第10話 ばあさんからの十か条

 久しぶりの我が家は、思いのほか綺麗に片づけられていた。


「父さん……母さんが逝って、もう一年経つのに全然散らかってないね」


 俺は、仏壇にロウソクを灯しながら、台所で何やら、準備を始めた父に声をかけた。


「しかし、あの亭主関白だった父さんが、掃除や洗濯……自炊までするとは驚いたよ」


 線香の煙が、合掌している腕に絡みながらユラユラと昇っていく。


「あはは~。ワシもその気になったら、料理や掃除くらいできるわい」


 料理の入った鍋の取っ手を乾いたタオルでつかんで、父が台所から出てきた。


「父さん……白髪が増えたんじゃない? それに少し痩せた? 栄養ある食事……ってるの?」


 気丈に振舞ふるまっているが、母を心から愛していた父は、この一年で随分と変わった気がした。


「大丈夫じゃ。ばあさんが、こうやって料理の作り方をノートに書いて残しておいてくれたからの……」


 父は嬉しそうに、ポケットに丸めて差し込んでいたノートを取り出した。

 料理自慢の母だった。父や孫たちが手料理を頬張るのをいつも嬉しそうに眺めていた。


「ほら……これなんか、自分で言うのもなんじゃが、上手く出来とるんぞ……」


 鍋から、料理を装うと俺に差し出してくれた。


「お! 筑前煮じゃないか……これを父さんが?」


 母のように嬉しそうにうなずく父の前で、筑前煮を頬張った。


「美味い! 美味いよ……父さん。大したもんだ……ん? これは何? ……餅?」


 筑前煮の底から、白くて丸い餅が出てきた。


「父さん、餅が入っているよ……どうして?」


「それは、ばあさんが忘れていたからワシがノートに書き足した……餅じゃ」


 笑いながら胸を張る父だった。

 父から渡されたノートを見ると、母の字で書かれた「ちくぜんに」の文字の上から赤ペンで修正されていた――「ち・く・ぞ・う・に」と。


「ばあさん、字を間違えちょるうえに、雑煮には餅が入るのに……書き忘れちょってな……」


「あはは~。雑煮ぞうには分かるけど……ちくの意味は何処に……」


 料理を全く知らない父だった。


「なるほど! ……じゃあ父さん……この横のページの『きんぴらごぼう』を『こんぴらごぼう』と書き換えているのは?」


「ばあさんも、神様に失礼な間違いをするもんじゃ……」


「失礼? 神様? 何処が……」


 父は、俺からノートを受け取ると、赤ペンで書き添えた。


金比羅こんぴら? ……あの、香川の金比羅神社こんぴらじんじゃ……なるほど。これ『こんぴらゴボウ』なんだ……」


 これは笑えた。父は真顔でうなずいている。

 俺は、横目で仏壇を見て納得した。仏壇の中央に山盛りの「こんぴらごぼう」が供えられていた。

 信心深い父の優しさだった。


「父さん。ホント……料理も掃除も出来ているし……洗濯もしているんだろう?」


 あの、頑固で仕事一筋だった父からは想像できないことだった。


「ばあさんが逝く前に『この約束を守ってくださいな』と、手紙を渡されての……」


 初めて知った。そんな手紙を、母が父に渡していたなんて――。


「その手紙って……ここにあるの?」


「まぁ……そんな、大そうなもんじゃないが……」


 父は、白髪頭をきながら、引出しから封筒を取り出した。

 何度も、何度も取り出して読んだのだろう。手紙は随分と草臥くたびれていた。


「読んでもいいかい?」


「『ばあさんからの十か条』……じゃな」


 父は、筑雑煮ちくぞうにを食べながら小さくつぶやいた。


【私からおじいさんへ  約束の十か条】


【一つ】

〈子供や、孫たちに心配をかけないこと……〉

 掃除、洗濯をちゃんとしてくださいな。

 家の中が綺麗だと、生活くらしもちゃんとしていると思ってくれますからね――。


【二つ】

〈外食やインスタントじゃなくて、ちゃんと自分で料理を作ってくださいな……〉

 おじいさんにもできる、簡単で、栄養満点料理の作り方をノートに書いておきましたからね。

 読んでくださいね。

 全部、おじいさんが「美味しい」とめてくれた料理ばかりですよ――。


【三つ】

〈お経はあげなくていいですよ……〉

 おじいさんは、お経が、お下手ですから……私にあげてくれるなら、毎朝「ワシは元気だよ」と、十回唱えてくださいな。

 それだけで私は安心して成仏じょうぶつできますからね――。


【四つ】

〈靴下を買うときは、同じ色、がらを選んでくださいな……〉

 おじいさんは、格好なんか全然気にしないから、左右別々の靴下を穿いてしまいそう。

 だから、なるべく同じ靴下を揃えてくださいな。

 私はもう……いないんですからね――。


【五つ】

〈洗濯物を仕舞うときは、左から入れてくださいな……〉

 おじいさんは気づいていませんけど、タンスから服や下着を取り出すとき……いつも右側から取っていますよ。

 だから、洗濯物は左から仕舞ってくださいな。

 いつも同じ服を着ていると、ご近所の人に笑われますよ――。


【六つ】

〈子供や孫たちが来たら呼んでくださいな……〉

 あの子たちが遊びに来たら仏壇のリンを鳴らして私を呼んでくださいな。

 私も孫の成長を見たいから――。


【七つ】

〈孫たちの誕生日には、必ずプレゼントをしてくださいな……〉

 私と孫たちの約束を、おじいさんに押し付けてしまいますよ。

 孫たちの成長を代わりに見守ってくださいな――。


【八つ】

〈体に少しでも不便を感じたら、車の運転をやめてくださいな……〉

 おじいさんが車を好きなのはよく知っています。

 でも、他の誰かを傷つけてしまうかもしれないと、少しでも思ったら、車を降りてくださいな――。


【九つ】

〈逝っても、私が迎えに行くまでは、待っていてくださいな……〉

 おじいさんは、買物しても、旅行に行っても一人でスタスタと先に行ってしまって、捜すのが大変なんですからね。

 最期の時くらいは……逝っても、ちゃんとその場で、私が迎えに行くのを待っていてくださいな――。


【とお】

 おじいさん、長い間ありがとうございました。

 本当に楽しい人生でしたよ。

 おじいさんは、私の分まで長生きをしてくださいな。

 これが一番の約束ですよ。

 絶対に守ってくださいな――。



 懐かしくて、温かい母の文字だった。

 父想う、その一文、一句が嬉しかった。

 父は、俺が手紙を読み終えるのを照れくさそうに見守っていた。

 俺は、丁寧に「十か条」を封筒に戻すと、母の仏壇に供えた。

 そして、〈チーン!〉リンを鳴らすと、手を合わせた。


「母さん……父さんには、まだまだコッチに居てもらうからね。母さんの分も一緒に『親孝行』させてもらうよ。いいだろう……母さん……」


 仏壇の中で灯るロウソクの火が、優しく一回、ユラリと揺れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る