第29話 幸せの方便

 あわただしい一日だった。

 女手一つで、私を育ててくれた母親の葬式が終わった夜。

 我が家の仏壇に、真新しい母の位牌を、もう一つの位牌の横に置いた。


「これでお父さんも寂しく無くなるかな?」


 いつの間にか、私の後ろに座っていた妻が手を合わせながら言った。


「それはどうかな……四十年ぶりの再会だからね……」


 父は、私が四歳の時、交通事故で逝った。


 お互いに身寄りのない二人だった。

 母は私の為に強く生きる決心をするしか選択肢はなかった。

 あの日から母は寝食を忘れて働いた。


「お母さん……いつも、あなたの事だけを心配していたものね」


「……俺の為に人生を棒に振ったようなもんだからね。息子から見ても綺麗なひとだったのに……」


 ユラユラと立ち昇る線香の煙を目で追いながら、母と歩いた四十年を走馬灯のように思い出していた。


「そうだ! お母さんの遺品を片づけていたら、こんなものが出てきたんだけど……見覚えある?」


 妻は、朱塗しゅぬりりの小さな文箱ふみばこを私に差し出した。

 表面に描かれている黄金色の水仙と鶴が、箱の高級感を際立たせている。


「中を……見た?」


 母の普段の生活を思うと違和感を覚える箱だった。


「ううん……なんだか、見てはいけないような気がして」


 妻は躊躇ちゅうちょしていた。

 母に似て、芯は強いがひかえめな妻だった。

 いつも母を陰日向かげひなたに支えてくれていた。


〈こんな家に嫁いでくれて……ありがとうね〉


 母が妻にかけた最期の言葉だった。

 妻から朱塗りの文箱を受け取った私は、母の生い立ちを紐解ひもとくようにふたを開けた。


「これは封筒……手紙かな? それにしても、かなり時間が経っているな……」


 私は、古びた封筒を手に取ると、中に折り込まれている便箋びんせんを丁寧に取り出した。


「綺麗な字だね……」


 達筆たっぴつではないが丁寧な文字で書かれた手紙を見た時、何故だかホッとした。

 妻も私の肩越しにのぞき込んでいる。


「これは……まさか……」


 私は手紙から目を離すことができなかった。

 何度も、何度も読み返した。

 しばらく、沈黙が続いた――。

 私の頬を一筋の涙が伝って落ちた。


「お母さん……再婚……いや、駆け落ちまで考えていたのね……こんなに愛する人が居たんだね」


 妻がハンカチを手渡してくれた。


「うん……そうだね……」


 母に愛する人が居たことは正直嬉しかった。

 でも、口から出る言葉は、短く、溜息が混じっていた。


「この日付……あなたが、十歳の頃ね」


「俺が……反抗期でさ。いつも母さんを困らせていた頃だよ……」


「お母さん……どうしたかったんだろうね?」


 複雑だった。

 あの頃、もっと素直な子供だったら――。

 もっと大人だったら――。


「もし、俺が居なかったら……」


 後の言葉が続かなかった。

 私は、居たたまれず手紙を戻そうとした。

 その時、封筒から何かがこぼれ落ちた。


「これ……ごらんよ。切符だ……夜行バスの切符が……?」


 古ぼけた切符には【松山―東京八王子行】と書かれていた。

 切符には、改札を通った形跡がなかった。

 そして、その切符には、いくつかのシミがあった。

 それが母の涙のあとである事は容易に想像できた。


「あなた……その切符……見せてちょうだい!」


 何かを思い出したように、妻が私の手から切符を奪った。


「……お葬式の時ね……見慣れないお爺さんから声をかけられたの」


 妻の顔が紅潮しているのが分かった。


「それが切符と……なにか?」


「その人に『この切符を、ひつぎの中に入れて貰えないでしょうか』って……頼まれたの」


「切符を……お棺に……母さんの……?」


「そう……その切符が、今夜八時発『松山―東京八王子行』夜行バスの切符だったの……」


 古ぼけた切符を私に返しながら――妻は何かに気づいたようだった。


「その切符は?」


「とても紳士的で、真面目そうなお爺ちゃんだったから……言われた通り、棺にいれたわ」


「その老人……住所を記帳した?」


「……東京都八王子市とだけ書かれていたの」


 私も全てを理解した。

 古ぼけた切符を母の位牌の前に置くと――手を合わせた。


「母さん……俺は、もう大丈夫だから……行ってきなよ。父さんも……分かってくれるよ」


 時計の針は、午後八時を指していた。

 ゆっくりと立ち昇る線香の煙が、ほんの少し東に向かって揺れた気がした。


 その夜――。


「パパ……ありがとう。うまくいったわ」


「そうか……婿殿は信じたんだな」


「えぇ……なんだか吹っ切れたみたいで……笑顔で寝ているわ」


「いつまでも母親への引け目に捕らわれていたら、お前も、孫娘も幸せになれないからな……」


「でも、パパと、ママが駆け落ちまで考えていたなんて……知らなかったわ」


「四十年も昔の話さ……あの手紙と切符は大切な思い出なんだから、返してくれよ」


 あの夜、妻と義父が、電話越しにそんな話をしていたなんて、私には知る由もなかった。


 その事を妻から聞いたのは十年後。

 私達の一人娘に女の子が産れた――幸せな夜だった。

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