過去Ⅱ
小さな旅館の一屋で、僕はずっと不安でいた。さっきから脈が速くてまともに呼吸もできない。掌に人と書いて、もう何十回も飲み込んだというのに。カタカタと震えはじめていた。己の反対の手で片方の腕を強く押さえつける。必死になって大丈夫だと言い聞かせた。ポケットの中でリングが光った気がした。刹那、襖が開けられて、僕は情けない素っ頓狂な声を出した。
そこに立っていたのは女将だった。しばらく無言で僕の事を見ていたが、やがて何かに気付いたのかにやりと笑った。その不気味な笑顔に少しだけひるんだ。女将は、夕食のご用意が出来ましたのでと言うと、帰り際に言った。
「プロポーズなされるんですか」
僕は驚きのあまり大声で声を裏返させてしまった。女将はすらりとした指で口元を隠し、僕のポケットを指差した。旅館から用意された着物から、四角い物体が分かる。明らかに何かが入っているのは、一目瞭然だった。途端に僕は恥ずかしくなって、指輪のケースを背中側に隠した。女将は再度笑うと
「若いもんはそんぐらいがええですよ」
と言って去ってしまった。僕はしばらくの間動けないでいた。サプライズが朱莉にばれたわけではないのだが、一番に思っている人ではなく第三者に知られてしまったことがショックだったのだ。もう立ち直れない気がしていた。その時、扉を開ける音と、小さな足音が聞こえた。慌てて布団の下に隠した。朱莉がふすまを開けてきた。
「あ、瞬くん。もう上がってたんだね」
「…うん」
僕の陰鬱な表情に朱莉は不思議に思ったのか、前にしゃがみ込んで顔を覗いた。
「元気無い?気分悪いの?」
「いや…そんなんじゃないんだけど…」
朱莉が、なに隠してるのと言って、布団の中に突っ込んであった僕の腕を引き抜いた。僕は二度驚いた。しかし、緊張と動揺で強張った指は箱を離してはくれず、そのまま取り出された。薄暗く深い青のリングケースだった。
息を詰まらせる音が聞こえた。まず先に、朱莉の動きが止まった。少しずつ顔が赤くなる。今度はそれを見て僕の顔が赤くなる。沈黙が僕たちの間を縫っていく。二人とも呼吸はしていなかったように思える。口をはくはくさせながら朱莉が僕の名前を呟いた。
正直、台無しだった。他の人に知られ、今まで考えてきたプロポーズの言葉は墓に埋めることになる。二度と使われることもないまま。そしてサプライズもまともにできない、自分の詰めの甘さで…。
涙が零れてきた。こんなつまらない事で泣いてしまえる自分に嫌気がさしたのと、いろいろ混ざったのだろう。びっくりするぐらい、次々と溢れてきた。もう顔面はぐちゃぐちゃだった。「こんな男からプロポーズされたって、きっとどんな子でも最悪な思い出になる」。そんな風にしか考えられなくなっていた。
次の瞬間、良い
「瞬くん、ありがとう。わたしたち、やっと一つに、なれるんだね…」
その言葉でもう立ち直れなかった。涙腺が崩壊したかのように涙は止まらない。今までこんなに泣いたことは無かった。
二人して泣きながら笑った。最低なプロポーズになってしまって申し訳なかった。しかし、外は満点の星空だった。今夜くらい流れ星の一つでも見られたらいいなと思っていたが、もう十分だった。不思議な心境のまま帳は落ちる。夕食はしばらくしてから行った。腫れた眼を隠すのに、二人して必死になったのはいい思い出なのかもしれない。
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