過去Ⅰ

 特に将来したい事もなかった当時の僕、伊藤瞬は近所である飫肥おびのS高校に入学した。中学校を卒業したら就職を考えていたが、厳しいと担任と親に言われ、半ば強制的に入学させられた。昔は在学生徒数が県内トップのマンモス校だったらしいのだが、当時の頃ですでに千人切っていた。期待も結果も予想通りで、特に緊張することもなく一年を過ごした。

学科が何種類かあるためクラス替えは無かった。入試の時の定員が四十人だったからある程度は分かっていた。が、いざ無いと知ると少し焦りが出てくる。その理由は単純だった。僕がクラスに馴染めなかったのだ。周りは知らない人ばかりで一年の頃からグループが出来ていて入り損ねた。すっかり一人ぼっちになってしまった僕は、二年の春まで一人飯だった。

中でもうちのクラスは特殊で、毎月席替えをする小学生みたいなクラスだった。席替えしてもどうせクジで引いた席には座らないのだから、最早する意味もない気がするがと思って見ていた。委員長が前に出てみんなにクジを引かせる。正直どうでもよかった。適当に引いて窓際―別に絶景が広がっているわけでもない―が当たったのは嬉しかった。

移動し終えたとき、隣が牧野朱莉であることに気付いた。その頃はまだ話したこともなく、本当にただの空気みたいな関係だった。僕に比べて朱莉は元気だった。彼女と同様、優しげなグループで固まってご飯を食べたり移動教室に行ったりしていた。一生関わることはないだろうと思っていた矢先、昼ご飯を一緒に食べようと言い出した時は目が飛び出るかと思った。

教室はいつでも騒がしい。そんな中、二人の間には不思議な空気が流れていた。そう感じていたのは僕だけだったのだろうか。

「いや?」

 朱莉は小首を傾げる。全然嫌ではなかった。ただ、何故僕となのかだけが気になった。

「いつものメンバーの子は?」

「けんかしたの」

それだけが返ってきた。僕は拍子抜けした声を出しそうになり、口元を抑えた。いいよと言うと、朱莉は小さくお礼を言って椅子を近づけてきた。心臓が高鳴った。理由は単純だった。クラスでも可愛い方だし、人で態度を変えるような人間でもなかったから、まず全員から愛されていた。そんなマドンナ的存在の女子が、味気ない僕という人間の横で昼食を取っている。この上ない優越感だった。そうしてふと思う。そんな皆から愛されるような彼女と喧嘩をしてご飯を食べないとなると、余程のことがあったのだろうか。女の友情は複雑だと聞くが、詳しいことは僕もわからない。もちろん、他にも行くあてはあるはずだ。たまたま席が近いという理由で僕を選んだのだ、そうに違いない。

そのまま特に何も話さず昼休みが終わった。結局何の時間を過ごしたのか覚えていない。思ったよりも朱莉は話しかけてくる方でもなかったし、寧ろ真面目な顔をして隣で食べられるものだから、落ち着いて昼食も取れやしないというのが本音だった。明日からは別の誰かのところで食べてくれないかな、という願いは空しく打ち消される。朱莉は次の日も、そのまた次の日も僕のところで昼飯を食べるのだった。僕は「別の人のところで食べないの?」と言えずにいた。そんな勇気は持っておらず、結局は彼女に流されて妙な昼休みの時間を過ごすだけだった。ここ一週間ほど、ずっとそうだった。

謎の昼休みが一か月近く経とうとした日、朱莉が初めて会話を切り出した。内容は僕の読んでいる本だった。

図書室から適当に選んで持ってきている本だ。何とかさんの詩集だった。

「その著者の詩、おもしろいよね」

「えっ、まあ、そうだね。おもしろいね」

「私、六十五ページ目の詩が好き」

「そうだね。六十五ページ目の詩は、僕も好き」

S高校は毎朝、朝の読書の時間とか言って本を強制的に読ませる習慣がある。その際に読むものが無いから適当に借りてきただけだった。元々読書に興味のない僕だったから朱莉との会話も、彼女の言った言葉をおうむ返しにして「おもしろいね」を付けているだけだ。傍から見たら全く釣り合っていない会話である。傍からでなくともわかる。朱莉だってわかっているはずだ、僕が返答するのが面倒だということに。

しかし、朱莉は今日も椅子を近づけてきた。何故だか知らないがゼリーも貰った。彼女の手作りだそうだ。その場で食べたが、甘かった。如何にも女の子が好きそうなスイーツだった。そして、その次の日も椅子を寄せる。今度は本を貸してくれた。随分分厚い本だった。それを満面の笑みで渡され「感想待ってる」と言われた時のプレッシャーといったら、たまったものではなかった。僕は一日で読めるところまで読み、寝る間を惜しんで本を読んだ。初めは嫌々読んでいたが、彼女の薦める本はどれも面白かった。気が付いたらページを捲り、時計を見たら日付が変わっていた、なんて事が多々あった。そんなせいか、国語の成績が少し上がった。漢字や語彙力が身についたらしい。うざったいと思っていた本の会話も、今では大声になって笑いあうほどに進展していた。

「牧野さんの持ってる本面白いね。どういう基準で買ってるの?」

「あっ…これね、実はお父さんの書斎にある本なんだ。お父さん、本が好きで、私も小さいころからいっぱい読んでたの。今はもう死んじゃったけど、まだまだ沢山あるから明後日あたりに持ってこようか?いや、もういっそのこと家においでよ。今度の日曜日あそぼう」

「えっ……それは、さすがにちょっと…」

「どうして?

「だって、僕、男だし…。第一、牧野さんの事まだあんまり知らないから…」

「それを理由にしてちゃ、いつまでも友だち出来ないよ。あーあ。私は瞬くんのこと友だちだと思ってたのに。ここまで本の趣味が合う人なんて居ないんだけどなあ」

 朱莉はわざとらしく溜息をついて見せた。程よいセミロングから覗く横顔が美人だった。僕は一瞬、息をのんだ。今度の日曜に何も予定はない。できる限りの笑みをつくって見せて答えた。

「わかったよ、行くよ。牧野さん」

「そうこなくっちゃ。あ、あと、牧野さんじゃなくて朱莉でいいよ。もう友達なんだから」

「そうだね。……朱莉」

 僕たちは時代にそぐわない指切りげんまんをして、昼休みを終えた。何故それをしたのかというと、最近話した本の内容が、そんな感じの物語だったからである。

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