善意的に解釈したらしかったので、僕のほうもできるだけ倫理的でいようと考えたのだ。
「神父と話をしてくる」
「私も、ご挨拶くらいしたほうがいいかしらね」
よい子にしていてね。冗談めかして僕の口に菓子をひとつくわえさせて、ジゼルはヴェンと教会の奥へ向かった。菓子は思っていたほど甘くなかったが、事はすぐに済んだので、僕はフィオの分をきちんととっておけた。もちろん、ジゼルの分も。
「ヴェンは今、子供たちのほうへ話にいっているわ」
孤児院の面倒は、もともと教会の人々が一部を負っていたので、それが増えるだけだとすぐに承諾してくれたそうだ。まあ、聖職者というのは、勇者という権力にやたら弱いので、そうでなくても、身内が僕の旅に同行するというだけで、大歓迎なんだろうけれど。
ヴェンのほうは、少し時間をかけて帰って来た。
「手間取った」
彼の眼もとが真っ赤に腫れているのに、僕とジゼルは顔を見合わせた。どうしよう。僕にできることはあるかな。ジゼルは数秒おいて、空気で言った。ないわ。
「えーっと、ヴェン……その、そう、場所を変えたいんだけれど、どこか心当たりはないかしらね。血なまぐさい話をここでするほど、私も趣味が悪くはないわ」
「ふむ」
ヴェンはすぐに顔をあげた。男泣きのあとは、むしろ晴れ晴れともしていた。
「ちょうどいい、あそこだな」
フィオに似た彼のいたずら顔に、僕らはもう一度顔を見合わせた。
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