第7話 キップの選択

 三郎は、誰に後ろ指差されることなく四十年という歳月を真面目に生きてきた。

 妻と子供達に自分の生き様を自慢したいわけではないが、三郎が父親に憧れたように、子供達も自分の背中を見て育ってくれたら幸せだと思っていた。


「もう、こんな時間だ……早く帰らないと」


 腕時計をのぞき込んだ三郎は、街灯も無い路地を我が家に向かって急いだ。日付が変わってしまう前に子供達の寝顔が見たかった。


「あの……ちょっといいかの?」


「うわ! なんですかあなたは……いきなり飛びだしてきて。驚くでしょう」


 ただでさえ不気味な道を緊張して歩いていた三郎の目の前に、黒のレインコートに身を包んだ白髪の老人が立っていた。


「あっ……驚かせてしまったかの。すまんな」


「いや……こっちが勝手に驚いたのですから謝らなくてもいいですけど……」


 低姿勢の老人に少し警戒は解けたが、一抹いちまついぶかしさは残っていた。


「何か用ですか?」


「用というほどじゃないが……この切符を買ってくれんかの?」


 老人は、十枚ほど重なった切符のような束を男に差し出した。


「切符? ここで……」


 三郎は徘徊老人に絡まれたと思った。会話を進めるかどうかも躊躇ちゅうちょした。


「ほれ……この切符。お前さんのじゃないのか……覚えとらんか?」


 老人は、切符も持つ手を、更に三郎に差し出しながら言った。


「俺の切符? 爺ちゃん大丈夫かい? 俺は急いでいるから……もう行くよ」


「そうか……三郎の人生をやり直せるチャンスなのに……残念じゃな」


「え! 今、俺の名を……」


 見ず知らずの老人に自分の名前を呼ばれた三郎。家路に向かっていた足が止まった。


「あなたは……誰なんですか?」


 いぶかしげに老人を観察する三郎。深いシワに刻まれた年輪を否定するような鋭い眼光に記憶はなかった。


「そんな事より、この切符……覚えとるじゃろ?」


 三郎の質問を無視して、老人が差し出した一枚の切符。


「東京行新幹線の切符? この発券日は……」


「お前さんが、地元の大学に行くか、東京の大学に行くか悩んで買った……切符じゃ」


 あの時、地元に残っていたら、時間に追われるような日々は送っていなかったかもしれない――。三郎の脳裏に、のどかな田舎の風景と、優しい人々の笑顔が浮かんで消えた。


「これはどうじゃ。悔しかったじゃろ?」


 更に、老人が差し出した一枚の切符。


「これは……京都の旅行券……あ!」


「お前さんと彼女さんが、初めて一泊旅行に行ったんじゃったの?」


 二十歳の時に出会った彼女。三郎は運命の女性だと信じていた。人生で一度きりの恋だと思っていた。

 大学四年の夏、彼女の両親に内緒で行った旅行がバレてしまい、強引に引き離された。


「これはどうじゃ。忘れとらんじゃろ?」


 更に、老人が差し出した一枚の切符。


「……アフリカ行きの切符……あの時だ?」


 入社して四年目。アフリカ赴任の辞令が三郎に下りた。悩んだ末に辞表を出した。今の妻に出会って間もない頃だった。

 老人が差し出す切符は、どれも三郎の人生を左右する分岐点にからんでいた。やり直せるものなら、もう一度あの時に戻りたい。そんな想いが無いわけでもなかった。


「さっき、やり直せるチャンス……と言っていましたよね?」


 三郎は、老人に漂う不思議な雰囲気に包みこまれていた。


「そうじゃ。しかし……お前さんに売ってやれるのは、この中の一枚だけじゃぞ」


「切符を買ったら……どうなるんですか?」


「その日に戻って……一度だけ人生をやり直すことができる」


 老人が初めて笑った。


 三郎は、その笑顔に魅せられ――信じた。


「その切符……全部見せてくれませんか……」


 三郎は、老人の手から切符の束を受け取ると、食入るように一枚、一枚を確かめた。その度に、押し寄せる想いの波に流されそうになる三郎だった。


「これは! これは……あの時の……」


 三郎の動きが止まった。同時に、手は震え涙もあふれだした。


「これを……この切符を……」


 三郎は切符を握りしめ、老人に詰め寄った。


「お願いです…この切符をゆずってください。お願いします!」


「やっぱり……それにしたのじゃな」


 老人はみるような笑顔でうなずいた。


「ただ……お金が……今、持ち合わせはこれだけしかなくて……」


 財布の入っているバックごと老人に差し出した。


「お金は……いらんよ。その切符の代金は、もう貰っておるからの」


 老人は両手を前に出して、首を振りながら言った。


 半年前――。

 小雨が降る夕刻。三郎の仕事場に〈子供が転んで怪我をした〉と妻から電話が入った。駅の構内、通勤の電車は車両の故障で遅れるとアナウンスが流れていた。

 停留所から自宅まで街灯の無い路地を歩かなければならないが、自宅に急ぐ三郎はバスで帰る事にした。

 初老の運転手と二人きりのバス。乗客は三郎しかいなかった。


【ギッギッーキィキー】


 いきなり、叫び声のようなブレーキ音が車内に響き渡った。

 目的の停留所が見える数メートル手前――。

 バスは大型トラックと正面衝突してしまった。バスは原型をとどめ無いほどに大破した。

 初老の運転手と、三郎は――即死だった。

 あの日から、自宅に帰ろうと急いでも路地を抜け出せない三郎。

 妻と子供に逢いたくて必死に歩いても――路地を抜けると、また元の路地に戻ってしまった。


「あの時に戻りたい……あの時、バスに乗らなければ。僕は……家に帰れるんですよね? 妻と子供達に逢えるんですよね?」


 震える唇。必死で言葉を絞り出す三郎。


「そうじゃ……戻れる。家に帰れば、それまでと同じように……家族と一緒に生きていけるぞ」


 老人は再び大きくうなずいた。


「ありがとうございます。ありがとう……」


 こみ上げる喜びを噛みしめる三郎。ふと思い出したことがあった。


「そうだ……あの運転手さんに教えてあげてもいいですか? 事故に逢わないように」


 優しい笑顔で、あせる三郎をなごませてくれた初老のバスの運転手を思い出した。


「それは出来ない相談じゃ……」


 老人は、ゆっくりと首を左右に振った。


「え! ……何故です?」


「お前さんの切符の代金を払ったのは……その運転手じゃからな」


「…………」


「自分の魂を差し出して『お前にお詫びがしたい』と……な」


「…………」


 あふれる涙をぬぐおうともせず、切符を抱きしめ、何度も頭を下げる三郎。

 その姿は、徐々に暗闇の中に消えて行った。


「ただいま! 今帰ったよ……電車が故障しちゃって。遅くなって……ごめんよ……」

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