現在Ⅱ


 伊比井駅に着いた。今度はここから少しバスに揺られて、鵜戸うどを目指す。僕は朱莉を先に下車させた。降りた瞬間、あたり一面に潮の香りがして心地よかった。思わず背伸びをした。丁度十年前、同じようなことをした記憶がある。隣で朱莉がくすりと笑った。僕もそれに笑い返して、バス停留所まで歩いて行った。

 仕事でこっちの方に来る機会が無いから、街並みも変わっているんだろうなと思ったが、案外そうでもなかった。駅を出てすぐのところの海鮮料理店も、漁師がせわしく網をいじっている様も、何が祀られているのやらわからない祠も健在だった。どれも元気そうにしている。数分も待たないうちにバスが来た。今度は僕が先に乗った。五分ほど揺られていると、目的地に着いた。清算する時、運転手の顔を見た。見覚えがあった。向こうもそうだったらしく、驚いた顔をされる。

「ん?瞬くんじゃないとけ?なんしょっとね、こんげな所で」

 訛りの激しい懐かしい声だった。この人は知っていた。いつも学校に通う際、ほとんこの人が運転手だった。斉藤さんだ。もうずいぶん歳をくっていた。顔にしわが増えていた。

「ええ、彼女と。お久しぶりです」

「彼女?…またまた。なん、ろまんちっくな兄ちゃんになりよっとか。どこ行くとか」

「十年前、プロポーズした宿に泊まりに行くんですよ。今日は港祭りも同時にあるから、一緒に見れたらなと思いまして。中々いい考えでしょう」

「…なんか。彼女とは待ち合わせか。だめど、一緒に行かんな」

  斉藤さんは豪快に笑った挙句、そろそろ行くわね、と白い手袋を付けた掌を挙げた。僕もそれに従って下車した。ここも降りてすぐの港だった。祭りの準備がなされている。屋台もたくさん出るのだろう。中年の商売屋が楽しそうに話している。僕は朱莉の手を引いて宿を目指した。宿は山道を登った所にあった。体力が必要だった。

 さほど長い距離の山道では無かったから、お喋りがてら寄り道をした。近くに滝がある。そんなに大きくはない。しかし、ここは山の水が綺麗なのだ。空気もおいしいし、夏日で照葉樹が輝いている。木漏れ日のスポットライトを浴びながら、僕と朱莉はベンチに腰かけた。鳥のさえずりと蝉の声がする。ここは涼しかった。幻想的な雰囲気だった。

「私、もう一度りんご飴食べたかったなー」

 朱莉がぽつりと呟いた。はっとして隣を見ると、少し悲しげな表情の妻がいる。僕は手を握ってやった。朱莉はゆっくりと長いまつげを伏せた。長い溜息を吐いた。相変わらずのセミロングから覗く顔は美しい。まるで天女のようだった。

「誰も悪くないんだけどねえ。強いて言うなら私が悪いのかな」

  澄んだ空気に馴染むように朱莉の声が消えていく。か細く自信のない声は、今にも折れてしまいそうだった。僕は必死になって取り繕った。

「朱莉は悪くないよ。あの出来事に、誰が悪いとか無いよ」

「そう?誰も悪くないの?」

「そう。誰も悪くないよ」

 朱莉はくすりと笑った。僕は少しむっとした。なにがおかしいのさ?と尋ねると「あの時みたいね。おうむ返し」と言った。僕も思い出した。そういえば、高校生の時にそんな会話を二人でした。懐かしい記憶が蘇る。

 一通り笑い終えた後、二人そろって腹を痛めて暫く動けずにいた。いつ振りにこんなに笑ったことか。朱莉が立ち上がり、行こうかと船頭に立つ。僕も続いて立ち上がり、再度、朱莉の手を握った。小さな滝の音が小さくなるにつれ、十年前に訪れた、何も変わらない宿が顔を見せてきた。


 外見も本当に何も変わっていない。木製の建造物で、ぼろぼろになった看板は新調する様子もなさそうだ。扉も古い押戸のままだ。蝶番がギイイっと音を立てて軋む。館内はゆったりとした感じの小物がロビーに添えてあり、受付の女将は気前のよさそうな人と変わっていない。さすがに名前は覚えていない。

「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました。予約していた伊藤様ですね?」

 僕ははいと答えた。女将は紙にメモするなり、部屋を案内してくれた。部屋は、港が見える場所だった。ごゆっくりと、と扉を閉めて出ていく。朱莉と二人きりになった僕は、なんとも懐かしい気持ちに浸っていた。この部屋ではなかったにせよ、依然、朱莉と来ているのだ。懐かしいと言わずなんと言う。朱莉も感嘆の声を漏らしながら部屋中動き回っている。やはりなんと言っても窓からの眺めがよい。標高がわずかなりとも高いだけあって、見ごたえは花丸だ 

朱莉が窓から身を乗り出していた。今でも変わらない幼さで輝く笑顔だった。僕はその表情を見て、いつも胸が締め付けられるのだ。思わずズボンの裾を握った。ぬるい夏風が、窓から入ってきた。僕の前髪は揺れたのに、朱莉の着ている控えめなワンピースは揺れなかった。


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