第6話 あの子のウンチ

 お城の堀が、桜の花びらで埋め尽くされてピンク色に染まったあの日。

 生まれたばかりの、あの子が我が家にやって来た。

 あの子は、おぼつか無い足取りで、あっちにヨタヨタ、こっちにヨタヨタ、まるで白いモフモフのボールが部屋の中をコロコロと転がっているみたいだった。


「こんにちは。我が家にようこそ」


 初めてのご挨拶。


「あなたはだあれ?」


 驚いたあの子は、小さな瞳を真ん丸にして、私の小指をカプリ。


「こら! 痛いでしょ」


 なのに、あの子は、嬉しそうにシッポを振っている。


「何をしたか分かっていなでしょう?」


 軽く頭をコツン。今度は、私のこぶしにジャレついて、またカプリ。結局カプリを挨拶だと勘違いして、なかなか治らなかった。


 毎日が二人の記念日だった。

 玄関に落ちないでお迎えができた日。

 散歩でカエルに驚かなくなった日。

 布団の中に忍び込んで来ても気づかなかった日。

 毎日が、あの子との記念日になった。


 ひまわりと一緒に太陽に向かって背伸びをしている――あの子との夏。


 あの子は水遊びが大好き。

 ホースを見つけると「水を出して」と大騒ぎ。だから、ほら今日も、やっぱりびしょ濡れ。


「乾くまで抱っこしないからね」


 いつも言っているのに、そんな事はお構いなしのあの子。

 だから、ほら、今日も一緒にびしょ濡れ。

 あの子はとてもお利口さん。ウンチだって、ちゃんと決められた場所にできるしね。でも、頑張り屋のあの子は、小さなウンチがシートから一欠けら転げ落ちても不満顔。

 アラ! アラ! 後ろ足で隠すようにトイレの下に押しやって、横向くあの子は知らんぷり。


「それって……反省しているのかな?」


 目の前をスイスイ泳ぐ赤とんぼを追っかけまわす――あの子との秋。

 あの子は、イタズラが大好き。

 靴の片方がよく無くなるの。


「私の靴しらない?」って聞いても――。


「知らないよ」って、ここでもあの子は知らんぷり。


 庭のアジサイの後ろに隠しているのを知っているけど。

 合わせて私も知らんぷり。

 靴が無かったら、私がどこにも行かないって思っているみたい。

 冬が近いから、赤い毛糸のセーターをあの子に編んであげたのに。次の日、セーターと同じ色の毛糸がフワフワのベッドに早変わりしていた。


「もう作ってあげないから」


 でも、気持ちよさそうだから許してあげようかな。


 舌の上に舞い落ちた雪がこんなに早く解けるのだと知った――あの子との冬。

 その日は寒い朝だった。

 あの子が、今までに聞いた事の無い声で鳴いた。

 私は震えるあの子を抱いて病院にけ込んだ。

 先生の言葉は冷たい雪のようだった。

 優しそうな看護師さんが私の代わりに、あの子を抱き上げてくれた。

 あの子は、寂しそうに私を見つめている。

 でも、私は、涙であの子を見つめ返すことができなかった。

 あの子の鳴き声は、日増しに弱くなっていった。

 ウンチをするのも、シッポを振るのもあんなに苦しそう。

 それでも、あの子は、メソメソしている私の顔をのぞき込んでは――


「どうして泣くの?」


「泣かないでよ……」


 ほほをつたう涙を一生懸命舐めてくれた。


 その日は、綿雪わたゆきが舞う寒い朝だった。

 あの子は、少しだけ顔を上げると――。


 「もういいでしょ……」私を見つめて――。


 「ワン」と一声鳴いた。


 そして――ゆっくりと、静かに――眠るように目を閉じた。


 静寂せいじゃくのなかサクッサクッと降り積もる綿雪わたゆきが私に話しかけてくる。


「あの子は、四年間の思い出と一緒にったんだよ」


「認めてあげないと、あの子が安心してけないよ」って。


 分かっているの。

 分かっているのに――。


 あの子がって三か月――。

 ――時が止まっていた私にも春が訪れた。


「あの子との思い出を……片づける時が来たんだよ」って春が訪れた。


 私は、あの子の食器を、首輪を、一つ一つ片づけながら、思い出を一つ一つ、心の奥に仕舞い込んでいった。

 そして、あの子のトイレを片づけようと持ち上げた時、隅の方からカラカラに乾いたウンチが「コロン」と床に転がり落ちた。

 あの子ったら――また、トイレからはみ出したウンチを隠したのね。


「それって……反省しているのかな?」


 なぜか可笑おかしくて。なぜだか可笑おかしくて――いつまでも、一人で笑っていた。

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