第19話 眠れる森の美女 10
「やっぱり、ここだった。」
有馬如華は胸がきゅーっと締め付けられていた。
目の前に我蛭兄がいるのだ。
カジノにいるという如華の予想は当たった。
客船は日本海域内にいる限りカジノを運営できない。だから、スタッフはもちろん乗客も一切近寄らないのを知っていた。隠れるには打って付けの場所だったのだ。
入り口から1番遠い右奥のクラップス台の椅子に、我蛭兄は座っていた。
如華は台を挟み、我蛭兄の目の前に立った。
「…お前は!?何でお前がここにいるんだ?」
我蛭兄が驚いて立ち上がる。
「ちょっとまて、良二はどうした?まさか、あそこから逃げ出したのか?」
如華は我蛭兄のパニック姿が少し可愛らしく見えた。
「ん?いや、だとして、なぜお前がここにいるんだ?何しにきたんだ?」
「アンタに会いに来たの。」
如華は我蛭兄の目をじっと見つめて言った。反応を見る為だ。
一目見て自分の気持ちは分かった。
この男を愛しているのだと。
後は我蛭兄の気持ちがどうかだ。
如華の想像では、我蛭兄が自分を強く抱きしめキスを求めてくるハズだった。
しかし、それは最終レース一発逆転大穴狙いの当たるハズのない予想と同じだったみたいだ。
「いや、待て。何故、俺の居場所が分かったんだ?」
今の我蛭兄は警戒心の塊だった。
予想外の出来事に、理性がフル回転しているのだろう。事態を把握するまで感情が表に出ることはなさそうだった。
「アッアンタ達の会話を聞いてたから。朝一番の船に乗るって言ってたでしょ?」
如華は後悔した。
我蛭兄の当然の疑問に答える準備を忘れていた。気持ちが先走り過ぎていたのである。
「嘘だな。それだけでは簡単に俺に辿り着けるはずが無い。本当の事を言え。」
我蛭兄の目の色が変わる。怒りと疑いの目だ。
これじゃ、我蛭兄の本心など到底分かりそうに無い。
我蛭兄は如華から目を離さず、クラップス台に手をのせたまま、じりじりと近づいて来た。まるで、狩人が獲物を追い詰めるかの様に。
如華は我蛭兄から逃げるように後ずさりした。
こんな展開は想像と全く違うのだ。如華の想像では、小屋で情熱的に求められたイメージがあった。忘れ物だと言って、激しいキスをしてきた時のイメージが。
まさか、こんなに敵意を向けて近づいて来るとは思いもしなかった。
如華は一定の距離を保つため、どんどん後ろへ下がって行った。
クラップス台からルーレット台へ、ルーレット台からポーカーテーブルへ、ポーカーテーブルからブラックジャックテーブルへと、次々に移っていく。
その歩みは段々早くなり、スロットマシーン台の所で2人は駆け足になっていた。
そして、とうとう逃げ場の無い喫煙ルームに追い込まれてしまった。
「追いかけっこは終わりだ。さぁ、言うんだ。拷問されたいならそれでもいいが。」
我蛭兄の余りにも冷たい声に背筋が寒くなった。
こんなに、変わるものなのか?
如華は、どこまで話すか迷った。
千里や犬養、警察のことなど自分が知りうる全てを。
まず、我蛭兄の信頼を得るにはそれしかないだろう。
如華は今まさに、死ぬほど軽蔑していた友人を裏切って男をとるクソ女に成り下がろうとしていた。しかし、今の如華にその事実がまるで見えていなかった。恋が盲目にさせているのである。
如華はただ、あの時みたいに優しく声を掛けられたかったのだ。
如華の目的はもはや、我蛭兄の気持ちを自分に向けさせる事に変わっていたのだ。そのためなら、何でもするし、他の事はどうでもよくなっていた。
「わかった。アンタが消えた後の事、全部話すよ。」
如華は一歩、我蛭兄に近寄った。簡単に押し倒せる距離だ。如華の目は我蛭兄の目と唇を交互に捉えていた。
直ぐにでもキスがしたかった。
「でも、アンタにも一つ質問がある。アタシの質問に答えるのが条件。」
我蛭兄は少しの間、何かを考えてから頷いた。
「まぁ、いいだろう。さぁ、話せ。」
カジノオープンの時間。
胸元がぐっと開いた真紅の高級ドレスに身を包んだ如華が、優雅に階段を降りてきた。
その隣にはタキシード姿の我蛭兄がいる。
「これはこれは。本日もようこそ、我蛭夫妻。」
スタッフに夫妻と呼ばれ、如華は少し照れた。
「なんだ?顔が赤いぞ、如華。こっそり1杯ひっかけたのか?」
「もう!優一ったら意地悪なんだから!」
先日、オープンデッキにあるチャペルで挙式を挙げたばかりなのだ。それ以来、どの場所でもスタッフに我蛭夫妻と声をかけられていたのだが、まだ馴れないらしい。
あれから2ヶ月経っていた。
あの後、警察をうまく撒き、そのままこの豪華客船で旅を続けていた。
2人は旅費を稼ぐためにカジノに通った。
手持ちは1万円しかなかったが、ルーレットやクラップスでイカサマをし、一夜で一財産を築いたのである。
念力を使い、狙った数字に球を入れたり、好きなサイコロの目を出したりして大儲けしたのだ。
如華は幸運の女神として取り沙汰され、今や時の人となり、この豪華客船ブエナビスタで2人を知らない者はいなかった。
誰もが優しく微笑みかけ、握手を求めた。何かの大スターになった気分だった。
如華は自分の人生にこんな幸せが訪れるとは思いもしなかった。
同じ能力を持つ運命の男と出会い、結婚。
そして、来年には子供も生まれるのだ。
昨夜のベッドで優一が話してくれた内容を思い出し、如華はにやけた顔になった。
子供が生まれたら日本に戻ろう。
俺、定職に就くよ。
まともな家庭を築きたいんだ。
夢が膨らんだ。
ここで稼いだお金で一戸建てを買おう。
二階に部屋は3つあればいいかな?
庭もちゃんと作ってよ。
アタシ家庭菜園やるからさ。
夢がどんどん膨らんだ。
一人っ子は寂しい。あと2人は欲しいな。
だったら、部屋の数を増やさないといけない。
そうだ、ペットも飼おう。犬なんてどうだ?
アタシは猫がいい。
夢がどんどんどんどん膨らんだ。
どんどんどんどんどんどん膨らみ過ぎて、
パンッ!
夢が割れてしまった。
如華は妄想から目覚め、現実に戻された。
我蛭兄は如華から経緯を聞いて、直ぐさまカジノの裏口から出て行ってしまった。
如華の質問には何も答えずに。
去り際に急いで駆け寄り、我蛭兄の腕を掴んで如華は二度目の告白をした。
「アタシはアンタの事が好き!アンタの気持ちが知りたい!アタシのことどう思う?それだけは教えてよ!」
我蛭兄は如華の顔を見てボソッと呟き、手を払い出て行ってしまった。その目は酷く冷たかった。
「汚い手で触るな。売女が。」
その後、一人残された如華は床に崩れ落ち、妄想に耽っていてのだ。
好きな相手に理解して貰えない切なさ。
どんなに好きでも相手に伝わらないもどかしさ。
一度冷めた心に好意は届かない、迷惑行為としかとられない。
青春時代が無かった如華は今、初めて失恋の味を噛みしめていた。
どんな、酷い目に合っても、心がこんなに痛む事は今までなかった。
今の如華は何も考えられず、何も出来ないで居た。
全身の力が抜け落ち、床に敷き詰められた絨毯の上にに転がっていた。数多くの人に踏みつけられてきた絨毯が、今の如華には何故だか妙に愛しく感じられる。
仰向けになると真上にシャンデリアがあることに気付いた。
誰もいないのに着飾ってぶら下がっているシャンデリアが間抜けに見えた。
何かの弾みで落ちて来たら良いのにと如華は思った。
死亡原因がシャンデリアの下敷きなんて格好良くない?そうだ、念力で落とせばいいじゃん。
これって誰もしたことのない自殺方法だろうな。
あの本にも乗ってなかったし。
如華は子供の頃、世界の色んな自殺を載せた本を読んだのを思い出した。
兎に角、如華はもう生きる気力を失っていたのだ。
そんな中、ドアの開く音が聞こえた気がした。
如華はまさかと思い、慌てて身体を起こした。
しかし、我蛭兄が出て行った裏口は閉まったままだった。如華は気のせいかと肩を落とした。
「じょかちん?」
後ろから声がした。振り向くと千里が立っていた。さっきの音は千里が正面ドアから入ってきた音だったのだ。
「ヴッ…エヴィジリー!」
わっと涙が洪水の様に溢れ出た。それは、溺れそうなほどの量だった。
この洪水はどんな優れた超能力でも止められそうになかった。
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