第20話 探し屋エビチリ亭 10

手がヒリヒリする。

こんなに手が痛くなるなんて知らなかった。


蛯名千里は生まれて始めて、人に思い切りビンタをしたのだった。

千里は如華の事ががどうしても許せなかった。

色恋沙汰は仕方ない。女だから。

そのせいで、裏切るのも仕方がない。女だから。

わんわん泣いて、弱音を吐くのも仕方がない。

それが女だからだ。

千里が許せなかったのは、その程度の失恋で死にたいなどとぬかした事だった。


「二度と私の前で死にたいなんて口にしないで!」


車の後部座席でもう一度如華に念を押した。

如華は黙って頷いた。

千里はビンタをされてから如華が一度も声を発していない事が気になった。

悲しいのか、怒っているのか、今どのような感情でいるのか分からず苛々した。

千里は如華に怒っていたが、嫌いになった訳ではないのである。好きだからこそ、一挙手一投足を気にせずにはいられなかったのだ。


そんな時、隣のパトカーの後部座席に手錠をされた我蛭が押し込まれるのが見えた。

如華の目に一瞬光が宿り、その直後、痛みに耐える様に目を深く瞑るのを千里は見逃さなかった。


相当、重傷のようだ。


我蛭はカジノルームの裏口から出た直後、待ち伏せていた犬養達に逮捕されていたのだった。


犬養は客船で如華を自由にさせていた訳ではなかった。

何か問題を起こさないように、部下の一人を如華の尾行につけていたのだ。

その部下は如華が営業していないカジノに潜り込んだ事を変に思い、直ぐさま犬養に報告した。

それを受けて犬養が急いでカジノに駆けつけ中を覗くと、中に我蛭がいたという訳だった。

それから犬養は客船にいる部下達を総動員し、あっという間にカジノルームを完全包囲し、突入のタイミングを計っていたのだ。すると、我蛭自ら部屋を飛び出してきたので、そこを押さえたという訳だった。


千里はと言えば、その数分後ダウジングでカジノルームに辿り着いたのである。


「何て事!骨折り損じゃない!」


当然の文句が出た。又しても、一歩遅かったのだ。


逮捕時、我蛭は抵抗し蜂谷に投げ飛ばされたらしい。兄弟揃って一本負けしたのだ。

その後は諦めた様子で、大人しくお縄についたのだった。

罪状は危険運転致死傷罪、不法侵入罪、公務執行妨害罪の3つだ。殺人罪の件は、3つの罪で拘束している間に捜査し、立証出来る証拠を見つける事になった。


とりあえずは一段落で、長い一日が終わった事に千里はホッとした。

まだわやることは山積みだが、それは明日考えよう。やっと、ベッドに飛び込むことが出来ると心底喜んだ。

正直、あまり活躍できなかったが、結果として罪深き我蛭兄弟を逮捕できたのだ。そして、懐かしい仲間との再会もあった。全然、悪くないんじゃない?

千里は持ち前のプラス思考で本日の総括をした。


コンコンと窓を叩く音がする。

外を見ると、犬養が立っていた。

千里はパワーウインドを下げた。


「蛯名。ちょっといいか?」


「何?」


犬養の目が降りてこいと訴えている。

千里は仕方なく車を降り、犬養について歩いた。

まさか、ここに来て何か問題が起こったのだろうか?

犬養の神妙な顔つきに千里は少し不安になった。


「厄介事じゃないでしょうね?」


「有馬の事だ。」


犬養の真剣な眼差しが、千里の第六感を刺激した。それは、不吉な予感だった。何とか誤魔化し、話を逸らさなければ。


「有馬って、年末にある国民的行事、グランプリレース有馬記念の事?まだ3ヶ月も先の話じゃない。今から予想?ま、大体出走する馬は分かっているけど。私の本命は去年の菊花賞馬かな。春の天皇賞も制したしね。引退とかが多くて他の古馬に魅力的なのがいないし。今年の3歳牡馬次第ね。菊花賞で新しいスターが生まれれば面白くなるわ。」


「否、有馬如華のことに決まってるだろ。」


犬養はあきれた様子で言った。


「えっ!競馬じゃ無いの?私はてっきり…」


「もういい。有馬の事だか、意図的に我蛭を逃がそうとしたのではないかと疑っている部下がいてな。」


「衝動的だっただけよ!庇ってやって!」


そう言う事なら話は変わる。守ってやらなければ。如華は今、精神的に病んでいるのだ。


「分かっている。そこまで、深く追求はしないつもりだ。しかし、お前の能力を使って見つけた事を我蛭に打ち明けたのは許しがたい。」


「ま、良いじゃない。わんちゃんの力は言ってないって言ってたし。それに、結果的に逮捕できたじゃん。2度と逃げられないようにしとけば問題ないっしょ?」


千里は事がややこしくならないように軽く受け流した。


「うむ、そう言う事だな。兎に角、今回だけは幇助罪に問われる事のないように計ろう。だが、この先、変な気を起こさないように目は光らせとかないといけない。」


千里は犬養が何を言いたいのか直ぐに分かった。つまり、如華の監視に千里をご指名なのだ。


「そう言う事ね。わかった。私が引き受けるわ。私は別の意味で変な気を起こさないか心配だったから。」


犬養は如華の乗った車の方に目をやった。


「そうだな。心が闇に囚われている。今暫くは一人にしない方が良いだろう。全く。本当に世話の焼ける奴だ。」


犬養は面倒臭そうに言い放った。

千里は犬養の様に心は読めないが、犬養が本気で如華の事を心配しているのが、目に見えて分かった。

恐らく、犬養は如華の心を読んだのだろう。

自殺を考えた事を知り、千里に一緒に居てやれと遠回しに言いに来たのだ。

結局、如華の罪がどうとかは口実だったのである。

最初から素直に、一人にするのは心配だと言えば良いのにと、千里は思った。


車に戻る数十歩の間、千里は如華に何て切り出そうか思い悩んだ。

直接、本当の事を伝えるのは得策では無い気がする。

何か、いい手はないか。

そう言えば、如華は変な所に居を構えていると言っていたわ。

千里は良いことを思いついた。

千里の家は2LDKで部屋が1つ余っているのだ。LDKの部分を事務所にし、一つは寝室、一つは物置にしていた。その物置を空けて、暫く如華とルームシェアするのはどうだろうか。


千里の顔が見る見る明るくなる。


そう!毎日毎晩顔を合わせるの。施設に居たときは夜通し恋バナしたっけ?楽しそうじゃない。何だか、ワクワクしてきた!

でも、家賃はどうしよう。立地が良いから結構高いのよね。じょかちんに払えるかしら?

きっと施しは受けないだろうし。

何かバイトしてるんだっけ?あの感じじゃ、まともに働いてないだろうなぁ。

そうだ!

探し屋の助手として雇うのも有りじゃない?

それなら、給料から家賃を引けるし、一日中監視も出来る!ナイスアイディアだわ!


千里はテンション高めで車のドアを開けた。


「ヤッホー、じょかちん!いい話があるんだけど。聞きたい?ねぇ?聞きたいでしょ?」


 数ヶ月後、この提案を後悔することになるのだが今の千里には知るよしもなかった。

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