第4話 精霊の書庫

 僕たちが最初の目的地に選んだのは、クレテールの森深くにある大書庫だった。城で旅の行程についてはほとんど話し合ってないが、この場所に関しては当たり前のように訪れる必要があったのだ。


 僕たちの背丈(悔しいが、体格の小さい僕とスタイルのいいジゼルでは、ほとんど背丈は変わらない)よりもはるかに高い本棚の数々の間を歩きながら見えるのは、その更に上に二階、三階と建物が続き、同じように本が詰まっている景色だ。吹き抜けの頭上には、森の緑をうつす陽の光が、硝子細工の天窓を通してきらきらと落ちている。人の手が入ったことを感じさせない美しさに、初めて来たというジゼルは、噛みしめるようなため息をついた。


「それにしても、大層立派な出来ねえ。神国の聖書室だってこうはいかないわよ。空気も清廉としていること。さすがは妖精の国ということかしら」


 後ろを歩く彼女の言葉に、僕も小さくうなずく。僕自身は勇者としての勉強のために、小さな頃からこの大書庫をよく訪れているが、この色彩に飽きたことは一度もない。


「今は春だから、陽がよくきらめくだろ。夏は日がきついから、男連中で色んな色の薄い布を、天蓋みたいに天窓にかけるんだ。本を読んでいると、ページが海の色とか、夕日の色とかに染まって、それはそれできれいなんだよ」

「へえ、いい趣味じゃない。なら、秋はもみじ葉の色かしら」

「うん。冬は雪が積もって陽が差さないから、みんな気に入りのランプを持ち寄って、書庫中がぼんやり光るような次第さ。ろうそく使いの多い日なんか、城下町の教会より、よっぽど信心深そうな見目になる」


 そういう日には、階段を上るにもろうそくが手放せないのだけれど、今はやわらかな陽が足元をきらつかせている。


「こっち。勇者と魔王の伝承は、一番空に近いところなんだ」


 すぐ死ぬからさ、と苦笑まじりに言おうとしたけれど、振り向いたところのジゼルが、少女みたいに目をきらきらさせていたから、やめておいた。僕はそれ以上人の感動を邪魔しないように、口をつぐんで、陽の光のまわりをくるくる続いていくらせん階段を上り続けた。


 僕たちがこの大書庫を訪ねたのは、ここが勇者に関する蔵書を、世界で類を見ないほどに揃えているからだ。この土地特有の霊力から勇者が生まれやすいから、当然その知人も多い訳で、そして勇者の知人の中には大抵、その顛末を書き残す奴がいるのだ。僕は自分の生涯を人に語られるなんて御免だけど。その作品たちの中には、もちろん一般にも親しまれるような英雄譚がほとんどだけれど、精神を病んだ勇者の話だとか、魔王とともにどこかへ消えてしまった勇者の話だとか、中々知ることのない勇者たちを扱ったものもある。

 僕たちはそういった作品から、ジークベルトの失踪の理由や行き先、彼の思考などを追いたいと考えたのだ。


「僕は右の方の本棚を一通りあさろう。ジゼルはそっちをお願い」

「失踪した勇者のもの、みたいな感じで、ひとまとめにされていたりしないの?」

「この国の作家には、自信作を書き上げたらこの大書庫に寄付する慣例があるんだけど、日ごとに本が増えるようなものだから、細かい整理ができないんだよ。ほとんどの棚は年代ごとになっているんだ。ジゼルの方は勇者創成よりも前、まだ魔王しかいなかった頃からだから、相当古い領域だな。好きだろ、そういうの」

「勇者が古代言語を好きじゃないだけでしょ、ばーか」


 言葉と裏腹に、少し弾んだ足取りでジゼルが本棚の奥へ向かっていくのを見送って、僕は本棚とは真逆の、上って来たらせん階段の方へ体を向けた。


「ほら、もう出てきても平気じゃないか」


「わっ!?……気付いていたの?」

「まあ、一応っていうか、勇者だし。寝首をかかれないための訓練くらい受けているさ」

「わたしはここでお勉強している君しか、ほとんど見たことがないから。失敗しちゃったな」


 悪びれることもなく、パフスリーブの肩をすくめる。僕は思わず苦笑いした。相変わらず、自由なやつ。


「……久しぶり、アリエノール」

「久しぶり、久しぶりい」


 ミルクティーのやわらかなカール、紫の瞳、真っ白なワンピース。少女は一年半前の地獄と寸分たがわず立ち上がって、にんまり笑った。


 彼女はここの大司書の娘で、小さな頃からここを遊び場代わりにしていた。それで、しょっちゅう来る僕と、ごく自然に仲良くなった。おさななじみ、とでも言うのが正しい間柄だ。魔王軍に城下町が襲われたとき、彼女は僕にくっついて町まで遊びに来ていた。絶望しきった僕を送り出したのは、他でもないアリエノールだ。

 いつかまた会おうと約束していたのに、僕が魔王討伐を終えたあとの国を挙げての祭に、彼女は姿を見せなかった。……正直言って、死んだものかと思っていたから、確認するのが怖くて、ここにはよりついていなかったのだが。胸のつかえが一つとれたような、どこかすっとした気がする。


「見かけないと思ったら、ここに戻っていたのか」

「君が世界を救ってから、平和になったからか、寄付蔵書が一気に増えて、もう忙しくって。町に一度くらい顔を出そうとは思っていたんだけど、ごめんね」

「いや、別に。……それで、あとをつけたりして、僕に何の用があるんだ?」

「えっ、いやあ、えへへ……」


 アリエノールは、どこかばつの悪いように頬をかいた。


「知らない女の人といたから、気になったっていうか……大丈夫かなあって」

「何が」

「魔王は倒したんでしょ?そのわりに、いかにも旅に出ますって恰好だし。しかも、話をちょっと聞いたら、勇者の失踪だのなんだのとか、物騒なこと言っているんだもの。おねえさんの色香に騙されて……みたいなことだったらどうしよう、みたいな」


 どうしてクレテールの民は、ここまでジゼルを疑うのだろうか。僕は頭が痛くなるような感じがした。


「……とりあえず、君の言う『おねえさん』は、君と、それから僕と、一つしか歳が変わらないからね」

「えーっ!?」


 アリエノールは自分の手をそうっと胸に置き、それから信じられない、と言いたげな顔でジゼルのいる棚の方を見た。やっぱりそこなのか。


「……ジゼルは、僕と一緒に魔王を討伐した仲間なんだ。それに、今回の旅も、きちんとした目的があるから、大丈夫だよ」

「ふうん……まあ、君がそう言うなら」


 アリエノールはもうジゼルのことは気に掛けるのをやめたらしく、あっさりと階段を上って来た。


「ね、探すんでしょ、本。手伝おうか」

「いいのか」

「へーきへーき!これでも、立派な司書なんだから」

「いや、僕は仕事はいいのか、と言っているんだけど」

「……へーき、へーき」


 ちょっと気まずそうに間を置いてから、アリエノールは僕の横をすり抜けて、ジゼルとは逆の方の本棚に足を進める。「はやくー」アリエノールは仮にも司書なのだから、手伝ってもらえば早く事がすむだろう。若い娘が人気のない平日に少しサボったくらい、別に誰も困りはしないだろうし。


「わかった」


                  

「右から三冊目……と、次は隣の……そう、そこから五冊は全部だよ。あっ、それはシリーズもので、最終巻だけが失踪を取り扱っているの。で、下の……そうそう、その真っ赤な本だね。うん、こっちはこれで全部かな」

「結構あるものだな」


 台車(とは言うけれど、木の枝を使った縦長の籠の下に滑車がついたもので、台車と呼ぶにはあまりに格調高い)にうず高く積み上がった本の上に、さらに数冊重ねて、僕は息を吐いた。これを全部読むのかと思うと頭が痛い。


「勇者っていっぱいいるからねー」

「つまり魔王もいっぱいだな……」

「でも、どの勇者もかっこいいよ。ほら、この表紙の勇者なんて、美形も美形!」


 アリエノールが指差した本を手に取ってみると、魔王を倒して、その足で海に身を投げたという勇者の英雄譚だった。切れ長の紫の目が、じっとこちらを見ている。彼女のはしゃぎようを見るに、くわしい中身は知らないらしい。


「へえ、確かに」

「でしょ?筋肉質でがっちりした体もかっこいいし!……でも、こんなに男らしい感じなのに、剣の柄に宝石があるのは、ちょっといただけないよね。似合わないよ」


 指差された勇者の手元では、確かに緑色の宝石がきらめいている。その部分にだけなにか紙に加工がしてあるのか、アリエノールの言うとおり、少し過剰なくらいの光だ。


「まあ、それは勇者なら大抵みんな持っている……というか、持たなくちゃいけないものだから」

「え、そうなの?権威の象徴とか?」

「いや、勘違いされやすいけど、そうじゃないよ。……勇者の宝石っていうのは、特別なんだ」

「特別?」

「そう、特別さ。僕たち勇者が、勇者であるためのものだから」


 僕は宝石のついたマントの留め具を外して、不思議そうな顔をしているアリエノールの前に差し出す。「なんだか悪いから」彼女はそれを手に取りはしなかったけど、代わりに、なにかこの世のものではないものを見ているような目で、じっと見つめた。


「きれいだけど、なんか」


 彼女の怪訝な顔に、僕は少し驚いた。


「ああ、分かるのか、すごいな。これは、魔王の魂を飲み込んだんだ」

「まおう」

「この世界では、すべての魂は死ぬことがないだろ。いつも器が死ぬだけだ。そして、対の存在へと円る。一対の円環だな。それは魔王にも同じことなんだ。心臓を貫いたところで、いつの日か魔王は戻ってくる。そのたび倒してもいいけれど、それでは際限がない。……そこで、ある勇者が、神さまと話し合ってつくったのが、宝石に魔王の魂を封じ込むという討伐方法だ」

「あ、えっと、もしかして……」


 アリエノールが指さしたのは、台車の一番上、ひかりを授かる勇者の描かれた表紙だった。宝石による封印を考え出した、十傑の英雄。僕も幾度となく読まされた本だ。


「本当に神さまがおつくりになるの?」

「ああ。そして勇者は、魔王と戦って、その体を殺す。肉体が死んだ瞬間に飛び出す魔王の魂は、勇者の導きによって宝石の中へおちて、そして二度と出てくることはない。……勇者は魔王を倒すものだ、って言っただろ。そうであるために、僕たちはこれを持つんだ。魔王を、本当の意味で殺すために」


 マントがずり落ちてきた。留め具で首回りを留めながら、僕は見飽きた水辺の色を親指でそっと撫でた。この中に魔王がいる。これからもう、なににもなれないやつだ。


「早く本に目を通さないと。アリエノールも仕事に戻りなよ」


 アリエノールは仕事については何も言わないまま、じっと勇者の絵を見つめている。


「ねえ、君の宝石って……」

「それじゃ」


 僕は答えずに、台車をカラカラ鳴らして彼女に背を向けた。


 宝石の名前は、だいたい神が決める。僕のもそうなのだが、だいたい縁起が悪くて、どうも好きになれない。アリエノールの見ていた本が、『ひかりへのかぎ』という宝石を持った勇者の話で、その勇者が、神と接触しすぎたあまり、ひとの次元から消えてしまったというのが、いっそう口に出すのをためらわせた。たいていの勇者は、宝石の名のとおりの末路をたどる。そういう話ばかりが後世に残っただけのことかもしれないが。


「ごめん、遅くなった」

「本当にね。私、もう終わりそうだから、手伝ってあげるわ」

「ありがとう。じゃあ、五冊くらい頼むよ」


 左目にアンティークのモノクルをつけて、ジゼルは今にも崩れてしまいそうな古書から顔を上げた。彼女の脇には、もう読み終えたらしい本が積み上がっている。アリエノールとの話は思いのほか長かったようだ。申し訳ない気持ちで僕が黙りこむと、そういえば、とジゼルが声を上げた。


「私が担当したほうは、物語なんだから仕方ないけれど、やっぱり脚色されていて、大体はあまり参考にならなかったわ。


……でも、ちょっと面白い文献があってね」

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