第3話 目覚める森の美女 2

 身体が強く揺れた事で、有馬如華(ありまじょか)は目を覚ました。


重たい瞼の隙間からゆっくりと辺りを見回したが、目の前は真っ暗で何も見えなかった。地面からはゴトゴトと言う音が不規則に聞こえ、小刻みに揺れている。

ふと、古い紙の匂いが彼女の鼻を突いた。頬にへばりつく紙の感触から察するに、古い雑誌を枕に寝ていたらしい。渇ききった喉と口の中に広がる独特な味から、酒か大麻をやり過ぎたのだろうと如華は思った。大抵、記憶が飛んでる時はそのどちらかと決まっているのだ。五感が身体状況を徐々に把握していく一方で、彼女は自分が今現在どこに居るのか全く思い出せないでいた。どんなに酔っ払った夜でも必ず自宅に辿り着き自分のベッドで寝ると言った特技が自慢だった如華なのだが、今夜のせいでその自慢も封印しなければならないようだ。しかし、如華はその事柄に漠然と違和感を感じた。アタシに限ってそんな粗相はあり得ないと。兎に角、ここが何処であるかを確かめるため彼女は起き上がろうとした。しかし、手が思った様に身体を支えなかったせいで地面に顔をぶつけてしまう。そこで初めて、両手が後ろ手に縛られている事に彼女は気づくのだった。


瞬間的にかなり危険な状況だと察知し、汗が全身から一気に吹き出す。如華は身体をくねらせながら何とか上半身を起こした。しかし、すぐ天井に背中がぶつかりマトモに座ることも出来なかった。今度は周囲へと闇雲に蹴りを出してみるが、足もろくに伸ばせない狭い場所に横たわっている事を思い知らされるだけだった。


途轍もない不安と恐怖が彼女を襲い、荒い息遣いが暗闇を満たしていく。


その次の瞬間、腹部に強烈な痛みが走った。


「うっ・・・」


その激痛によって彼女の記憶が鮮明に蘇る。

あの展望台で遭遇した最悪な事態を。醜い大男に捕まり、腹部に風穴が空いたかと思う程の強烈な一撃をくらい意識を失ってしまった事を。


そして今、その大男に拉致された事を、如華は明確に悟ったのだった。


それにより、自分がいるこの狭い空間が何処なのかも分かってしまう。意識が戻ってからずっと続いているこの振動、そして、真っ暗で足も伸ばせない場所と言えば一つしかない。

彼女は今、車のトランクの中に押し込められているのだと理解した。


不意に、車の揺れが止まる。

少し間があってドアの開閉音がした。


如華は闘う覚悟を決めた。

ストリートで培った攻撃型の保身術を駆使して自由を取り戻すのだ。有馬如華はどんな状況でも誰にも屈しない強い意志を持つ女性だった。


引き摺る様な足音が段々と近づいてくる。トランクのドアを開けようとする気配を感じ、彼女は軽く目を瞑った。

トランクがゆっくり上がると、闇の中からあの大男の顔が現れた。何度見ても驚く顔だ。薄目で見てもその衝撃が薄まる事はない。


如華は大男が射程距離に近づくのをじっと待った。

自慢のピンヒールで大男の顔面を狙うつもりなのだ。

あれだけ巨大な顔なら眼を瞑ってても当たるだろう。

大男がトランクの中に身を屈め手を伸ばしたその時、如華の遠慮のない鋭い蹴りが、大男の顔面に襲いかかった。


しかし、あと1㎝。


大男の右目まであと1㎝のところでピンヒールの尖った先が止まっていた。如華の足首には大男の手がしっかりと巻き付いている。


「おっとっと。」


「畜生!離しやがれ!」


大男はもう片方の足も掴むと、如華を逆さに吊るした状態で背負い、無言のまま歩き出した。


「テメェー!離せ!この化け物!」


如華は長い間、大男の背中でわめき散らし暴れ続けたのだが、両足首に巻き付いた手が離れることは無かった。

喉が枯れてきたところで、これ以上無駄な体力を使うのは無意味だと思い、彼女は足掻くのを辞めて運ばれるがままになった。


逆さに広がる景色は星空と数メートル先までしかみえない深い森だけだった。その森の隙間に白いセダンが止まって見える。あの車で運ばれてきたのだ。その車も見えなくなり、獣道のような山道が途切れても、大男は道なき道を突き進んでいく。

周囲には誰1人として住んで居ない深い山の奥まで、彼女は連れ去られて行ってしまう様である。


「テメェ、今ならまだ許してやる。ここでやめないと、マジで地獄を見るぞ!」


今までと同様、如華の言葉に大男が反応を示す事はなかった。


「いいか、よく聞けよ、化け物!さっきの彼はヤクザの知り合いがいっぱい居るんだよ!今にもそのヤクザ達を連れてアタシを探しに来るからな!見つかったら最後、テメェは終わりだ!終わり!人生おしまいってヤツさ!分かったら、今すぐアタシを離してどっか遠くに逃げるんだ!今だったら全部水に流してやる!何もかもチャラにして許してやるよ!」


全く反応しない大男に対して如華は、言葉が通じる相手なのか少し不安になった。


「言ってる意味分かってる?」


急に大男の歩みがピタリと止まる。


「ぐふふ。」


大男の体が小刻みに上下する。

如華は逆さに頭をシェイクされた為、軽い脳震盪に襲われ気分が悪くなった。


「ぐふっ、ふぁっふぁっふぁっふぁー!」


大男が奇妙な雄叫びを上げる。


「なっ、なに?何ナノそれ?笑ってるの?何が可笑しいのよ!」


「だって、かれはぺしゃんこにしてほしになったよ。ぼくをみつけるはできない。」


「ぺっ、ぺしゃんこ?・・・星になった?」


恐らく、あの後モヒカン男はこの大男にぺしゃんこになるまで踏み潰されたに違いない。

如華は血の気が引き身体が冷たくなっていくのを感じた。


この大男には人殺しが悪と言う概念が皆無なのだろう。

ぺしゃんこにしたというセリフからは、オモチャを壊してしまった程度の感覚で、殺人の罪悪感を全く感じさせなかった。この大男にとって他人はオモチャと一緒なのだ。

人と接することで培われる、共感や感情移入といったものが完璧に欠如しているように思えた。おそらく、幼い頃から他人とコミュニケーションをとらずに今まで生きて来たのだろう。


こいつは本物の化け物だ、と如華は思った。


彼女はこの先自分の身に起こる災難を想像し、恐怖に飲み込まれそうになる。


だが、如華はまだ諦めていなかった。


普通の女性なら早い段階で心が折れていただろう。

しかし、如華はそんじょそこらの柔な女ではなかった。13才の頃から大都会のストリートで、たった一人で生き抜いてきたのである。

有馬如華には色んな修羅場を乗り越えてきた経験とその自負があった。


こんな所で死んでたまるか!

アタシには叶えたい夢があるんだ!何があっても生き抜いてやる!


如華は心に生きるという強い意志を装備した。


大男の背中に揺られて辿り着いた場所は、質素な丸太小屋だった。

人を寄せ付けない意思を持っているかのように、小屋の周囲には背の高い木々が生い茂っていた。恐らく、この小屋は衛星写真も捉えなれないだろう。この大男以外、この小屋の存在を知る者はいないのではないか、と如華は思った。

その丸太小屋には窓がなく、煙突とドアのみといった簡素な造りだった。まるで犬小屋の大きい版といった感じである。

唯一の出入り口であろう扉には、巨大な南京錠がかかっていた。一体、何のために付けられた鍵だと言うのか。泥棒がこんな小屋に近づくはずもないのに。


小屋のすぐ前には、斧が突き刺さったままの大きな切り株があり、その横に薪が乱雑に集められていた。

大男はまるで手荷物を降ろすかのように、如華をその薪の上に放り投げた。


「うっ!」


右半身から投げ落とされ、薪に肩と太腿を強く打ち付けた。

レザーのミニスカートから覗く太腿に血がにじむ。

大男から逃げ出す機会だったが、痛みにより直ぐ身体を動かす事が出来なかった。

大男は如華の二の腕をがっしり掴むと、丸太小屋へ無理矢理引っ張って行った。それから、今度は小屋目掛けて彼女を投げ飛ばした。頑丈な丸太の扉に背中を叩きつけられた如華は、呼吸困難に陥りその場に這いつくばってしまう。その間に大男は南京錠を外し、重たい扉をゆっくり押し開けた。

暗い小屋の中からは、木の香りに混じって、何か途轍もなく嫌なニオイが漂ってきた。大男の身体から発せられるニオイと同じものだ。

その匂いが籠もる部屋の中へ、為す術無くズルズルと引き摺られていく。彼女は屋内をホラー映画の恐怖場面を見るかのように目を細めて注視した。大男がランタンを部屋の中央に置くと、小屋全体が柔く照らし出されて、中の様子が徐々に浮かび上がってくる。その中のある部分を両の目が捕捉した瞬間、彼女は声を失った。


想像以上の光景が目に飛び込んできたのである。

内装は至って普通で、よくある丸太小屋だった。趣のある暖炉と小さなキッチン、木造ベッドが壁際にあり、正面奥に小さな扉があった。恐らくレストルームだろう。

ちょっとした別荘として使うには十分機能を果たす造りだった。


ある一つを除けば。


奥の壁際に異様な存在感を示す鉄の檻があったのだ。ニュースなどで、熊や猪などの危険動物が捕獲された際に映るあれである。


そして、その檻の中には、産まれたままの姿の女が入れられていたのだった。


その女は骨が浮き出るほどに痩せこけ、くぼんだ目は虚ろで、常に一点を見つめていた。

髪の毛に艶は無く、肌に張りは一切見られない。体つきから若い女性だと思われるが、一見、おばけ屋敷の老婆の姿にも見えた。


如華は自分の未来の姿を見せつけられたのである。遠のく意識の中、彼女には心の折れる音がはっきりと聞こえていた。

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