第2話 神官襲来

 勇者というものについて、考えるならば。

 それはあたたかなベッドで眠ることを許されない。

 それは家と呼べる場所を持ち合わせない。

 それは魔王を倒せるもので、そういう意味について神に優越する。そして、日常を送ることが出来ないという意味について、ひとに満たない。

 勇者というのは、とても生きにくいのだ。

 そう、たとえば、あたたかな春の朝、血みどろの夢しか見ることができないように。


「……またか」


 窓の外から差し込むひかりは、空から落ちて葉をつたい、さわやかな緑となって、白い壁を染めている。びっしりとこびりつく汗を、ずっとずっと集めていたからだろうか。やわらかで軽いはずの掛布団がなんだか重い。だが、もう日はのぼっているのだから、早く起き出して、素振りを始めなくては。平和ボケだけは御免だ。


 壁の方を見たままで、掛かっている剣のどれを使おうかと考えながら、布団をつかもうと手を伸ばす。伸ばしている、はずだ。なぜか、手探りの先には布団ではなく、やわらかい、しっかりとした質量のなにかが触れている。それに、この体中の汗は、たんにうなされていたからというだけではないらしい。布団をへだてたところに、妙に熱いものを感じる。


 僕は遠ざかっていく夢の中の心持ちを、かすかながらにたぐりよせたような感覚がした。身の毛もよだつようなあれだ。いやな予感が冷汗のふりをして、血のかわりに、首の中へつたい落ちていく。そのあとで、ぞわりと、肌が粟立つ。


 あと、十数えたら。そしたら、諦めて上を向こう。

 心臓が拍をとる。あと、あと七、六、ご、ていねいに、できれば、ゆったり。

 だけどそんなの、叶うはずがなかったのだ。


「ひさしぶり、勇者!」


 首から鳴る妙な音とともに、ぐわりと動いた視界には、薄緑の部屋の中、とてもさわやかとは言えない笑みと、鈍く光る血濡れのロザリオ。


「ジゼル」


 清楚なふりをした黒衣の、蛾の羽音のような衣擦れに、僕は深く、深く息を吐いた。ほら、いつもそうだ。役目を果たしてさえも、勇者には何も自由じゃない。


「……どいてくれる?」


 ちょっとつっけんどんな声が出たのに、自分でも少し驚いた。いつのまにか視線も彼女から逸らしている。いや、でもだって、ばつが悪い。そもそも年のそう変わらない女が自分の上にまたがっている時点で色々とアレだし、それに、これが一番問題なのだけど。さっき布団の代わりに触ったあれって、もしかしなくても、


「うわあ……」

「……?なによ、どかないからね。面倒だし」

「いいよ、もう……それくらい……」

「変な勇者。ま、いいならいいわ。別に寝込みを襲うだけが目的じゃないのよ。とっとと本題に入らせてもらうわ」

「襲うのも目的ではあるんだね……」

「もちろん」


 ジゼルはにひ、と金色の髪をかきあげた。そのなにげない動作が、むかつくほど艶っぽい。その色香に目を奪われたら運のつきだ。彼女に弱みを握られたが最後、延々からかわれて振り回されるということを、あの半年間の旅の中で、僕は身に染みて知っている。

 そうか、だからこんなに嫌な予感で頭がいっぱいなのだ、と合点がいった。今の僕は、見たなんていうことよりもずっと大きな弱みを握られている。彼女の訪問の目的は未だ分からないけれど、何か頼まれでもしたら、僕は間違いなくそれを受けるほかないだろう。


「はあ……」

「なによ、まだなにも話してないじゃない」

「どうせまた、ろくでもないこと言うんだろ」

「あら、そう大したことじゃないわよ。期待されると上乗せしたくなっちゃうわね」

「しなくていい!いいから!」

「そう?じゃあ、単刀直入に言わせてもらうけど」


 ジゼルはたいそう愉快そうに、きゃらりとほほ笑んだ。


「今すぐ、私と旅に出なさい」


「断る!」


 反射的に、考えるよりも早く口が動いていた。弱みがあるとか、そういう冷静な判断が、すっぽり頭から抜けていく。

 だって、不自由でつらいことばかりの旅を終えて、世界を救って、ようやく平穏を手に入れたのだ。簡単にこの生活を手放してたまるか。僕は定住して、近所づきあいをして、たまーに遠出するくらいの、穏やかな日々を過ごすんだ。


「やだ、ぜったいに、やだ」

「どうしても?」

「なにがなんでも!」

「ふうん……」

「な、なんだよ」


 僕の必死の反抗にも、ジゼルはにやにやと碧色の目を細めるだけで、その値踏みするような奥の冷たいひかりが、なんとも僕の不安をあおる。

 いつもそうだ。こうやってジゼルという女は、なんでも手のひらで転がしてきた。

 自分と対峙した魔物のような心持で生唾を飲み込んだ。絶対敵わない相手なのに、逃げられない。そんな絶望だ。


「……大体、何のために旅に出ないといけないのさ。まさか、暇つぶしとか言うなよ」

「そんなわけないでしょう?私、これでも重役についたのよ。なんていったって、勇者のパーティ、それも魔王討伐の成功者だもの。息をつく暇もないような日々を送っているわ」


 嘘つけ、今がその暇だろうが。そんな悪態をかろうじて呑みこんだ。こいつの話にいちいち反応したら、話がいつまでも進まない。


「じゃあ、なんだって言うんだよ。お前が重役なのくらい、さすがに想定内だ。勇者の仲間とか、そういう権力にあやかるのはお前の国の十八番だし」

「そう。そうね、あの国はそうよ。神を貴び、その授け物である勇者を重く扱う。そこまで分かっているのなら、その頂点に近い私が、わざわざお仕事を休んで、あなたにこうして頼んでいるということの意味も、少しくらい計ってほしいものだけれど」


 白手袋がひらひら揺れる。すごく、馬鹿にされている。さっきまでと違って、ずいぶん気に食わないという態度だ。彼女がそこまでいやがるものと言えば、赤い野菜と移動魔法の副作用の浮遊感、それから、……そうだ、僕と一緒で、自分を取り巻く権力だ。


「まさかジゼル、僕に旅をしろって言うのは」

「そうよ。私のお願いではなくて、私の国……オルテンシア神国の依頼よ。当然報酬は破格だし、代わりに達成義務もある。……あのプライドの高い堅物どもがここまでして、しかも勇者の仲間でなきゃ顔も合わせたくないような、倫理観皆無、シスター失格と名高い私に頭下げて交渉を頼んでまで、あなたに頼む理由、分かる?」

「……神託を受けたな、お前ら」

「だいせいかーい、勇者ったら、冴えてるう」

「嬉しくない……」


 頭を抱えながら、僕は自分の察しの悪さにめまいがした。ある意味当たり前の話ではある。ジゼルは飄々としているけれど、仕事をサボるような奴ではない。それに、シスターとして箱入りで育ったせいか、意外と出不精で、考えてみれば暇つぶしに旅に出るようなことはしないだろう。むりやり行かされるにしろ、ある程度は抵抗を見せるはずだ。せめて私服で行かせろとか、馬車を用意しろとか。そういう気配がないあたりからも、彼女すら弱みを握れない、逆らえない相手……神とか、世界とか、そういうやつらの指示だというのは予測できる。

 そう考えると、なんだか、僕の寝込みを襲ったジゼルの気持ちが、少しだけ理解できるような気がした。要は、少しでも自分の好き勝手にやらなければ、気が済まなかったのだろう。いや、だからって、その意趣返しを僕にするのは、どうかと思うけど。


「……なんていうか、大変だな、お互い」


 神さまに逆らえないのはジゼルだけではない。むしろ、魔王を倒すまでに散々神託に頼った分、僕の方は負い目もある。神託の中身は知らないけれど、どうせろくでもないことを言いつけてくるのだろう。あいつら、いつもそうだよ。こっちには肉体という限界があるのを、まるで無視して、自分の価値観で話を進めてくるんだ。


「神託なら、僕も受けるしかないよ。はやく内容を教えてくれる、ジゼル。いつ聞いたって、ろくでもないものはもうどうしようもないから」

「勇者って、ほんと難儀ね。珍しく同情するわ。いいわよ、でもね、言うほどえぐくはないのよ、見た目は。……簡単に言うと、まあ、人探しね」

「驚いた。竜を一人で狩れとか、もっとそういう、明らかに死ぬだろってやつを覚悟してた、僕」

「逆に怪しいわよね。でも、疑っていても、どうせ神様のお考えなんて、わかるわけがないし」

「だね。本題だけ考えた方が得策だな。……で、その探す相手っていうのは?まさか、殺人鬼とかじゃ」

「勇者は探せば探すほど危険に近づくハメに、っていうパターンを想定しているみたいだけど、びっくりすることにその線もナシよ。探すのはアウローラの勇者、ジークベルト。あなたも同業者だし、名前くらいは知っているんじゃないの?」

「名前どころか、会ったことあるよ、僕。僕が旅に出る三年くらい前に、一度彼がここを……クレテールを訪問したことがあって。剣の稽古もつけてもらったし」


 僕の言葉に、ジゼルは珍しく驚いた顔で、あら、と目を見開いた。


「他国の勇者が交流を持つのは、外交上の問題があってむずかしいとかなんとかって聞いていたけれど」

「普通はね。そのときはアウローラも認めた公式な訪問だったし、本人の意図は知らないけど、多分クレテールの勇者よりもうちのジークベルトの方が強い、って誇示する目的もあったんだと思うよ」

「そのわりに、勇者は涼しい顔してるわね」

「そう?まあ、僕は自分以外の勇者に会うのなんて初めてだったし、まして、自分より強い人に会ったのは久しぶりだったから、単純に楽しかったんだよ。僕とは違って、ジークベルトは正義感の強い、勇者らしい勇者だった。……探すってことは、いなくなったってことだろ。僕はそこがひっかかる。彼は、失踪するような人ではないはずだ」


 勇者には二つの形がある。一つは、もともと魂が勇者として運命づけられているもの。これが僕だ。天才とか、そういう風に言ってもいい。魂の性質が「魔王を倒すもの」として位置づけられているせいで、そのために必要なことなら、努力することなく成果を挙げられるようになっている。そして二つ目は、こちらがジークベルトにあたるのだが、努力を重ね、ただの人間であった魂を勇者の性質にすることで、神に勇者と認められた、後天性のものだ。

 二人の違いは明確だろう。僕は何ひとつの努力なく、ジークベルトはたゆまぬ努力で、勇者の名と力を得たのだ。そしてなにより後者は、自ら望んだのだ。この差はとても大きい。


 たとえば僕は、自分が勇者であることをこれっぽっちもありがたく思っていない。だからその気になれば、勇者であることを放棄して、ある程度逃げ回ったりすることもあり得る。実際、かつて世界を救った勇者の中には、魔王を貫いたその聖剣で、人間の心臓を突き破ったものがいくつもいると聞く。

 しかし、ジークベルトは絶対に、そんなことをするはずがない。だって彼は、もとは人間なのだから。神を信仰し、世界に感謝するのが常の人間が、神を裏切るようなことを、できるはずがないのだ。


「まあ、本人に会って聞けばいい話か……」


 どのみち旅に出ることは、もう変えようのない事実だ。今ここで考えてもらちが明かない。

 心はもう決まった。さしあたり、次は見目の方だろう。


「ジゼル、着替えるから出て行ってくれる?どうせお前のことだから、今日すぐに出る気なんだろ。旅の支度ともなるといろいろ用意がいるし、それに朝食もまだだから、時間がかかる。なんなら、先に出ていてくれてもいいけど」

「ああ、それなら心配いらないわよ」

「は?いいからどいてくれ。ウチの銀行は混むから、朝一で行かないといけないんだ。ほら」

「だから、それも必要ないってば。私に考えがあるのよ。朝のこと、口外されたくなかったら言うことを聞きなさい」


 すっかり失念していた「弱み」に、一気に指先が冷えていく。僕の上からいつのまにかどいて、床に立っていたジゼルを、僕はどうしようもなく見上げる。頭上の笑顔はずいぶんと迫力があって、というか、きゃらりと笑うそれは、まさか。


「とりあえず、脱いで」

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