♯30 聖霊

雲は間近で見ると、案外薄くてつまらない。

せっかく空を飛べるのに、そこに綺麗な夢は無かった。

少し暗くなった星空は、人でなしの私には眩し過ぎる。


トンボの翅は、私には妖精の翅に見えた。


命はいつしか、図鑑に凝っていた時期があった。

本来なら触れられない世界、出会う事のない生き物たち、それがとても眩しかった。


そして、あるページでめくる手が止まる。

それがトンボ、【蜻蛉せいれい】のページだった。


人にはない、翼への憧れ――――。


命は密かに、【害蟲】に好意を抱いていた。

だから拓舞が成った時、内心嬉しさと羨ましさで一杯だった。

そして、何故兄ちゃんなのか、と恨めしくもあった。


【害蟲】になるのは怖かったけれど、それよりも翅が生えたことが嬉しかった。

そんな自分が怖かった。


そうして今、妖精のような翅は私のもの。

ひらりと風に乗り、街の上空を舞う。

着崩した制服のえりがはためいた。


――――――――何かが追いかけて来る。


命はその気配を眼で見るように追った。

何故か神経が研ぎ澄まされ、頭が異常なまでに冴えている。


解るのだ。


そいつもまた、【害蟲】だという事。

翅はあるが同種ではない事。

見ていないのに、見える。


――――後で解ったのだが、私の眼は複眼になっていた。

ほぼ背後にいたソイツが【見えていた】のも、複眼で死角が無くなっていたからだ。


身をよじってひるがえり、錐揉きりもみ状態でこうと思った。

無駄な争いは避けたかった……のだが。


「ちょこまか翔びやがって……!!」


ソイツは私狙いだったらしい、急に角度を変えて距離を詰めてきた。

「……もう」

蜻蛉の生態を図鑑を読みまくって熟知している私は、どれだけ戦えるだろう?


試しだった。


急停止しホバリング。

相手は勢い余って横を突っ切っていく。

――――出来た!!

相手はブーンと低音を鳴らす翅をやっとのことで切り返し、こちらに向き直る。


……あり、か。

大群なら脅威だが、単体なら楽勝だ。

「……こンのォォ……!!!」

怒号とともに袖をばっと前に突き出す。

ヤツの腕を這う、それは確実に蟻だった。

赤、黒、二色、無数の蟻が無尽蔵に現れる。


――――蟻は大群であれば、相手にする際、落命を視野に入れるべき脅威になり得る。


「ソルジャァァァァァァ!!!」

軍隊、と叫ぶ声。とっさに危機を感じる。

ブーン、なんて可愛らしい音ではなかった。

ババババババ、至近距離でヘリコプターが飛んでいるくらい強烈で激しい、羽音。


普通なら翅の無い、人さえ殺す蟻。

軍隊蟻だった。


身構えた途端、自分のおかれている状況に気がつく。

制服を着崩していた事が悔やまれる。

翅を出すため背中は破れ、その切れ端が高速ではためく翅に絡まっていたのだ。


高速回避は、この切れ端を取らなければ失敗する。最悪翅が破けて、空中分解…………。


蟻は私をどうしても捕まえたいらしく、じりじりと距離を詰めてくる。


もう、好きにされるしか無いのか――――?




…………命、覚悟するのはまだ早いよ!


強力な突風のはざまに見えたのは、宝石にも劣らぬ蒼。

夕闇の茜に対を成す、晴天の蒼。


「…………奏…………」


姉の美しさに、少しけてしまう。

それは【ちょう】の翅。


妖精の翅よりも神々しい、聖霊の翅。


「……アリンコさん、ウチの妹に何してくれてんだ……?」

「い、いやぁ可愛らしいからつい、な?」

「黙れよ」

黙視では追い付かぬ速度で、蟻のすぐ後ろに飛ぶ。

首筋にわざと息を掛けるようにマウントを取った奏。手を胸に這わせ、撫でながらささやく。


「お兄さん、選んでよ……。

蟷螂カマキリのオスみたいに喰われるか、蟻のまま生きて帰るか、さ……?」


蟻はガクガクと震えている。

それが奏への恐怖か、現役JKによる脅迫に興奮しているのかは判らないが。


「お、覚えとけ!!」


蟻は焦って翔び去って行った。

「おう覚えとくよ!いつまでも、な」


「奏、ありがとう」

「いや、何も。……さ、行こ?早くしないと夜になっちゃうしさ!」

「……うん!」


そして妖精と聖霊は宵闇に溶けていく。

二人がその後どう生きていくか、その時はまだ誰も知らない。

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