どうか勇者を殺してね

阪本 菊花

一章 勇者の証明

第1話 聖戦

 もう少し。もう少しだ。


 一歩踏み込んだ足元が滑りかけて、ふらついてはいたけれど、そこまでではないだろう、と下を向く。まぎれもなく自分のものであった血が、ぐちゃぐちゃとブーツをとらえているのに冷汗が流れた。でも、もう少しだ。これ以上の血だまりはできない。できるとしたら、それは僕のものではない。


 だから、この先へ走り出すことに、何の恐れもない。


 横目に見る黒衣は、座り込んで、真っ赤に汚れていた。一体その下に、どれだけ魔法で無理やり縫合された傷があるのだろうか。彼女は茫然と僕を見つめている。すがるように手を合わせかけて、まるで本当に信心深いみたいじゃないか。僕は足を速めた。あの彼女が神に祈ろうだなんて、よっぽどこの戦いは、救いがないように見えるらしい。


 でも、もう少しだ。もう少しなんだ。


「どいて!」


 走りながらだからか、それともこっちも死にかけだからか。敵の叫びの合間に上げた声は、驚くほど威厳のないかすれ声だ。ふらつきながらも敵の前に立ち、かわるがわるに武器を振り下ろし続ける二人には、恐らく聞こえていない。

 それでも二人は振り向いて、足をひきずりながらも両脇へと退いてくれた。うやうやしくものを見る目が、僕の背中の方を見ている。じっと見ている。それ以外、もうなにもできることがないと、心底知っているかのような態度は、実際、骨の髄まで理解しているのだろう。


 僕は身の毛もよだつような嫌悪感を覚えた。走りすぎて血を吐きそうなのだ、多分。ただ、知らないふりをしているだけなのだ。


 めちゃくちゃになった絨毯も、体中の大怪我も、ここまでの苦難の道のりも、すべてもうすぐ終わることを僕は知っている。だって僕が言うのだ、もう少しだ、と、なによりその瞬間を待ち望んだ僕が。だけども、この胸で広がる暗い夜は、きっと永遠に終わらない。それも僕が言うのだから、あるいはあの目が語るのだから、確かなのだ。彼らが人間で、僕はそうではないことを、どうやって疑えばいい。


 ああ、もう少しだ。知っている。体中がたいらになるほど呼吸が浅くても、どこかの骨が折れていても。僕のすることはいつも神さまが定めているから、この瞬間をかみしめることさえ、本当はなにも自由なんかじゃない。


 体の動きは、もしかしたらずいぶんとゆっくりで、いっそ優美だったかもしれない。水辺の宝石に落ちた、きらほしの赤が、奴の最後が、流されて見えなくなっていく。


 ああ、魔王はまた倒された。


 なぜならこれは聖戦で、僕は勇者だったのだから。

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