第二部 船出 第21話 孤高の飼い犬 1
「一雨来るな。」
犬養心助はブラインドカーテンに指をかけ、隙間から暗くなった空を見上げて呟いた。
今朝見た天気予報では、雨は夕方からのハズだったが、どうやらかなり前倒しになる様子だ。
犬養は腕時計を見た。午前11時25分。
被疑者逮捕から約6時間経っている。
一時帰宅で数時間仮眠をとり、熱いシャワーを浴び、警察署に戻って来たところだ。
取調室2号室には1時間ほど前から我蛭優一がいる。待たせてじらし、心を揺さぶるのが犬養のいつもの手口だった。
「さてと。」
犬養は自分のデスクから資料の束を取り、取調室へ向かった。
先に取調室横のマジックミラールームに入り、我蛭の様子を伺う。
「どんな様子だ?」
「ずっとあの調子ですよ。」
八神が肩をすくめて応える。
我蛭は机に足を乗せ椅子を揺らして眠っていた。
たいした奴だ。どうやら、じらす作戦は失敗の様だ。
犬養はマジックミラールームを後にし、取調室の中に入った。
ゆっくりと獲物を吟味するように、机を1周してから対面の椅子に腰を掛ける。
我蛭は椅子を退く音に反応し、気怠そうに片目を開けた。
「足を降ろせ。取り調べを行う。」
我蛭は欠伸をしてからゆっくりと足を降ろした。
何も動じて居ないと言う意思表示なのだろう。
この部屋に来る人間は大抵二つのパターンに別れる。
虚勢を張るか、怯えるか。
どちらにしろ、犬養には関係なかった。
相手の本心が分かるからだ。
『馬鹿みたいに待たせやがって!このクソヤローが!』
じらす作戦は言うほど失敗でもなかったようだ。
内心はかなり苛ついている。
ポーカーフェイスにも程があるなと犬養は思った。
感情的になり易いが表には決して出さないタイプか。心の動きが激しい奴ほど心は読み易い。
犬養は資料の束から我蛭の調書を取り出した。
「さて、えーっと?名前は確か我蛭…優一だったか。貴様は一体何をして逮捕されたんだ?自分の罪を説明してみろ。」
「さぁな。それは俺が聞きたい。」
『罪なら腐るほどあるさ。』
犬養は我蛭の人を見下した目つきにしっかり視線を合わし、資料のページを捲った。
「では、俺が一つ一つ説明していってやろう。一つ、危険運転致死傷罪。前日の14日、深夜1時頃、県道315号線の山彦峠にてドリフト走行を行い、センターラインをオーバーし、対向車に事故を起こさせ、重症を負わせた疑い。」
我蛭の右の眉毛が少しつり上がった。
「そんなのは記憶にねぇな。証拠でもあんのか?」
「証拠はある。その対向車は警察車両で、ドライブレコーダーに貴様の暴走中の車がハッキリ映ってある。」
「…。」
『思い出した。くそっ、あの時か。だったらあれも…』
「一つ、一時停止違反。一つ、スピード違反。一つ、信号無視。山彦峠登り口で警察車両からの停止命令を無視し、逃走した際に犯した罪だ。これも、ドライブレコーダーで確認できる。」
我蛭の顔色に変化はない。
『やっぱりか。だが、あの車は俺のじゃねぇ。』
「覚えがない。それ、本当に俺のだったか?その、車種とナンバーは何だ? 」
犬養は資料を確認した。
「黒のシビック、2580。」
「それ、俺のじゃないぜ?誤認逮捕なんじゃねぇのか?」
薄ら笑いを浮かべる我蛭に対し、犬養は間髪入れず返答した。
「確かに。暴走車両は貴様の物では無い。8年前に盗難届が出されていた、盗難車両だ。しかし、貴様がその車から降りる所を港の監視カメラが捕らえている。その上、現在、その盗難車両から髪の毛を採取しDNA鑑定を行う予定だ。」
我蛭の顔から笑顔が消えた。
「つまり、罪が加算される事になる。一つ、自動車窃盗罪。まだある。」
犬養は資料のページを捲った。
我蛭のイライラは犬養が資料のページを捲る度に増していっているようだ。
『次、紙をめくったらぶっ殺す!』
「一つ。建造物侵入罪。客船ブエナビスタ号へ不法侵入をした疑い。そして、最後に公務執行妨害罪。逮捕時に警官一人に暴行し怪我を負わせた疑い。以上、7つの罪の疑いで本日午前5時46分、貴様を逮捕した。この後、検察に引き渡すまでは署内留置所にて身柄拘束する。」
「好きにしろ。」
我蛭は観念したかのように目を伏せて言った。
『こんな所いつでも、逃げてやるさ。』
確かに、念力を使えば留置所の鍵など無意味だろう。
犬養は資料を束ね、椅子から立ち上がった。
だが、犬養には我蛭がある条件を満たすまでは逃げださない事が分かっていた。
「ところで、おい。良二は、弟はどうなんだ?怪我してるんだろ?」
「貴様に教える義務はない。」
そう。我蛭が警察にすんなり捕まった理由は弟だった。客船で如華に弟が逮捕されたことを知り、助けるためにわざと捕まったのだ。
だから、弟が病院からこの留置所に移送されるまでは逃げださないだろう。
「それにしても、弟が生きていたとは。記録では車の事故でダム湖に落ちそのまま行方不明、一年後、捜査打ち切りで死亡認定されていたのだろう?どこでどうやって生きていたのか?貴様は何時から弟の生存を知っていたんだ?」
「テメェに話す義務は無い。」
「そうか?ま、本当は分かっているんだがな。貴様の口から聞きたかった。虻川と言う男を知ってるだろ?児童養護施設、愛行園で同部屋だった男だ。」
顔には一切出していないが、どうやら我蛭はかなり動揺しているみたいだ。
思考が途切れ途切れになり、心が読み取れない。
「虻川に聞いたよ。事故の後、弟をずっと部屋に匿って居たんだよな?よく誰にもバレずに3年も隠し通せたものだ。」
『あのクソ野郎!よくもベラベラと余計なことを喋りやがって!次会ったときは舌を引っこ抜いて、2度と喋れない様にしてやる!』
本当の所、虻川は何も口を割らなかった。
我蛭の事を心底恐れていたのだ。犬養が的を射た質問をし、思い浮かべた心を読んだだけなのである。
沈黙する我蛭に対し、犬養は更に続けた。
「貴様に見て貰いたいものがある。」
犬養は資料から1枚の写真を取り出した。それを我蛭の目の前に置き反応を待った。
数秒間眺めた後、目が大きく開かれた。
『みく!何故コイツが美玖の写真をもってやがる!』
相変わらず表情は硬いままだったが、奇襲は成功のようだ。
「安藤美玖。貴様と同じ愛行園にいた少女だ。知ってるな。」
『この男、何をどこまで調べてあるんだ?ちっ、これじゃ、下手なことは言えねぇ。』
「ああ。知ってる。懐かしい顔だ。」
「施設で起きた少年の不審死事件の時、この少女の証言で貴様に容疑がかかった。そうだな?」
「ああ、覚えてる。たまたま、窓の外に居ただけだったのに、とんでもない言いがかりだったさ。」
『俺が、念力を使ってナイフを刺した。』
「その数年後、少女が失踪した。その失踪について何か知ってることはないか?」
「さあな。知らねぇな。」
『もちろん知ってるさ。何かと嗅ぎ回るから、俺が殺して埋めてやった。』
犬養は鋭い視線を投げかける。
「実はな、虻川が少女の失踪に貴様が関わっていると証言している。」
「ふざけんな!嘘だ!嘘に決まっている!そんなはずはない!俺は関係ない!」
我蛭は机を叩きつけて怒鳴った。そして、すぐに後悔の顔色を伺わせた。
『これじゃ、関係あると言ってるようなもんだ!落ち着け!こんな時の為に、手は打ってあるじゃないかよ!』
一息ついて我蛭は口を開いた。
「虻川の方が失踪に何か関係あるんじゃないのか?よく調べて見たか?当時、あの2人は付き合ってたんだ。家宅捜索でもして引っぺ替えしてみて見ろよ。何か出るんじゃないか?」
『虻川には美玖に関する物の入った木箱を、大切に保管させてある。当然、虻川に箱の中身は一切知らせてない。こんな時の為の保険だ。』
「2人の交際は初耳だな。助かる。」
犬養はそう言って席を立った。
尋問の成果はあった。虻川の証言はでっち上げだった。それが、こんなに功を奏するとは。
捜査の鍵が見つかったのだ。
今の犬養にはこの事件のゴールが見えていた。後は段取り通り事を進めれば満足いく仕事が出来る。
犬養は仕事にあたる上、結果を想定し、そこまでの最短のルートを見極め、段取り通り人を動かし、解決するまでを瞬時に組み立てる事が出来る能力に秀でていた。
そして、それは100パーセントの解決結果を出していた。
我蛭は犬養の満足げな顔に穴を開ける勢いで睨みつけていた。
『良二がこっちに来たら、こんな所さっさと逃げ出してやる。それから虻川の始末だ。』
犬養は我蛭の心の声にそうは問屋が卸さない顔で応え、部屋を後にした。
後は時間の問題だ。
我蛭優一を拘束できる時間は残り40時間ほど。
兎に角、それまでは良二を病院に縛り付けておく必要がある。
犬養は病院にいる蜂谷に電話した。
「どんな様子だ?」
「検査結果が出るまであと小一時間はかかるそうですが、ピンピンしてますよ。さっきも暴れ出して拘束衣を破る勢いだったのですが、今は鎮静剤で眠っています。」
「あと2日間はそっちで入院させておけ。」
「えっ!それは無理ですよ。今も院長に早く連れて行けと急かされたばかりです。病院に置いておく理由はないって。」
「何とかしろ。多少、手荒な事も俺が許可する。」
「えっ!そんな…」
犬養は途中で電話を切り、八神を呼んだ。
「病院に向かえ。我蛭良二を病院から出さないよう、蜂谷を援助してやれ。」
八神は露骨に厭な顔をした。
「蜂谷の下につけと言うんですか?」
『何故この俺があんなカスに。』
「不満か?」
「はい。僕に指揮権を下さい。蜂谷は1年先輩ですが階級は同じでしょう?」
『あんたも少しは人を見る目を養えよ。』
「良いだろう。期限は丸2日間だ。失敗したら責任を問うからな。」
「任せて下さい。」
『俺様の人生に失敗なんてないさ。』
犬養は勇んで廊下を去っていく八神を見送り、ため息をついた。頭が切れてそれなりに仕事はできるが、あの性格だと先が思いやられるな。
犬養は一息入れるために喫煙所へ向かった。
警察署の喫煙所は2カ所で、5階休憩室隣に設けられた2坪程度の署員専用喫煙室と庁舎外にベンチとスタンド灰皿がポツンと設けられただけの喫煙所があった。
健康増進法と喫煙が悪という世間の風評により、人目につく外の喫煙所には警察関係者は近寄らないため、2坪の喫煙室に寿司詰め状態の光景が日常だった。
しかし、犬養が選ぶのは庁舎外の方だった。2坪内は犬養の能力が1番発揮しやすい範囲なのだ。
対5、6人位までは心の声が聞こえないように制御出来るのだが、それ以上の人数になると漏れてくるのである。上司や同僚の悪口や、中には聴きたくもないような、下世話な性的嗜好や不倫話など。
それ以上に犬養は、様々な秘密を持っている警察関係者の情報漏洩に一役買わないようにと、気を使っていた。
外は夕暮れ並みの暗さになっていたが、まだ雨は持ち堪えていた。
胸ポケットからマルボロを取り出し、裸の女の絵が刻印されたジッポーライターで火を付ける。
初めてホシを挙げた記念に、当時の先輩から貰ったライターだ。絵は趣味では無かったが、犬養は気に入って使っていた。
最初の一口を満喫する。煙が全身に染み渡り、緊張が溶け出した。
能力のお陰で他人と擦れ違うだけでも神経を磨り減らすのだ。
犬養は孤独の時間を必要としているため、一生独身でいる覚悟を決めていた。
生涯を仕事に費やす覚悟を決めていた。
大体、犬養でなくとも刑事の仕事は家庭に不向きなのである。その点では、天職だと言えた。
通りの反対から知った顔の男が近づいて来る。
検察官の猿渡だ。ニタニタと嫌らしい顔付きでベンチに座り込んだ。
「聞きましたよ、犬養くん。ホシを挙げたんですって。早く私に引き渡して下さい。」
こんなに顔にでる奴は他にいない。心が読めなくても考えが筒抜けだ。出世するため点数稼ぎに躍起なのだ。
「悪いが、そっちに渡せない。まだ調べる必要があるんでな。」
「あらあら、私に嘘をつくのですか?危険運転、一時停止、スピード、信号無視、窃盗、不法侵入、公務執行妨害。書類は全て揃ってるんでしょ?」
調べた上か。小狡い奴め。
「誰に聞いたか知らないがまだ書類は不十分だ。第一に殺人の容疑が固まってないからな。」
「殺人?あー遠隔操作とか何とかのヤツですか?それは後回しにして下さい。他の容疑で私が起訴した後でも遅くないでしょう?」
猿渡はズレたメガネの隙間から犬養の顔を覗き込んで言った。
犬養はその仕草を見た事があった。法廷で裁判官に訴える時によく使う仕草だ。
「却下する。1度、姿をくらましたんだ。貴様の点数稼ぎに付き合うつもりはない。すぐ保釈され、また逃げられたら堪らないからな。もし、そうなった場合は俺は貴様に責任を問うぞ。それでもいいと言うのなら、今すぐ渡そう。」
犬養の真っ直ぐな意見に対し、猿渡は露骨に厭な顔を作った。
「そんな、責任転嫁は困りますね。ま、どうせあなた方の勾留は最大で2日が期限。それまで、首を長くして待ってますよ。」
猿渡はズレたメガネをかけ直し、ポケットに手を突っ込んで去って行った。
面倒なヤツに嗅ぎつけられた。これで、のんびり構える暇は無くなった訳だ。
猿渡は出世のために数をこなす検察官だった。
目の前に転がっている資料だけを見て、事務的に処理し、さっさと起訴してしまうのだ。
猿渡のお陰で罪が軽くなった犯罪者もいると、真しやかにささやかれていた。
ルール上、被疑者を警察で身柄拘束できるのは最大48時間。その後は、検察に資料と身柄を引き渡さなければならなかった。俗に言う書類送検の事だ。
今並んでいる罪だけでは、実刑に手が届かないのは分かっていた。執行猶予付の懲役数ヵ月程度に過ぎない。
犬養は我蛭を大量連続殺人事件で逮捕し、死刑相当が狙いだった。死刑囚は24時間監視つきなので、念力を使える我蛭とて逃げることはまず不可能だからだ。
今の罪で猿渡に起訴されてしまうと、簡単に保釈されてしまうのだ。我蛭が保釈されて裁判まで大人しくしているとは思えない。今度、逃げられると簡単には捕まえられないだろう。
何せ、蛯名の能力のことがバレているのだ。逆手にとられることは間違いない。
犬養は携帯電話を取り出し、リダイヤルから蛯名の電話番号を探した。
40時間以内に安藤美玖を探さなければ。
時間が無い。蛯名にもう一働きして貰うしか、手はなさそうだ。
我蛭逮捕後、別れてから約8時間程経っていた。もう、起きていてもいい頃だろう。
犬養は発信を押した。
しかし、まだ寝ている様で、中々電話に出ない。
もう一度、かけてみる。
10回目のコール音の後、怒鳴り声が犬養の耳を劈いた。
「うるせー!!!しつこいんだよクソがっ!!」
どうやら、電話に出たのは有馬の方の様だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます