第16話 血は争えない……蚊

 その男は悪事の限りを尽くしてきた。

 およそ犯罪と名の付くもの、全てに手を染めてきたと言っても過言かごんではなかった。


「あはは~。あの間抜けな泣き顔を思い出すと笑いが止まらないぜ……『だまされるやつが馬鹿』なのさ」


 奪い取った札束を金庫にしまいながら高笑いしている。


「痛っ!」


チクリとした鋭利な痛みが太ももに走った。見ると、腹をパンパンに膨らまし、体全体が赤く透けた蚊が、この時とばかりに血を吸い続けている。


「この野郎~! ワシの血を吸うとは……」


 右手を広げ、蚊に狙いを定めると、勢いよく打ち下ろそうとした――瞬間――グッと思い止まった。


「待てよ……こいつだって子孫繁栄しそんはんえいの為に、命がけでワシに吸い付いているんだな……」


 子供の頃に読んだ物語「蜘蛛くまの糸」を思い出した。

 男は、人差し指を蚊に近づけると左右に振り、追っ払った。


「早く逃げな……元気な卵を沢山産むんだぜ」


 訳のわからない感傷にひたっている。


「ワシが地獄に落ちたら助けてくれよ……」


 腹いっぱい血を吸った蚊は、ヨタヨタと上下しながら飛んでいる。


「お! 蚊のねえさん……ご機嫌さんで飛んでやすね~」


「おや……ハエじゃないかい。そうさね。たっぷりと血が吸えて……あたしゃ~超ご機嫌さね」


「今時、そんなにいっぱい血が吸えるなんて、間抜けな人間もいたもんでやんすね~」


「そうさね。最近は、蚊取り線香だけじゃなく……煙が出ないヤツや、壁に止まったらコロリと殺られる『卑怯だろ~シュッ』なんてヤツまであって、おちおち血も吸っていられないからね~」


「それは俺らハエも一緒でやんすよ。まぁ、ゴキブリの連中から比べたら、まだましでやんすけど」


「あいつらは、ガサツだから……わたしゃ~あの黒光りする体が大嫌いなんだよ……」


 ゴキブリを思い出した蚊の姐さんはブルッと体を一回震わせた。

 蚊の姐さん――沼に帰るとたっぷりと産卵して一服していた。


「あら~! 姐さん……こりゃまた、いっぱい産み落としたわね~」


「そうさね。奇特な男が居てね……私に気づいても叩いてこないのよ」


「へ~! ならさ……その男、私たちにも吸わせてくれるかな?」


「そうさねぇ~。アホっぽい顔していたからね……まぁ、この際だ。吸っちゃってきな!」


「ありがとう……姐さん」


「みんなも誘って行くんだよ。あ! 地獄沼の連中にも声をかけておやりよ」


「えっ? 地獄沼? あそこの連中は汚いし……臭いし……」


「同じ、蚊の仲間じゃないか。差別するんじゃないよ……早く行っといで!」


 蚊の姐さんの提案に乗った蚊の大群、数千匹が男の寝込みを襲った。

 運が悪い事に、男はその夜――犯罪の成功を祝って呑んだ酒で泥酔していた。

 蚊は、男の体を隙間なく埋め尽くした。

 数分後――男の体は赤くれあがり、かゆみを通り越して、意識を失う程の激痛が全身を襲った。

 しかし、本当に運が悪かったのは、地獄沼の蚊が媒介ばいかいする感染症の凄まじさだった。ウエストナイル熱、黄熱、ジカ熱、デング熱、日本脳炎、マラリア――。およそ考えられる感染症を全て発症して――男は、アッと言う間に逝ってしまった。


「そこの男。お前は、生前はろくな生き方をしておらんな~。地獄行じゃ!」


 閻魔えんま大王は、真っ赤な顔で男を睨みつけた。


「閻魔様……ワシは一回だけ、蚊を殺さないで逃がしてやったことがあります。蜘蛛くまの糸の例もあるんで……」


「アホか! そんなんで罪を許しておったらきりがないわい。まぁ……お釈迦様しゃかさまの気まぐれを期待するのは自由じゃがの……」


 閻魔大王の意味深な言葉を聞きのがした男は、血の池地獄に落ちて行った。


「お釈迦さま……私は、あの御仁に命を助けられました。一度だけ……助け出すチャンスを私にくださいませ」


 蚊の姐さんは、血の池地獄で苦しむ男を見かねて、お釈迦様に頼みに来たのだ。


「まぁ……あん奴にそげんな価値があるとも思えへんが、そこまで言うならやってみなはれや」


 お釈迦様は、なぜか関西訛かんさいなまりだった。


「私の娘たち! お許しが出たよ。今から行って……助けておいで!」


 蚊の姐さんの号令で、数十万、数百万の蚊の大群が血の池地獄に向かって飛び立った。


「なんだ? あの黒い雲は……いや……あれは蚊の大群じゃないか? そうか……俺を助けに来てくれたんだ!」


 男は、血の池にしずみそうになる体を、バタ足で必死に浮かせながら手を伸ばした。


「助けてくれ~! 俺はここだ! ここに居るぞ~」


「いた! あの男よ……え? え~~! なに……何なの……この素敵な光景は……」


「血よ! 血が……血が、あんなに沢山……」


「血の吸い放題よ~」


 蚊の大群は色めきだった。こんなに沢山の血を見たことが無かった。みな一斉に、血の池に降り立つと、これでもかという程――たっぷりと血を吸った。


「もうこれ以上吸えない。もうお腹いっぱい」


 パンパンにふくれ上がった腹では、自分の体重を支えて飛ぶのが精一杯。

 男を運ぶ余力など残っていなかった。


「……もう……あんな男なんてどうでもいいわ! みんな、帰りましょ」


「そうね。私達に助けてもらえると信じていたのかしら……あの間抜けな泣き顔を見て! 笑いが止まらないわ……『だまされるやつが馬鹿』なのにねぇ~」


 血の池地獄に沈んでいく男を見下ろしながら、娘たちはあざ笑っている。

 男の血を吸った、蚊の姐さんから生まれた娘たちである。

 男のDNAが少なからず混じっているようだ。

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