第14話 目から虫が出てきたら、目薬をさしても手遅れだ

 二朗は目覚めると、目に違和感があった。

 まぶたの奥に、なにか柔らかいかたまりが動いているような感覚があった。


「おはよう……」


 キッチンで朝食を作っていた、妻の有紀ゆきが振り向いた。

 左目の泣きボクロと一緒に笑っている。


「あなた……おはよう。どうしたの?」


 朝早く起きてきた二朗に妻の有紀が驚いた。


「うん。なんだか……目がゴロゴロするんだ」


「ゴロゴロ? なに……『ものもらい』でも出来たの?」


「分からないんだ? ちょっと見てくれる」


 二朗は親指と人差し指で目を広げた。やはりまぶたの奥に違和感があった。


「何もないわよ。れているところも無いし……」


「……本当に?」


「自分で確かめなさいよ。もうすぐ朝ご飯だからね……」


 有紀の言葉を背中で聞きながら、洗面台の鏡の前に立つと、指でまぶたを押し広げた。


「何も見えな……ん! 何だこれは……」


 よく見ると、まぶたの裏に小さな白い塊があった。


「なんだ……この白い塊は……アイツ、どうしてコレが見えなかったんだ?」


 二朗は、妻が見落としたことにブツブツ文句を言いながら、綿棒で塊を触ってみた。塊は、まぶたの裏から跳ねるよう飛び出すと、洗面台に転がり落ちた。


「うわっ! 動いた……え? 落ちた……」


 二朗は、その不思議な塊を捜した。

 白い塊は洗面台の底でうごめいていた。


「これは……イモ虫? いや……ウジ虫じゃないか……」


 白い塊は、手も足も無く、体全体をくねらせながらうごめいている。

 その虫をまみ上げ手の平に乗せると、キッチンにいる有紀の許に駆け寄った。


「これ……見てくれよ! まぶたの裏から小さなイモ虫が出て来たぞ」


 ウジ虫では気持ち悪がられると思った。


「何を馬鹿なことを……何処にいるのよ?」


 差し出した、手の平には、何もいなかった。

「あれ? どこかに落としたのかな……」


 二朗は、自分の足元、洗面所までの床を捜したが、何処にも虫の姿は見当たらなかった。


「もう気持ち悪い事言っていないで、朝食にするわよ……」


 妻は冗談としか思っていないが、確かに虫はいた。あのうごめく感触は手の平に残っている。


「目は治ったの?」


 朝食を囲みながら妻が尋ねてきた。


「うん……治った……でも、やっぱり、アレがいたんだよなぁ…… エ? ウェッ!」


 サラダを口に入れた途端、弾力のある何かが、舌の上をいまわる感触に襲われ、嗚咽おえつした。


「……ちょっと……ティシュを取ってよ!」


 二朗は、口を半開きにしたまま、妻に手を差し延ばすと、指先を泳がした。


「どうしたの? 舌でも噛んだの?」


 有紀が渡してくれたティシュを口に当てると、むせながら吐き出した。


「…………」言葉が出なかった。


 白いテッシュを埋め尽くさんばかりの、白い虫――ウジがうごめいていた。二朗は、顔をそらしながら有紀に見せた。


「汚いわね……そんなの物見せないでよ。サラダが勿体ないでしょ……」


「サラダ? え……虫は?」


 有紀の素っ気ない態度にうながされて、二朗はティシュを覗き《のぞき》込んだ。レタスやニンジン、胡瓜きゅうりが噛み砕かれているだけで、虫の姿はどこにもなかった。


「あなた……大丈夫? なんか変よ……」


「うん……疲れているのかな? 体から虫が出るなんて、知らない奴が聞いたら……」


 二朗の言動をいぶかしげに見つめていた有紀が、しばらくの沈黙の後に口を開いた。


「あなた……たしか……双子だったのよね? 私は逢った事がないけど……」


「え? うん……薬剤師をしている兄貴が居るけど……」


 二朗は、粗暴そぼうで怠け者の兄を嫌い、もう何年も疎遠そえんになっていた。当然結婚した事も伝えていない。


「よく言うじゃない。双子はつながりが深いから、片方に何かあると……」


 オカルト好きの有紀が身を乗り出してきた。最近特に、はまっているようだ。


「まさか……実は兄貴が死んでいて、俺が兄貴にわくウジ虫の幻覚体験をしているって? よく聞く話だぜ……」


「ほらね! よく聞く話って事は、現実に体験している人が多いって事じゃない?」


なるほど、二朗は有紀の言い分にも一理あると思った。


「これが『虫のしらせ』というやつかな?」


「一度訪ねてみたら? 隣の県に住んでいるのでしょ」


「そうだな……去年珍しく年賀状が来ていたもんな……」


 車を飛ばしたら二時間もあれば行けそうだ。

 二朗は、その日の午後、自分が経営している輸入業の会社を出ると、五年ぶりに兄の住むアパートに向かった。

 昔ながらの古い二階建てのアパートに着くと――駐車場に人が集まっていた。


「何かあったんですか?」


 二朗は、人だかりの後ろから背伸びしながら覗いている男に尋ねた。


「えっ……なんか、二階の一番端の部屋から異臭がするらしくてね。今、警察が来ているんだよ」


「一番端の部屋って……何号室なんです?」


「確か……209号じゃないかな……」


 年賀状に書いてあった住所だ。


「まさか……現実に……」


 二朗は、急いで階段を駆け上ると兄の部屋に向かった。

 入り口の前には、警察官と管理人らしき老人が立っていた。老人はカギの束でドアを開けようとしている。


「あの……すいません……」


 二朗が声をかけると、二人が振り向いた。


〈カチャ〉同時に、ドアが開錠された。


「あっりゃ? 大野さん……」


 老人が、二朗の顔を見ると、驚いたように高い声で言った。


「誰ですか?」警官が老人に尋ねた。


「この部屋の住人で、大野一郎さんじゃよ……」


「あなたが、この部屋の方ですか?」


 警官が威圧的いあつてきに言い放った。


「いや……私は……二朗……」


 一朗が、双子の兄であることを伝えようとしたとき、玄関のドアが開き、物凄い異臭が流れ出てきた。


「なんだ? この臭いは……死臭か!」


 警官は、二朗を一瞥いちべつすると、きびすを返して部屋に飛び込んだ。兄の死体を想像した二朗も、続いて飛び込んだ。


「ウッ……これは……キツイ!」


 死体が放つ強烈な臭いにむせながら、部屋の奥に歩を進めた。先に入った警官は咳き込みながら、部屋の窓を開けている。現場検証もしていないのに――。


「腐敗が激しいけど……女性の遺体だ! あんた関係者か?」


 警官は二朗に詰め寄るとにらみながら詰問した。


「知りませんよ……ましてや、女性なんて……」


 死体が直視できないでいた二朗だが、警官の威圧感にうながされた。


「え! ……これは……え!」


 腐乱しているとはいえ、そこに横たわる死体には見覚えがあった。


「有紀? え! ……有紀じゃないか……」


 言葉が出なかった。

 恨めし気に半目を開け、溶けて崩れかけているが、その顔はまぎれも無く妻の有紀だった。

 左目の泣きボクロも間違いなく有紀のそれと同じ場所にあった。


「うわ~っ~! ……奥さん……『有香ゆかさん』じゃないですか……」


 遅れて入って来た管理人が、悲鳴に近い声で叫んだ。


「この女性を知っているんですか?」


 震える管理人の肩を押させて、警官が尋ねた。


「はい……はい……大野さんの……大野一郎さんの奥さんの『有香さん』です……」


 管理人は、震える指で、二朗を指差しながら答えた。


「あなた……この女性は奥さんで間違いないですか?」


 警官が二朗に詰め寄ってきた。


「はい……確かに……私の妻ですが……そんな……朝、一緒に朝食を食べて……え? 有香……誰?」


「何を言っているんだ……この状態が、今朝まで生きていた人間だというのか?」


 警官が二朗を恫喝どうかつした後、管理人に振り返り言った。


「あなたはこの男の奥さんをいつ見ました?」


「え! 奥さんですか……そういえば、ここ一週間は見ていません……」


「この男は今朝まで一緒だったと……」


「それは、おかしい……大野さんは『一週間ほど出張だから』って私に……」


「いや、それは一郎で……私は二朗……」


 頭が混乱してパニック状態の二朗――何故か舌がしびれて呂律ろれつも回らなくなっていた。


「とにかく、あなたを連行します。言いたいことは警察では話しなさい……」


 警官は、二朗の腕を強く握ると、そのまま背後に回して絞った。任意同行でなく、逮捕に近い確保だった。

 ただ――意識が朦朧もうろうとしていく二朗には、抵抗する力も無く、近づいてくるパトカーのサイレンの音に身構える事すらできなかった。


「ただいま~今、帰ったよ……」


「お帰りなさい……え~と……一郎さんで間違いないわよね?」


「おいおい! 俺はあんな間抜け顔じゃないぜ。一郎に決まっているだろ」


 二朗に家に上り込む一郎。


「そういう、お前こそ……有香ゆかで間違いないんだろうな?」


「妻の顔を見間違う旦那さんがいますか。あのアパートに引っ越してから、ずっと付けホクロをしていたとはいえ……」


 有紀ゆきの家で待機していた有香ゆかが左目の泣きボクロをがしながら言った。


「やっぱり、ホクロの効き目は凄いな~。それだけで有紀に見えるものな~」


「効いているのはホクロだけじゃないでしょ? あの薬を、一週間前……二朗に飲ませた効果も……」


「薬剤師だぜ……俺は~」一郎が高笑いをしている。


「あんたが、一週間前に『有紀と入れ替わって、この薬を二朗に飲ませろ』って言った時には驚いたけど……案外とバレないものだわね……」


「当たり前だろ……二朗が朦朧もうろうとして、幻覚を見るように調合した薬だからな。細かい判断なんて出来るかよ~」


「なるほど……でも……虫以外に、どんな幻覚を見るか検証はしたの?」


「検証? ……なんで?」


「他に……凶暴になるとか? ……そう……有紀ゆきに対する、殺意が増幅するとか……よ」


「あはは~ 何だそれは? あの二朗が嫁に殺意? そうだったら、俺が有紀ゆきを連れ出して殺した意味がないじゃないかよ~」


 更に大笑いする一郎を、有香ゆかは青白い顔で見つめていた。


にもかくにも……これで……この豪邸も、二朗の会社も俺達のものだな」


「そうね……双子同士の夫婦がそっくり入れ替わるんだから……疑われようがないわね」


「俺たちを差し置いて、幸せな道を歩いて来た、弟と妹が悪いのさ……」


「これで……やっと『腹の虫』を収められるわ……いろいろとね……」


「いろいろ……?」


「さぁ……お疲れでしょ。玄関で立ち話しも何だから……早くリビングでくつろいでくださいな……」


 友香はリビングに振り返りながら――冷たく微笑んだ。


「しかし……なんだか……この家、変な臭いがしないかい?」


 一郎が靴を脱ぎながら、鼻を鳴らした。


「気のせい……でしょ……」


 一郎と有香は、腕を組むと仲良くリビングに消えて行った。

 ただ――有香の首に残る赤く腫れあがった索状痕さくじょうこんに、一郎は気づいていなかった。


 その頃――。

 警察の捜査一課長に刑事が殺人事件の報告をしていた。


「大野一郎……本人は弟の二朗だと言い逃れをしていますが……一応……妻の殺害を自供しました」


「一応? 一応とはなんだ……」


「それが……一週間前に妻を紐で絞殺したことは認めているんですが。殺害場所が……あのアパートでなく……自宅だと言うんですよ」


「自宅? あのアパートが犯人の自宅なのだろう?」


「それが……ねぇ……薬で脳をやられているから、戯言たわごとだと思うんですが……」


「ねぇ……じゃないだろ! そんな調書で検察に送れるかよ!」


 課長に怒鳴られた刑事は、首をすくめながら取調室に戻って行った。


「仕方ない! あいつのポケットに入っていた……この虫……ウジの線から追求してみるか……」

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