第5話 だれが勇者を殺すのか?
ジゼルの字はきれいすぎて逆に読みにくい。彼女のモノクルの奥の目が、目当てのあたりへ右往左往する。
「えーっと……あ、ここだわ。……勇者創成から、まだそんなに経っていない頃の文献で、勇者について研究した学者の論文みたいなんだけど。ちょっと読むわね。
『勇者は魔王が生まれるときだけに生まれる、と一般に言われる。これは、魔王の円環を円滑に回すためなのではないかと私は考える。つまり、勇者は、円環のめぐりが遅れること――すなわち、世界の秩序が失われることを防いでいるのだ。実際に……』ここからはしばらく実証が入るから割愛するわ、『……であるからして、広義としては、勇者は魔王を倒すためではなく、世界の秩序のために生まれてくると言える。と、すれば、「勇者は魔王が生まれるときだけに生まれる」という通説は誤りであるから、修正せねばなるまい。勇者はその存在が、世界の秩序に必要なときにだけ生まれ、逆に言うなら、不要なときは死に絶えるのだ。』」
「は……?」
「ね、おもしろいでしょう。多分合っているとも思うのよ。こんな話が広まってないってことは、神国が情報統制をしたってことでしょうから。間違えていたら、放っておくはずだわ」
「……それが本当なら、すごく、とんでもない話にならないか。ジークベルトの失踪は」
「そうよ、だからおもしろいって言ったじゃない」
ジゼルは軽口を叩くが、目は笑っていない。僕は信じられないような気持ちで、留め具の宝石を見た。
魔王の討伐に限らず、世界の秩序のために生まれる勇者。
ならば、もしも世界の安定のために、その強大な存在が邪魔になったなら、魂に課せられた役目を全うするため、死ななければならないとでも言うのか。
「……ジークベルトは、世界の意思で消された……?」
「そう、そうなってしまうのよね。まあ、もちろん、根拠の薄い仮説だけれど、筋は通るわ。ジークベルトは、自ら消えるような勇者ではないのでしょう?なら、誰かの意思が背景にあったと考えるのは、至極自然ではないかしら」
そう、そうなのだ。だから僕は困っているというのに、ジゼルときたら、あら面倒くさそう、それでもって面白そう、くらいにしか思っていない節がある。
僕も、いらなくなったら、背中の聖剣で自分の喉を突き刺すのだろうか。後世には、気狂いだと言われて、世界が続くために死んだなど、気付かれもせずに。寒気がする。
僕は荷が重いような心持ちで、台車から本を一冊取った。表紙には勇者。この勇者は、確か誰もが酔いつぶれた酒場から夜更けに一人出て行って、それっきりいずこかへ消えてしまったのだったか。昔に読んだときは果たして如何して、と思ったけれど、ジゼルの「仮説」を当てはめると、なんとも言い難いほの暗さがある。表紙をめくろうという気も起こらない。
「でも、まあ、さっきのは『仮説』だから。勇者がもっといい文献を見つけて、もっといい仮説を考えられたら、あんな推測は笑い話よね」
彼女がそう言ってからのことを、僕はよく覚えていない。ただ、考えるよりも先に、指が表紙を開いたことだけは分かっている。気付けば僕の目の前には、読み終わった(らしい)本が山になっていた。僕は必死だった。これ以上、世界や神といった、上位層に踊らされてたまるか、という意地のようなものに突き動かされていたのだと思う。ただただ悔しくて、そして末恐ろしかった。
昼食を告げる鐘が鳴る。僕は机に頭をしたたかに打ち付けた。間に合わなかった、いや、見つかることはなかった。ジゼルの仮説を当面の方向性にせざるを得ない。「あら、ここにも鐘があったのね」ジゼルはきゃらきゃらと笑っている。
「うるさいな、僕だってわかってたさ……しょせん、勇者なんか、機関にすぎないからな。魔王を倒すためだけの機関だよ。必要なときはこき使われて、用済みになったら、あっさり捨てられるんだ」
「あら、相変わらず、妙なこと言うわね」
ジゼルはなんてことなさそうに続ける。
「器は生者のためのもの。どんな勇者になるかなんて、あなた次第じゃない」
僕は何も言い返せず、彼女の顔を見つめた。
器は生者のためのもの。それは、ジゼルが唱え続けている、新たな宗教解釈だ。
器に与えられた役割を果たす、同じ人生を繰り返す、世界の秩序を守る--正しいとされてきた教えを、彼女は歯牙にもかけない。生き方はあくまで自分の自由であり、自分の生きた証は、遺そうと思えば遺せる。本当に神を信じるならば、自由を尊重する慈悲をも信じ、神を怨むことなく、世界に絶望することなく、いただいた幸福のままに死んでいくべきだ、と。
彼女の言葉を、きれいごとだとか、そんな風には思わない。聖書を読みこんで、研究を重ねたすえに、当代一の聖人がたどり着いた結論なのだから。
ただ、なんと言えばいいものか、僕はいつも困ってしまうのだ。
自由に生きろ、と言われても。魔王を倒すほかに、やることなんか、半年の中で、ひとつだって見つからなかったのに。
黙りこくった僕をどう思ったのか、ジゼルはきゃらりと笑って、僕の肩を叩いた。
「まあ、そう気を落とさないでよ、勇者。お昼ご飯にしましょう。ここでは利用者には無料で食事が出るって聞いているけれど、司書さんが運んできてくれるの?」
本を片付けているのか、机が少し揺れるのを、べったりつけた頬で感じる。それどころじゃない、と言おうにも、彼女も僕も十分に、それこそ腹が空くほどに働いているのだ。僕はゆっくりと口を開いた。
「……もっと簡単で原始的だよ。ここは妖精の園だから」
僕は立ち上がると、階段の方、吹き抜けから落下しないようにと作られた塀に近づいて、一階を見下ろした。年寄りの司書がこっちに気付いたらしく、ちょっと驚いたような顔で手を振ってきた。
「勇者様!いらしていたなら婆に言ってくださいな」
「悪いね!早くしてくれよ、仲間を連れているから、二人分ね」
「はいよー!」
大声を出しているつもりはないのだけれど、この建物はずいぶん音が反響するつくりで、下の司書の声がよく聞こえる。返事を返してきたことを確認して、僕は足元に転がっている麻縄を取る。ジゼルの黒い靴がその横に並んだ。
「ねえ、見ていてもいい?」
「構わないけど。邪魔しないでくれよ」
僕は手元の麻縄をじっと見つめる。それ自体を見ているのではない。その中の構成を見るのだ。魂として、本質として、この縄に足りていない部分。隙のある要素。(ここだ)ケーキの型に生地を流し込むのと同じだ。魔力を、世界の力を、この縄を作った誰かに代わり、縄の余白に流し込む。僕の指をつたって、縄の強度が、重みが、増していく。僕はこの瞬間、魔力を流す道具になる。
「やばっ、」
ずん、と手のひらの上が重くなっていくのに気付いて、あわてて縄を吹き抜けに投げた。もう僕が触れている必要はない。流し込んだ魔力を、縄は徐々に受け入れて、どんどん重くなる。加速しながら落ちて、しかし、あくまであれは『麻縄』だから、一階の床に落ちるときには、麻縄らしく、柔らかに着地する。
塀の滑車がカラカラ回り出した。ジゼルがああ、と一人うなずく。
「よくできているだろ」
「ええ。普段は軽い麻縄を、上にいる人が魔法で重くする。すると、一階で縄のもう片方に繋がれている食事が、天秤の原理で運ばれてくる、と。国民の教養を前提にした、格式高い仕組みね」
僕がうなずいたところで、滑車の音が止まる。代わりに、焼けたチーズの香ばしさ。ジゼルがぱたぱたと、上がって来た籠の方へ走る。
「リゾットだわ!とても美味しそう。……お婆さまー、いただきますわねー!」
「あ、ちょ、ジゼル」
「おやあ、これまたべっぴんさんを連れてるねえ」
「いつも勇者にはお世話になってますのー」
「勇者様も男になったねえ」
「ち、違うんだけど!ばあさん、それ絶対誤解だから!」
自分の分の皿を取ると、僕はさっさと机の方へ戻った。ジゼルも僕の後ろについてきて、向いに座る。なんでばあさんに話しかけるんだよ、と文句をつけようと彼女の方を見た。口の端の方がにまにまと動いている、幸せそうな顔。僕は心がすっと柔らかくなるのを感じた。婆がジゼルを見たら面倒なことになるのは分かっていたし、言わなかった僕が悪い、のかもしれない。きっとそうだ。そういうことにしよう。
「いただきます」
「あっ、私も私も!いただきまーす」
僕はスプーンを差し入れるふりをして、ジゼルが緑色(多分ほうれん草を煮たのだと思う)のリゾットを口に運ぶのを見つめる。唇が開いて、こくり、と喉が動く。「ん、」ゆっくり瞬いて、「これは」唇をゆったり舐めて、彼女は「ふふっ」屈託なく笑った。
「おいしいわ、すごくおいしい」
リゾットなので、当然飲み込んでいけばすぐにでも食べ終わるのだけれど、ジゼルは噛みしめて、一口ごとに目を閉じては、「おいしい」と呟く。これは美味しいものを食べたときの彼女のクセだった。旅の間も、色々な国の郷土料理を食べては、こうして幸せそうな顔を見せたものだ。懐かしい。
僕もスープを飲み込む。相変わらずおいしい。慣れてしまっているから、ジゼルほどありがたがれないのが残念に思う。
さぞ幸せそうな顔をしているのだろう、と彼女の方を見る。碧色と目が合ったのにびっくりした。てっきり器の方ばかり見ているものだと。そして、その表情に、何より僕はびっくりした。なんでリゾットじゃなくて僕を見ているのに、そんなに嬉しそうに笑っているんだ。
「なんだよ」
できるだけ不機嫌さを前面に言っても、ジゼルの笑顔は崩れない。
「あら、だってね、ふふ。いえ、勇者が気付いているのか分からないけど、あなた、美味しいものを食べたとき、ふふっ、今みたいな、すごく幸せそうな笑い方をするのよ。眉毛が下がって、歯が見えて、ふへっ、って感じで。それがもう、なんだか、すごく、懐かしいの。懐かしいのよ」
そんな顔はしていない。だいたい、どんな顔さ。
言い返そうとして、彼女が言っていた通りの顔を、噛みしめるような声の彼女自身がしているのに気付いた。
ジゼルも僕と同じなのだ。おいしくて、おいしいものを一緒に食べるのが懐かしくて、二人でいると、幸せなのだ。
「リゾット、冷めるよ」
僕はあえてそれだけ言って、またスプーンを動かした。ジゼルも、もう何も言わなかった。
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