成長記録その一

 私の目から見て、ルプス=クロスロードという人間は特異な人間だった。

 それはこうやって同じ屋根の下で過ごす前からも同じだった。


 ルプスはとても大人しい赤子だった。漏らしたときや腹が減った時には泣いたが、それ以外のことではめったに泣かなかない。まるで他者に自分の身体の異変を知らせるだけの装置か何かのように、それは徹底されていた。

 泣いたり食事していない時の彼は、ただひたすらに周りのことをじっと見ていた。まるでこちらを監視しているかのような行動に、周りの人間も不気味に思っていたことを覚えている。

 彼の出自はかなり特殊だ。それを知っている人間は、もしかしたらそのせいなのかもしれないと考えるものもいた。ただしその上でちょっと特別なことをしても仕方ないだろうと楽観的に考える人間と、何か危険な異常があるのではないかと疑う二者に別れたが。私は前者の人間だ。


 だから私は彼の行動をずっと見てきた。何か異変があった時にいつでも対処できるように。

 しかし共に過ごすようになってからは、彼の異常性は私にとって助かるものでもあった。子育てなどしたことがない私にとって、家の中に一人置いといても危険なことはせず、一人穏やかに過ごすその性格は楽なものだった。しかも他人を観察するような行動ばかりしてきたせいなのか、精神の成熟も言葉を覚えるのも早かった。早すぎると思うほどに。


 そして彼に対する違和感は、ある日を堺に確固たる異常であると判断できる出来事があった。

 私はルプスに外の世界と接させるために、買い出しに行くときなどは極力彼を村に連れ出した。逆に普段は極力家の中にいさせているのだが。

 それは普段からよくしてもらっている八百屋と話し込んでいたときに起きた。

 ふと、本当にただ思いついただけ。普段から大人しいため放っていたが、冷静に考えればルプスはまだ三歳にもなっていない赤子だ。目を話したすきにどこかに行ってしまうかもしれない可能性がある。

 突然そのことを思いついた私は、ルプスの方を向いた。

 …その時の感覚は忘れもしない。

 私の様子に気づいた八百屋もルプスを見て、驚いた後思わず口走っていた。


「まるで虫を観察する目だ」


 全くもって同意見だった。ルプスの視線は人を見る目ではなかった。パン屑を運ぶ蟻を観察するような目であった。先程思いついた三歳にも満たない赤子という考えは、その瞬間どこかに吹き飛んでいた。

 ルプスは私達の視線に気づいたのか、コロっと表情をすぐに変えると、無垢な少年が疑問を浮かべるような顔をした。本来であれば字面通りの行動なのだが、私にはその様子すら異常に見えた。


「どうしたんだ、じいさん?」


 そのなんともない言葉。あまりの身の変わりの早さに、八百屋は「なんだ退屈してるだけだったか」と安堵の息を吐いた。

 退屈だったからボーっとしていて、いきなり視線を受けたので疑問に思っただけ。そう説明されれば納得しかねないほど自然な行動だったが、その時の目は私に根深い不信感を抱かせた。


 だから私は不信感の原因をしっかりと思い出そうとした。

 普段の仕草と正反対の他者と接する時の飄々としたガキとしか思えないような態度。その相反する行動を、ずっと不思議に感じていた。そのことを考えていると、ふと一つのエピソードを思い出した。

 それはルプスがちゃんと会話ができるようになった当初。まだ私と共に暮らす前の話。

 当時は決して親しい仲でもなく、よく会うということも無かった私達だが、それでも時折彼とは出会っていた。会話を覚えたての彼は、私に初め敬語で話しかけてきたのだ。

 当時から軽く彼を疑っていた私だが、その敬語には思わず笑ってしまったものだ。

 別に敬語使いとしてはおかしくない。むしろその年でよく敬語を覚えたものだと思ったものだ。だがその彼が言うには妙なイントネーションを聞いた私は、思わず言わざるを得なかった。


『それではまるでおなごの言い方ではないか』


 そこでふと、彼のお世話を主にするのは彼に敬語を使う女性であったことを思い出す。きっとそのせいだろうと当時は気にもとめなかった。それが今考えてみるとどうだろうか。

 もしかしたらルプスが今のような言葉使いになったのはそれからではなかったか。それも思い出そうとするが、当時は彼の教育などしていなかったのだ。思い返せるはずもない。

 だがもしそれが本当ならば、彼は相手によって行動を変え、さらにその様子から自分の態度を変化させる術を覚えているということになる。たった三歳にも満たぬ赤子がだ。認めがたい、が八百屋でのやりとりを見た私は確信した。少なくとも目の前の八百屋はルプスの態度に騙されていると。

 しかし彼のことを異常だと考えるに至っても、私はどうすることもできず、ただ彼の成長を見守ることしかできなかった。


 そして私がそうやって苦悩する間も、時間は過ぎ去っていく。ある日のことだ。ルプスは私に外の世界のことを知りたいと言い出したのだ。その衝撃たるや。八百屋のときも忘れないと言ったが、こちらは一生涯忘れないだろう。元々老い先短い命であるが。

 というのも、ルプスはその異常性の高い行動とは違い、やることのない時は一日中自分の部屋でごろごろと惰眠を貪ってばかりいた。外に出て遊ぶでも家の中を暴れるでもなくずっとそうしているのだ。私としては都合の良いところであったが、あまりに怠惰なその姿は私に多少の苛立ちを覚えさせたほどだ。


 そんな彼が自ら物事を知りたいと言い出したのだ。そして私は気づいた。彼の本性はきっとこれなのだと。

 彼は色んなことを知りたがっている。探究心の塊なのだ。だから人の行動を観察し、女っぽいと言われたら男の言葉を知った。そして逆に知ることのない家の中では怠惰に過ごした。つまり根っからの研究者タイプ。

 それはそれで本当に二歳児かと悩むところであったが、それでも今まで苦悩を積み重ねていた自分の闇を振り払うのには十分なものだった。


 私は喜んで彼の依頼を受け入れ、早速その夜から講義を始めた。

 喜び勇む私だが、残念なことに翌日は魔物を狩る日。日中に授業を行うことができあかったが、それでも狩りの間思わず一度危険な目にあいかけるほど浮かれて、今日帰ったら何を教えてやろうかと。そんなことばかり考えていた。


 ―――そんな私を嘲るように、三度目の衝撃が私を襲った。

 私が考えていた授業計画は一瞬でお破産となった。なぜなら私が帰った途端、数週間はかけて教え込もうと思っていた内容を、彼はいきなりいくつも質問してきたのだ。

 面食らう私に彼は一日で彼の部屋に置いた本を読み終わり、分からなかったところを教えてほしいと言い出したのだ。


 私は諦めた。目の前のルプス=クロスロードという小さな化物は私の手に負えるものでない。ならばせめて彼のための贄となろう。彼がただ化物と呼ばれるだけの存在にならないために、私が手を貸そうと。


 私は全力で彼の知識探求の手助けを始めた。せめて彼が化物は化物なりに、人のためとなる化物となるようにするために。

 だがそんな私の行動を嘲るように、彼はその才能を探求力とそれを支える知識量だけでなく、他者との協調性という分野においても遺憾なく発揮した。

 今までの彼の行動は村の者に若干の不信感を抱かせていたのだが、わずか数週間の間に、それも家の外に出るのは週に二、三度であるにもかかわらず村人達の信頼を勝ち取ったのだ。特にその力が発揮されたのはあの時だろう。


 私は魔物狩りの時に彼を連れて行ったことがある。実際に目で見るというのは大事なことであり、どれだけ座学を得ようと経験のないものは役に立たない。そうして死んでいった新人を何人も知っている私は、彼に経験を積ませようとしたのだ。

 ルプスはそこで大人たちの支持に従い一切の危険と思える行動を起こさなかった。いざ戦いになったときも戦いをじっと観察し、さらに自らの護衛に隙があった場合警戒すら行ってみせた。だが私は今更そんなことでは驚かない、それでこその彼、ルプスという小さな化物だ。

 魔物狩りに行った一日の間に、彼は気性の荒い者も多い魔物狩りの一団に馴染み、今度もまた来いとまで言われるようになっていた。あまりにも早かったので彼に聞いてみると、昼休憩の時に手伝いをして仲良くなったと言ってきた。今更驚くほどのことでもない。将来の有望さに喜ぶだけでいい。


 だからこそ、私はある一つの決断をするに至った。

 危険を伴うため本来は四歳になってからと考えていたことだが、彼には今更待つ必要もないだろう。むしろ一年も待たせたら一人で勝手に始めてしまうかもしれない。

 私は三歳となった彼を朝食後呼び出し。万感の思いを込めて、必ず彼の今後を左右することになるであろうその言葉を告げた。


「お主には今日から、魔術と剣を修練して貰う」

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