過去Ⅲ

 いよいよこの日が来た。わずかに膝が震える。胃薬は飲んできたから腹痛になる心配は無かった。だが、気持ちとしては落ち着かない。隣にいた朱莉が慰めてはくれたが、緊張が重なって吐きそうだった。話があると予め伝えておいたから準備はしていることだろう。僕は朱莉の家に上がるなり居間に足を運んだ。後ろから朱莉がついてくる。

 そこには朱莉の父、僕の義父さんになる宰彦さいげんさんが座っていた。僕を一瞥するなり、ぎろりと睨む。僕はひるんだ。「座れ」と命令調で言われ、はいと言わざるを得なかった。遅れて朱莉が座る。こんな緊張は久しぶりだった。まるで学校の何かを壊した際に校長室に呼ばれているような気分だ。(僕はそんな悪行をはたらいたことは無い)

 しばらくすると母の佑子さんも居間に着いた。お茶を煎れていたらしい。二人の前に湯呑が置かれる。しん、と静まった所で僕は話を切り出した。

「お宅の朱莉さんとお世話になっています、伊藤瞬です。今日は、朱莉さんから聞いた通り…結婚の件で、挨拶に来ました」

 義父さんは僕が気にくわないのか、細い目で舐めるように見る。嫌な汗が額に溜まる。そう簡単に認めてはくれないだろうと思っていた予感は的中した。義父さんは口を開くや否や、まるで愚痴日記たるものに書き溜めていたかのように言葉が次々と出てくる。

「…駄目や。お前さんじゃ、朱莉に合わん。そげなひょろっちい体で女子おなごを守れるか。朱莉も、こんげな男と付き合うのはやめなさい」

 朱莉の体が小さく動いた。僕は横目で彼女を見た。朱莉は、ある種の決意を固めたまなざしで己の父親を見ていた。

「父さん。私の事は好きなだけ嫌に言っていい。でも瞬くんの事は馬鹿にしないで。体は確かに細いけど、それがどうかしたの。守れる守られる立場じゃない。私だって人間よ。瞬くんを守る権利は私にもある。結婚は無理でも、付き合うのだけはやめない」

 確かな声と、ぶれない言葉だった。凛とした顔立ちがそこにある。しかし義父さんは首を横に振る。

「駄目なものは駄目や。大体、女がこう言う時点で男が駄目なっちゃんて分かるかい。我儘じゃが、それは」

 義父さんは厳格な性格であると聞いていた。案の定、僕と朱莉が結婚することを頑なとして認めてくれなかった。ここまで来て、結婚は無理なのだろうかと思っていたら、佑子さんが「そうよね」と口を開いた。僕はいよいよ場所がないと思った。しかし、実際の所は違った。

「我儘なのはあんたのほうやな。これは朱莉の決めることだよ。うちらが決めることやない。うちらのさせたいようにやっても、朱莉は一生幸せになれないよ。さびしいのは分かるけん、あんたも娘離れしなさい。瞬くんも可哀想やが、こんな人にアレコレ言われて。厳格と我儘は違うよ。朱莉もいい年じゃかい、そろそろ結婚させてもいいんじゃないの」

佑子さんには感謝している。以前、朱莉には別の彼氏―この人とは結婚は考えなかったらしい―が居たそうなのだが、その時も義父さんが口出しをしたらしい。そして今度は僕となったわけだが、今までの夫の態度に佑子さんは痺れを切らしたのかのように、あんな事を言ってくれた。

 僕はこの言葉に救われた。義父さんから、文字通り泣く泣く承諾を得た。泣きながら朱莉を抱きしめ「浮気でもしてみろ。俺はお前を一生許さんからな」と言われた。これには改めて畏怖の念を抱いたが、僕には朱莉ひとりしか見えていないから浮気なんて考えもしなかった。

 朱莉は可愛いし、なんでも出来て清く正しい女性だ。自分の元から離れるなんて考えただけでも寂しいのだろう。義父さんの気持ちも分からなくはない。そして愛娘のために男の前でも泣けるとは、ずいぶんと可愛い父親だ。…こんな事を言えば大変なことになるだろうから当然言わないでおく。

 今日は僕の家に泊まるとのことで、一緒に汽車で帰った。お互い免許は持っておらず、職場も公共のもので済ませている。僕の住みは串間くしま福島今町ふくしまいままち駅周辺で、朱莉の家は吾田あがた油津あぶらつの間あたりだ。かなり遠いから席を確保し、ごつごつしたシートに座りながらも、どこか居心地が良いと感じていた。もう日は落ちかけている。串間に着く頃には真っ暗だろう。その帰りの事だった。

「なんか恥ずかしいところ見せちゃったね。お父さんいつもああで、お母さん以上に私に溺愛してるっぽいから…」

「いや、全然いいんだよ。可愛い人じゃん」

「全然。可愛くないよ。写真取っても笑わないし、ほんとに楽しんでる?って感じ。旅行に行ってもそんな感じで。でも、やっぱり親元を離れるって、寂しいな」

「うん」

 田んぼ道の間を走る。客が少なくなってきた。僕は窓の外に目をやって、やはり朱莉も寂しいのは同じなんだと思った。これからは僕たち二人で自立していかなければならない。親に頼るのは最終手段で、最低限の事は自分たちでするのだ。そして、パートナーとなった僕が朱莉を守らなければならない。幸せにしてみせると思うと同時に、意思を固く持った。汽車は加速していっているような気がした。まるで僕たちの人生のスタートのように。


 その数日後、結婚式を挙げる準備をした。朱莉のウエディングドレス姿が美しかった。透き通るような肌に似合う純白のドレスがひらりと揺れる。りんごのように赤い頬が持ち上がった。僕はその姿に見とれて、この瞬間をずっと抱きしめていたいと思った。すでに付けている薬指のリングが、星のように煌めいた。その光は儚くて一瞬で無くなった。改めて僕は言った。

「綺麗だね。すごく素敵」

朱莉は照れているのか、頬をかきながら「そんなことないよ」と言う。プランナーも僕と同じことを言った。ただでさえ朱莉は可愛いのに、そんな素敵なものを身に付けられたら綺麗に決まっている。その反面僕は平凡な顔、立ち振る舞い、性格であった。非凡な彼女と比べたら月とすっぽん以上かもしれない。もしかしなくても、これ以外に的確に表してくれる言葉があるのだろうが、僕の記憶上、そんな言葉は見当たらない。

 式は宮崎市内で挙げることにした。親族には少し遠出をしてもらうことになるが、皆、朱莉の美しさで疲れも吹っ飛ぶことだろう。当人でもない僕は、実際の式の様子を想像して口元が綻びそうになった。慌てて襟を正し、手続きをしてから家に帰って来た。式は来月の二十五日に決まった。今日が七月の三十だから、もう少しだ。式場の予約がそんなに無くてほっとした。企業側からすれば大変なことなのだろうが、利用する側としては有難いの一言に尽きる。統合しても高価ではないから、本当に有難い。

 今日も電車で家に帰る。二人とも式の事で頭がいっぱいなのか、帰路に着くまで絶えず会話をした。家に着いても、寝る前までずっと。僕は幸せでたまらなかった。その日は曇りで雨が降りそうだったが、そんなことさえも素敵だと考えていた。

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