第27話 あの子の思い出を流しましょう
初夏の朝。
優しそうな老人が、柴犬を連れて公園を散歩している。
(あの子……また、あの噴水に鼻を沈めて水を飲むんだろうなぁ)
彼女はベンチに座り、ぼんやりと犬を眺めていた。
「おや……今朝はおひとりですかな?」
毎朝、同じ時間にすれ違い、挨拶をしているうちに仲良くなった二人だった。
「……はい」
彼女はうつむきがちに答えた。
「どうしました? 元気がないね。それにいつも連れているワンちゃんは……」
彼女の表情のうつろさに気づいた老人は、あとの言葉を飲み込んだ。
「おととい……散歩から帰る途中……横断歩道で車に跳ねられてしまって……」
「逝ったのかい?」
「……はい」
消え入るような声だった。
老人に向けたつくり笑顔。その瞳は涙で
老人の柴犬はシッポを振りながら彼女の
逝った犬の残り香を探しているようだった。
「あんなに可愛がっていたのに……忘れられないのなら、力になりましょうか?」
老人は
「力? あの子の事を忘れさせてくれるのですか? そんな事が出来るなら……」
彼女は辛かった。
あの時、私が手を離さなければ――。
私があの子の前を歩いていれば――。
私があの子を呼ばなければ――。
幾ら後悔しても自分を
「……お願いします。助けてください!」
彼女は、命に答えが無いのは分かっていた。でも何かにすがりたかった。
「それなら、私に着いてきなさい」
老人は彼女の手を握ると歩き出した。その力強さに彼女は、ただ従った――従うしかなかった。
「着いたよ。今の君を救ってくれるのはここしかない……」
古ぼけたビルの路地奥に、これまた古ぼけた小さな宿りがひっそりと
やや低めの軒下にはアンバランスに大きな暖簾が風もないのにユラユラと揺れている。
「『しち屋』……え? ここは質屋さんなの?」
「そう……質屋だよ。君の抱えきれない悲しみを……ここに預けてきなさい」
老人は、彼女の背中を優しく押した。
彼女は不安げに、何度も、何度も振り返った。
「いらっしゃいませ」
薄暗い店内。
その奥から、しゃがれた声と一緒に老婆が浮かび上がるように現れた。
「あの……私。ここに来ると……」
「黙っていてちょうだい!」
老婆は戸惑う彼女を静かにさせると、上から下、下から上にと舐めるように全身を
数秒の沈黙の後、シワ深い老婆の顔が、ゆっくりとほころんでいった。
「よく分かった。そうだね……期限は……二週間。それを過ぎたら流すからね。覚えときな!」
老婆は、そう言いながら、部屋の奥に入っていくと、古ぼけた手鏡を持って再び現れた。
そして、彼女に手鏡を差し出すと、その上に掌を置くように顎で指図した。
「え……ここに手を? 置くんですか?」
老婆の目を見ると何故か逆らえなかった。
彼女の
その瞬間、痺れるような感覚が彼女を包み込んだ。
「私……え? 何が、どうしたの? 今まで何を悩んでいたんだっけ?」
彼女の沈んでいた瞳に光が戻った。
深かった霧が
彼女は、忘れる事で、明るさを取り戻した。
そんな彼女を優しく見送った老婆は、質屋から出ると隣のビルに入って行った。 そこには柴犬を連れた老人が座っていた。
「あの子、質草を引取りには来るかの?」
散歩の楽しみが一つ減った事が寂しそうだ。
「どうかのぉ……」
老婆は笑いながら、部屋いっぱいに並ぶゲージを歩きながら見定めていたが、その一つの前で立ち止まった。
そこには一匹の子犬がうずくまって震えていた。
「ほら……楽しい思い出じゃぞ」
老婆は手鏡に子犬を映した。
しばらく不思議そうに鏡を覗き込んでいた子犬は、さっきまでが嘘のようにシッポを振りだすと、老婆の手に甘え始めた。
「うん……これなら、この子にも新しい飼い主が直ぐにも見つかるじゃろうて」
老婆は満足そうにうなずいた。
「しかし、あの子が『思い出』を引き取りに来たらどうするんじゃ?」
老人が尋ねた。
「その時はこの子を渡したらええ。二人の思い出がいっぱい詰まった、この子なら、喜んで飼ってくれるじゃろうて」
笑いながら老婆が言った。
「なるほどのぉ……天使もたいへんじゃなぁ」
「死神のお主には分からんことじゃて……」
老人達の笑い声がこだまするビルの看板には【捨て犬引取りセンター】と書かれていた。
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