第3話 女王陛下は小切手がお好き

「……何されるかと思った……」

「失礼なひとね。別に事故で触られたくらい、なんの弱みにもならないっていうのに、勝手に想像しちゃって。やーん、勇者ってばやらしーい」

「勝手に言ってろ」


 いや、本当に、食われるかと思った。実際には、よそ行きの服を選ぶのが極度に下手な僕の代わりに、ジゼルが着替えを見立ててくれただけだったのだが。


「うん、やっぱり勇者は、こういうカッチリした服が似合うわね。きれいな顔してるだけのことはあるわ」


 どこか誇らしげに振り向くジゼルに、僕は少し気恥ずかしくなる。こんな正装はずいぶん久しぶりだ。服が体に触れて肌触りのよさを感じるたび、その部分がぞわりとそばだつ。

 僕たちふたりが正装して(ジゼルはシスター服が正装なので普段通りだが)やってきたのは、僕の国、クレテールの王城だ。どこにしまっていたのか自分でもわからない革靴で、赤いじゅうたんを踏むたび、草原とも砂漠とも違う心地に足を取られそうになる。ジゼルはヒールで軽々と、しゃんと伸びた背中の上で金髪を揺らして、僕の先を進んでいく。


 彼女はどうやら、僕の貯金を旅の支度に使うことについて思案してくれていたらしかった。勇者というのは、基本的に国に外交の手段の一つ、あるいは国の象徴として雇われ、収入を得ている。夢のない話だが、あまりその相場は高いとは言えない。贅沢をしなければそれなりに暮らしていけるけれど、勇者という身では、いつ何が起こるかわかったものではない。金を使わないで済むのは、正直助かる。

 そこでジゼルが提案してきたのが、僕の雇い主とも言える存在、現女王のリゼット・キャンデロロに、金の工面を依頼することだった。朝食が必要ないと言うのも、朝早くに訪ねれば、まず間違いなく城の豪勢な食事にあずかれるだろう、という策略だ。正直、この面に関してはジゼルに感謝せざるを得ない。僕だって聖人君子ではないから、タダでおいしいごはんにありつけるなら万々歳だ。


「ジゼル、そっちじゃないよ」


 らせん階段をくるりと数段上った彼女の手を、慌ててつかむ。


「あら、一番立派なつくりに見えたから、この階段が女王の間につながっているんだと思ったわ」

「いや、女王の間はそっちで合ってる。でも、今行くのはそこじゃないだろ」

「え?」

「だから、食堂はこっちなんだってば。早く行こうよ」


 手を引いて右手の方の廊下へ向かおうと催促する。


「……ふふっ」

「なんだよ、ジゼル。早くってば」

「いいえ、勇者は本当にお腹が空いているんだなって」


 急ぎましょう、とジゼルは階段を駆け下りて、今度は僕の手を引っ張る。駆け出す前に一瞬振り向いた彼女の美貌が、小さな子供を見るような、まさにシスターの優しいまなざしで微笑んでいて、僕はようやく、自分の子供っぽい行動を振り返った。


「うふふ、どんなメニューかしらね」

「……知らない」

「私、フレンチトーストが好きよ。……あ、でも、今日は出てこなくていいわね」

「食べてきたのか」

「いいえ、ただ、勇者よりおいしくフレンチトーストを作れるひとはいないだろうから。旅の間、卵が手に入ったときに、よくあなたが作ってくれたじゃない。私、よく覚えてる」


 ジゼルの言葉を聞きながら、彼女の髪をひとつにゆったりまとめた白いリボンが小刻みに振れるのを、僕はじっと眺めていた。旅の間。ああ、覚えている。僕がただひとつ、最初から作れた料理。魔王城を前に迎えた朝、どこかから卵を調達してきてまで、ジゼルが食べたいとねだったもの。覚えている。もう一度食べられますように、どうか朝が来ますように、と、ぽろぽろ泣いた、ジゼルの顔と、強く組まれた祈りの手。


「……別に、旅に出たら、また作ってやるよ。あのくらい」

「ええ、楽しみにしてる。……でも、とりあえずは」

「ああ、こっちで我慢しよう」


 開けた扉からは、甘い卵のにおいはしなかった。


                

「連絡もよこさず来るとは、おぬしらはやはりとんだ不届き者だな!」


 メイドたちに勧められるまま、ジゼルと向かいの席につく。その最中にも僕たちにひっきりなしで恨み節をぶつけてくる寝起き姿の女性が、女王リゼット・キャンデロロだと、誰が気付くことのできるだろう。威厳のなさたるや、僕たちの分の食事を大急ぎで用意するメイドの少女が、口元をふやふや笑わせているほどだ。僕とジゼルはそっと目を合わせる。


「大変申し訳ありません、殿下。かわいらしいパジャマと前衛的な髪型が見られて、私は恐悦至極ですわ、すわすわ」

「リゼットは相変わらずおいしそうなものばかり食べているね。国力だけじゃなくて自分の体まで大きくするつもり?いやあ、その献身ぶりには敬服するよ」

「お、ぬ、し、らああ!!」


 激昂して立ち上がったリゼットを、後ろからにゅっと伸び出た手が、瞬時に席へと引き戻す。


「リゼット様、お食事中はお静かに」


 冷ややかな声、赤みがかった目。泣く子も黙るメイド長・キサが、女王を睨みつけた。目を見開いていた女王は、その目を自分の肩に置かれた手に向けて、かくかくとした動きでフォークを取る。それでもそのフォークが向いたのは、彼女の好物の肉料理で、思わず笑ってしまった。


「「ぶふっ」」

「料理のご用意ができましたから、お客人も陛下でお遊びになるのはお控えくださいまし」

「はーい」


 彼女の言葉どおり、温かそうなスープやパン、とろとろのチーズといった、おいしそうなご飯が並んでいる。生ハムにフォークを伸ばしながら、僕はむくれてパンをほおばるリゼットを横目に見た。ミルクティーとたびたび例えられる、やわらかな栗色の髪と、紫色の瞳、整った顔。生まれ育ちは違うが、リゼットは、絵に描いたようなクレテール人の見目をしている。

 今年で二十九に届くかという彼女の子供っぽいかんしゃくは、人をからかうのがいきがいのジゼルでなくとも、とてもからかいがいがある。僕もそうだ。その親しみやすさが、国民からの支持にもつながっているのだろうが。


 しかし、こと政務という面に関して言えば、――特に交渉事に関しては、リゼットはとても冷静で、決して判断を間違えない女だ。事実、僕という切り札をなんともうまく扱って様々な国の協力を得て、魔王軍に一度は滅ぼされたこの国を、半年のうちに、こんな城が建つまでに再建している。

 そんな彼女が、今回の旅への出資を、そう高額でもないとはいえ、あっさり受け入れるのだろうか。パンを半分に割りながら、僕はなんとはなしに、リゼットの弱みの数々を、記憶から抜き出すのである。

 だが、ジゼルにそんな必要はないらしく、彼女は平然としていた。息を吐くように人をあやつるやつだから、考えることなどいらないのかもしれない。上品にスープをすくいながら、彼女はさらりと口を開いた。


「殿下、私たちの訪問の目的をお聞き願いたいのですが」

「なんだ、妙なことを言うなら、おぬしらの生ハムはわらわがもらうからな。覚悟して口を開くがよい」

「勇者と私は、これからすぐにでも、神託にもとづいて旅に出ます。殿下には、ぜひそちらの出資をと」

「ようし、勇者の生ハムはもろうたぞ」

「あ、ちょっと、取るならジゼルのにしろよな!だいたい、妙なことは言ってないじゃないか」

「阿呆が。簡潔に言えば、うちの国の勇者が、仮にも他国である神国の命で動くということではないか。これがどうして、わらわが許可すると考える」


 ああ、まあ、そう考えるよなあ。僕はリゼットの言い分に反論する気は起こらず、むしろパンをかじりながら少しうなずいてしまった。


 この世界には創造主たる神と世界以外には信仰対象がなく、人々の信じる宗教もそれひとつだ。しかし、総じて信仰心自体はさほど高いわけでもなく、もっと言うと、僕のように神などに実際に触れた経験がないと、その存在がどういうものなのか、確かなところは理解できないので、知識も浅い。神というものの確かさを知らない一般人にとって、神託はあくまで神国のシスターの妄言に過ぎないのだ。僕やジゼル、聖職者たちは、度々この感覚を忘れてしまうのだけれど。


 さて、これをどう説明したものか。神託は神の命で、逆らうことはできないんだ。いやいや、だって、神よりわらわの方が偉大じゃろー、それにおぬしは世界を救った勇者だからもっと上じゃろー、抗えー。実力主義のリゼットにとっては、ただいるだけの神よりも、世界を救った僕の方が数段ポジションが上なのが、またやりにくい。


 僕はそっとうなずいた。うん、僕には無理だ。


 ジゼルのサラダボールにフォークを伸ばして、トマトを一通り回収する。彼女は「色が被る」とかなんとか言って、赤い野菜が大の嫌いなのだ。きょとん、としたジゼルと目が合う。彼女は、それはもうきゃらきゃらと、音なく笑った。ああ、ご愁傷様、会計係のアンナおばさん。


「神国の命などでは。これは神からの勅令ですのよ、殿下」

「口先だけでならどうとでも言える。わらわは信じぬぞ、出会ったこともない女が騙った、神の言葉なぞ」

「あら、そうですか。それは残念ですわ、つまり、殿下はこの国のどこも信用なさらず、足をつけられないのね」

「なんだと?」


 治める国に話が移り、リゼットは真剣な怒りを浮かべる。それに対峙するジゼルの憐れむような瞳のきらめき、ふらふらと宙を舞うヒールが、僕の持つナイフを鈍く感じさせるような、凍り付いた雰囲気を作っている。笑っているのはジゼルだけだ。いつも通り。そう、いつも通りに。


「クレテールは神話のはじまり、空と海をつなぐ妖精の森。古来よりその霊力によって、建物の崩壊や国の繁栄を保ってこられた。そうですわね」

「ああ、勇者の生まれやすい風土すら作り上げた、その霊力こそが我が国の財産だ」

「その誇りが魔王軍によって奪われたのち、このような大きな建物を築けるまでの霊力を提供したのが、我々オルテンシア神国だということも、お分かりですかしら」

「そのことに対する忠義を尽くせというなら、お門違いであるぞ。我が国は総力を尽くして、おぬしらに感謝を伝えた」

「まあ、まさかそんなケチなことを言ったりしませんわ。私が殿下に確認したいのは、その霊力提供が、神託にもとづいて行われた、という点でございます」

「……な、んだと」

「事実ですわ。そも、そうでもなければ、あの人たちが動くはずもないでしょうに。殿下、この国を実際に救ったのは人間で、そしてあなたです。だけれど、そう仕向けたのは、ほかならない神様、そのひとなのですよ。神のお言葉がなければ、私たちは決して協力などせず、この国は妖精とつながる術を失い、ただ吹く風にがれきは舞い、森になっていたでしょう。なんの変哲もない、そこに誰もいなかったように」


 妖精というのは、とても重要な存在だ。ここら一帯の調和を守る神の使い。古くから、クレテールの森で人間がなにかしらの開発を行うなら、まずは必ず妖精にお伺いを立てて、自然の秩序を乱さないか判断してもらわなければならない、と決まっている。それを怠れば、妖精の怒りを買うだけでなく、そもそも自然がどこかしら壊れて、その被害を人間が受けることになるのだ。妖精と意思の伝達を図るためのものである霊力は、この土地で再び暮らすためには必要不可欠だったのは間違いない。


 リゼットはうつむいた。じっと、伸ばした手の中のコップの水を見つめている。もしかしたら本当は、森の奥にある、小さな池を見ているのかもしれない。あそこには、この城の建設を許可した妖精が住んでいる。


「……今度の神託も、誰かを救うものなのか。おぬしらの言うように、この国が救われたごとく」

「ああ。神託からはどうか分からないけど、でも、僕は勇者で、リゼットの臣下だから。だから、必ずこじつけてでも、この間こぼしてしまったらしい分を救ってくるよ」

「シスタージゼル、誰かに踊らされて、この国を傾けようという気概に気付いていないということはないか」

「まさか。私、ここが好きなんですのよ。ご飯、おいしかったもの。おいしいご飯のある国って、幸せだわ」


 ナプキンで口をぬぐい、ジゼルは微笑んだ。リゼットの眉間にしわが寄る。


「……けちくさいが、ひとつ条件をつけさせろ」


 リゼットは不機嫌そうな顔でつづける。


「趣味がわるいと言ってくれるなよ。我が国に直接利益をもたらさん旅では、国民に勇者の不在を尋ねられたときに分が悪い。――条件というのは、『まぶたのほしから』だ。あれを、取り戻してほしい」


 あれは外交に役に立つ、リゼットはつぶやいた。

 『まぶたのほしから』。神がこの世界で最初につくった宝石、あるいは涙だ。クレテールの王家に代々伝わる宝だが、魔王軍の侵攻ののち、神に言われて様子を見に行ったときにはなくなっていた。おそらく、魔王に奪われたのだろう。一般には公開されず、勇者と代々の王にしか見る機会がなかったので、実物の記憶があるのは、もうこの世に僕しかいない。

 というのも、あれにはひとつ、特別おそろしい言われがあったのだ。――世界の秩序そのものである『一対の円環』を溶かし、円る魂をすべて解放するちからがある、と。

 あれは神話の時代の産物だ。クレテールという国の存在価値は、そういう、いにしえの歴史の保存にある。……言ってしまえば、人間の知りうる事柄を減らすことができるし、外交的にうまくやるには、それが最善なのだ。


「いいよ。あれはたぶん魔王城にあるはずだ。前回は探すような時間はなかったけど、やってみればあるかもしれない」

「私たちに見つけられなかったとしても、神託をまっとうすれば、神が多少のご加護をお与えになるわ。……ありがとう、女王殿下」


 ジゼルが殊勝に両手を組む。やわらかな祈りだ。リゼットは、やりにくそうに顔をそむけた。


「……おい、キサ!アンナを呼べ!小切手を用意させる」

「あの、リゼット、小切手用意するほどじゃ」

「知らぬ。わらわは旅にかかる費用など、自分で出したことはない。少なく渡してのたれ死にされて困るのはこっちじゃからな、適当に書いてくれるわ!」


 キサが早足で食堂をあとにする。僕もいつのまにか止まっていた手を動かして、いくらか残っていた料理を口に運ぶ。


 あとはもう、とんとん拍子でことが進むのを、ちょっと感心しながら眺めるだけだった。寝起きのところを無理やり出勤させられたアンナはずいぶんぶすくれていたが、仕事の方はまったく問題なく、あっという間に見たこともない桁の数字の並んだ小切手が僕に手渡された。アンナがリゼットに金の重要さについて講釈を垂れ始めると、その間にキサは街を走り回り、道具屋を数人と、銀行員を一人連れてきた。メイドたちが皿を片づけるのと入れ替わりで、旅用品が次々とテーブルに並べられていく。そして僕とジゼルが指し示した品物の場所に、値札だけが残されて、銀行員はひっきりなしにそれを加算していってはアンナに伝え、頭を抱えながらアンナがそれを書き留める。僕とジゼルの満足がいくころには、儲けたはずの道具屋たちでさえも目を回すほどの金が動いていた。魔物がいない世界では、毛皮を剥いで稼ぐことができない。


 僕が別の部屋に移動して旅装束に着替えているうちに、ジゼルは一度僕の家に戻り、聖剣の収まった鞘を持ってきてくれた。久しぶりに見た聖品に、聖職の血が騒いだらしく、着替え途中にドアを思いっきり開けられて、朝のうちに二度も下着姿を奴にさらす悲劇が起こったので、しばらくは聖剣を抜く羽目になりたくないと願っている。


 もちろん手練れのジゼルがそんなことしかやらなかったわけがない。買ったばかりの魔法鞄(内部が魔法によって拡張されていて、値段に応じてより多くの物を詰められる)に、これまた買ったばかりの薬草やらなんやらを几帳面に詰め込んだり、関所の特別通行許可証(移動魔法で国を行き来するときには関所を通らないため、関所の検閲の代わりにこれを携帯していないといけない)を手配したり、「靴」(これも魔法によって強化されたもので、歩行速度を大幅に上げ、疲労も軽減する、冒険者の必須アイテムだ)の履き心地を確認したりと、その他の僕には知りえない細々とした書類仕事まで含めて、ずいぶんな働きを見せてくれた。

 かくて、僕がしなければならないことと言うと、彼女の詰めた鞄を肩にかけ、彼女の勧めるままに「靴」を履き、あとはその見目でリゼットをはじめとする城の人々に一礼する、ただそれだけであった。


「なにをぼうっとしているのよ、勇者。早く行きましょう」

「あ、うん、ごめん」


 なんというか、あっけにとられた、というか。旅の始まりというのは、本来こういうように、本人を置いてけぼりにして、どこか愉快なパレードのように進んでいくものなのか。

 いや、実際、ほとんど大抵の旅人はこんな風なのだろう。ジゼルの後ろをついていきながら、足元から伸びる整然としたレンガ道を見下ろす。僕の最初の旅の始まりは、人の肉の焼けるにおいが充満した地獄で、こんな道は真っ先に魔王軍に踏み荒らされていた。


 僕は、マントに隠すように背負った聖剣の重みを感じながら、ここら一帯の燃え焦げた景色を思い出しながら、それでも、今は平和になったのだと思った。生死を賭けてまで手にした今日だが、中々悪くないじゃないか。勇者であるこの僕が、人間と遜色ない体験をできるようになるというのは、気分がいい。


「ジゼル」

「なにかしら」

「たのしみだな」


 彼女の前に踏み出て、よく彼女自身がやるように、くるりと振り向いて見せた。横に走る景色の中で、彼女の驚いたような顔が、満面の笑みに変わる。

「ええ、そうね」

 僕はどこか誇らしいような気持ちで、半年の平穏を過ごした城下町をあとにした。

 勇者は自分のためには何もできないけれど、きっと誰かは救えるのだと、信じて。

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